気が向かないまま、僕も教室に戻る。担任が来る前に席に着いた。
 右隣には、サヤカがいる。彼女の存在を意識して、僕はやたらと気まずさを感じてしまう。
 ついさっき彼女に「覚えていない」とハッキリと伝えた。もう少し言葉を選ぶべきだったかな。感情に流されるあまり、他にどう言えばよかったのか思いつかなかった。サヤカのあの悲しそうな顔を思い浮かべると、胸が痛くなる。

 でも。それでも。これでよかったんだと思いたい。後悔もしたくない。

 覚えているふりをして関わっていくなんて無理だ。誤魔化し続けていてもいつかきっとバレてしまう。なによりも彼女に対してとても失礼だと思う。
 僕はちらりと、サヤカの横顔を見る。まっすぐ前を向いていて、なにかを思うように彼女は遠くを眺めていた。

 日中、彼女は他のクラスメイトたちとは普通に接していた。けれど、僕に話しかけてくることは一切なかった。いつもならなんでもない話題を振ってくれるのに。
 こちらからサヤカに声をかけてもいいだろうに。どうしてもそれができなかった。
 彼女に嫌われてしまったのかも、と考えはじめたら止まらなくなる。一人勝手にうじうじ悩んで、僕はなんて小心者なのだろうか。

 でも、考え込む必要なんてなかったのかもしれない。
 帰りのホームルーム後のことだ。

「ショウくん」

 サヤカが、平然と声をかけてきた。僕の裾を遠慮がちに掴んできて。

「え……なに?」
「一緒に帰ろ」
「はっ?」

 思いがけない誘いに、僕は目を丸くした。
 なんだこれ。彼女ときたら、今朝のやり取りなんてまるで忘れてしまったかのような笑顔を僕に向けてくるんだ。

「家近いし、いいでしょ? もしかして用事あるの?」

 ……ううん。用事なんてなにもない。部活にも入ってない身だし。放課後は絶賛暇人な寂しい男子高生なんだから。
 というか、さっきまでの僕の憂いはなんだったのだろうか。

 ふと教室の外を見ると──なにやらこちらを眺める人影があった。
 ユウトだ。ニヤニヤして、なんだかすごい楽しそうに僕にアイコンタクトを送ってきている。

『おー。ショウジくーん! 放課後に制服デートですかー?』

 そう言いたげな目だ。
 僕はさりげなく首を横に振り、心の声で返事をした。

『そういうわけじゃない』
『サヤカちゃんと一緒に帰るんだろ? いいなぁ。青春だなぁ!』

 くそ、あいつ……。
 僕たちがそんなやり取りをしていると、サヤカは異変に気づいたのか、ユウトの方を振り向いた。

「あれ? 三上くん」

 サヤカに気づかれると、ユウトはほんの一瞬「やべ」というような顔になったが、すぐににこやかに手を振った。

「悪い悪い。邪魔しちまったな!」
「もしかして、ショウくんと一緒に帰るの?」
「いやー。ちょうどいま、ショウジに先帰れって伝えようとしてたとこなんだ」

 は? なんで?

「今日は部活の見学に行くからな」
「部活って……。まさか、吹奏楽か?」
「ああ、そうだよ。またパーカスやりたいなと思ってさ」
 
 嬉しそうに、ユウトはドラムを叩くふりをしながらそう語った。
 中学のときから、ユウトは吹奏楽部でパーカッションを続けている。打楽器でリズムを刻む姿はすごいかっこいいんだ。
 ──羨ましい。

「だから、今日は先に帰ってな。いや、サヤカちゃんと一緒に、か!」

 ごゆっくり~と言いながら、ユウトは悠々とその場をあとにした。
 ユウトの奴……いらん気遣いをしたのかよ。

 チラッとサヤカの顔を見ると、頬がほんのりピンク色に染まっている。「じゃあ、一緒に帰ろ?」と誘ってくる彼女の声は、いつもより高かった。


 ──放課後の校内は、部活をする生徒で賑わっている。
 サヤカと二人で廊下を歩き、無言で昇降口へ目指した。
 音楽室から、吹奏楽部が練習をする音が響いてきた。合奏を始めるのだろうか、管楽器たちがB♭の音程を合わせているのが聞こえてくる。たくさんの音がひとつに重なったとき、なんとも心地よい響きが僕の耳を癒してくれた。

「ショウくんは部活に入らないの?」

 サヤカは足を止め、そう問いかけてきた。

「小学生のとき、金管バンドに入ってたよね?」
「……え」

 彼女の言葉に、僕は目を丸くした。

「どうして、それを」
「ちゃんと覚えてるよ、私」

 彼女の言うとおりだった。僕は小四の頃に金管バンドでトランペットをはじめた。思ったよりも重くて、吹くときも肺活量を沢山使う。でも、初めて音が出せたときはすごく嬉しかった。シルバーに輝くトランペットがかっこよくて、たくさん練習してダイナミックにメロディを奏でたいと思っていた。
 でも、トランペットをはじめてから数ヶ月ほどで僕は入院することになってしまった。その後はまともに曲を吹けないまま転校して。引っ越してからは一切楽器に触れていないし、たぶんいまは楽譜もあまり読めない。

「……よく覚えてるな」

 未だに、サヤカが僕の過去を知っていることに対して抵抗がある。当たり前のように、僕が話していない思い出も、彼女はスラスラと口にする。

「ショウくん、金管バンド入ったときすっごく嬉しそうだったから。吹奏楽部とか、入らないの?」
「もう楽器はやらないよ。トランペットの吹きかたも忘れちゃったから。……サヤカは?」
「うーん」

 サヤカは束の間、口を閉ざす。無言の中に聞こえてくる、吹奏楽部が奏でるメロディ。重圧で、かつ幻想的な曲が流れてきた。あの中に、そのうちユウトの打楽器のリズム音も加わるのかもしれない。
 音楽に重ねるように、サヤカは再び口を開いた。

「ショウくんが入らないなら、私も入らない」
「え?」
「私、下手だったし」
「……なにが?」
「私も、吹奏楽部だったの」

 そうだったのか……?
 僕の心臓が、ドクンと声を上げる。

「中一からクラリネット吹いてたんだけどね、上手くできなかった。憧れてた人がいて、目標にしてたんだ。……私はその人のように、綺麗な音は出せなかった。ただ連符を追うだけの、機械的な音しか……」

 しんみりした口調になると、サヤカの目が潤んだ。眉を落とし、唇を震わせ、いまにも泣きそうな顔になっている。

 突然、どうしたんだろう。彼女にかける言葉が見つからず、僕は茫然と立ち尽くす。

 僕が焦るのも束の間、サヤカはすぐさま頬を緩ませた。目の中にたまっていたものは、なんとかこぼれずに持ちこたえた。

「だからね、もうクラリネットは吹かない。吹奏楽部にも入らない。アルバイトでもしたいなぁって思ってるの」

 お金稼がないといけないし、と、サヤカは明るく語った。いまのいままで悲しそうだった彼女の面影は、もはや全くない。

「あのね、家の近くに可愛いカフェがあるんだけど」
「うん」
「帰り、寄っていかない?」
「なんで?」
「そこでアルバイトしてみたいなぁって。お店の雰囲気の調査! 一緒にきてくれない?」

 どうして僕が、と答えようとしたけれど、僕は寸前になって言葉を飲み込んだ。
 サヤカのうきうきした顔を見ると、断れなかった。