少なからず、僕は後悔した。それほど、彼女の瞳が悲哀に満ちていたから。
そうだよ。当たり前だよ。幼なじみと思っていた相手から、突然「君のことを思い出せない」なんて言われたら驚くはずだ。ショックを受けるし、悲しい気持ちにもなるだろう。
サヤカを傷つけたくない。でも、ちゃんと話をしないと。このまま誤魔化していた方が、僕らにとってもよくない。
僕は、彼女の海色の瞳をじっと見つめる。正直に、全部話すべきなんだ。
ごめん。僕は入学式の日、君に声を掛けられて「久しぶり」と返してしまった。本当は、なにも覚えていないのに。どんなに記憶を辿っても、君と過ごした思い出がひとつも出てこないのに。
嘘をついて誤魔化すのはやめたい。ちゃんと知りたい。君のことも。そして、君のお姉さんのことも。
少しずつでいい。どんな些細なことでもいい。僕に君たちのことを、教えてくれないかな?
僕の言葉に、君の海色の瞳が揺れた。君の表情は、やはり切なさで埋もれていた。
しばらく沈黙が続いたあと、君はゆっくりと口を開くんだ。
「ショウくんは、思い出したい?」
その声は、微かに震えていた。
「どんなことがあっても、私たちを思い出したいの?」
迷いを乗せたような声色だった。
でも、答えは簡単だ。僕は深く頷いてみせた。
すると君は、複雑な表情を浮かべる。
「……少しだけ待ってて。答えを出してから、どうしていくのか決めるから」
そう言って、君は僕のそばから立ち去っていった。
答えを出す? なんの答え?
僕の問いかけは、虚しくも駅にひしめく人々の足音でかき消されてしまう。
君が隣にいない通学路は、寂しい空間に変わった──
◆
学校へ到着した後、頭痛はすっかり治まっていた。
なんとなく、サヤカと顔を合わせるのが気まずい。ホームルームが始まる前まで教室には行きたくないな。
悩んだ挙げ句、僕はトイレに駆け込んだ。
個室に身を潜め、ポケットからスマートフォンを取り出した。
気になることがある。アプリを開き、僕は姉のコハルにメッセージを送信した。
《松谷アサカって人、知ってるか? サヤカの姉らしい》
送信ボタンをタップすると、数分経ってから返事がきた。
《松谷アサカさん? 誰それ》
あっさりと希望を消された。僕は肩を落とす。
でも……無理もないよな。都合良くアサカを知ってるはずがない。
アサカはサヤカの姉であるらしい。短文で、僕は素早くそう返信した。
《そうなんだ。あたしからはなにも言えないけど、北小出身の友だちで知ってそうな子がいたらそれとなく訊いてみるね。あんま期待しないでほしいけど。なにかあったらまた連絡するわ》
続いて「じゃあね」と、可愛らしい花びらのスタンプも送られてきた。
コハルは意外にも、サヤカの件に関してかなり親身になってくれている。この前の土曜日、コハルと会ったときもずいぶんと真剣に話を聞いてくれたものだ。
「そういえば……」
僕は、たちまち思い返した。コハルにも、妙なことを言われたんだっけ。
コハルにサヤカの件を相談した日のやり取りが、脳裏をよぎる──
姉のコハルと会ったその日は、あいにくの雨だった。
駅近くにある姉のアパートは、築十年ほどの建物だ。部屋に行くのは、これで二回目。一度目は引っ越しの手伝いをしたときだから、ゆっくり訪れるのは今回が初めてとなる。
アパート前に到着し、オートロックで二○三号室を呼び出した。鍵を解除してもらい、二階まで上がる。
廊下は綺麗で、まだまだ新築に感じた。
いいな、一人暮らし。自分だけが住むってどんな感じなんだろう。料理や洗濯などもちろん自分でやらなければならないが、自由に色々できるからきっと楽しいんだろうな。
アパートの階段をのぼりながら、僕はそんなことを考えた。
ほどなくしてコハルの部屋前に辿り着き、もう一度インターホンを押そうと手を伸ばした──
「ショウジー! いらっしゃい」
ガチャリと勢いよくドアが開かれた。
目の前に現れた、見慣れた顔。姉のコハルだ。きりっとした表情で僕を見ている。
Tシャツにテーパードパンツを合わせていて、なんか、お洒落な印象だ。ばっちり化粧もしていて、引っ越す前と比べてだいぶ映えた気がした。
「コハル……なんか変わったか?」
「お! 姉の変貌振りにさっそく気づくとは。さすが我が弟よ!」
コハルは僕を見上げながら、ニヤリと笑う。
どうやら、大学で出会った人と付き合うことになったらしい。恋する乙女は綺麗になるものなの、なんて言いながら目を輝かせるんだ。
ふーん。いいな、楽しそうで。ていうか、この春入学したばっかなのに展開早くね?
姉に新しい彼氏ができたことを九割どうでもいいと思いながら、僕は早速家に上がった。
「そこ座りなよ。ほら、クッション」
水玉模様のクッションを受け取り、僕は床に腰かけた。コハルは僕の斜め横で、胡坐をかいて座り込んだ。
窓の外でザーザーと雨が音を鳴らしている。降水確率百%で、湿気が鬱陶しい。
雨音から耳を背けるように、僕はコハルの方に体を向けた。
「大学生活は慣れたのかよ」
「講義はダルいけど部活は楽しいよ。毎日夕方から練習があるんだ」
「部活、結局入ったんだな。吹奏楽部だろ?」
「そうそう! 大学でも、クラリネット担当になったんだよ」
誇らしげに話しながら、コハルは棚に置かれた黒い楽器ケースを手に取った。中を開けると、黒くて細長いクラリネットが姿を現す。マウスピースの部分には【CLAMPON】と、ブランド名が記されていた。
小学四年生から、コハルはずっとクラリネットを続けている。演奏会に何度か聴きに行ったことがあるが、ステージ上でクラリネットを吹くコハルの姿はなんとも輝いていて、それに……なんというか、ちょっとだけかっこいいんだ。
大学でも吹奏楽部を続けるなんて、よほど音楽が好きなんだろうな。
「将来は音楽関係の仕事に就くのか?」
「え? それはないよ」
「ずっと楽器を続けてきたのに?」
「音楽で食べていくなんて、相当大変なんだよ。あたしはただ、クラリネットが好きなだけ。卒業して社会人になっても、趣味としてずっと続けるつもり」
そういうもんなのかな。
姉は話をわざと切り替えるように、顔を覗き込みながら口を開いた。
「そういうあんたはどうなのよ。高校で部活はやらないの?」
「ああ、そうだな……。予定はない」
「ふーん。じゃあ新生活にはだいぶ慣れてきた?」
それに関しては、可もなく不可もなくといった具合だ。クラスで絡める相手は数人できたし、担任も普通にいい先生だ。授業は無難に受けている。
ひとつだけ気がかりなのは、彼女──サヤカの件だ。彼女が何者なのかばかり考えてしまっている。
コハルに話をすることで、少しでも何かが思い出せたらいいと思う。
ガラス窓の外から微かに聞こえる雨音を打ち消すように、僕は口を開いた。
「コハルに訊きたいことがあるんだけど」
息を深く吐き、僕は事の説明を始めた。「久しぶり」と入学式の日に声をかけてきた、サヤカの話を。
姉は僕の話を怪訝そうな表情を浮かべながら聞いていたが、だんだんと真顔になっていき、静かに相づちを打った。
「松谷サヤカちゃん、か」
顎に指を置き、姉は僕の目をしっかりと捉えて小さく呟いた。
「そんな子、知らないわ」
そうだよ。当たり前だよ。幼なじみと思っていた相手から、突然「君のことを思い出せない」なんて言われたら驚くはずだ。ショックを受けるし、悲しい気持ちにもなるだろう。
サヤカを傷つけたくない。でも、ちゃんと話をしないと。このまま誤魔化していた方が、僕らにとってもよくない。
僕は、彼女の海色の瞳をじっと見つめる。正直に、全部話すべきなんだ。
ごめん。僕は入学式の日、君に声を掛けられて「久しぶり」と返してしまった。本当は、なにも覚えていないのに。どんなに記憶を辿っても、君と過ごした思い出がひとつも出てこないのに。
嘘をついて誤魔化すのはやめたい。ちゃんと知りたい。君のことも。そして、君のお姉さんのことも。
少しずつでいい。どんな些細なことでもいい。僕に君たちのことを、教えてくれないかな?
僕の言葉に、君の海色の瞳が揺れた。君の表情は、やはり切なさで埋もれていた。
しばらく沈黙が続いたあと、君はゆっくりと口を開くんだ。
「ショウくんは、思い出したい?」
その声は、微かに震えていた。
「どんなことがあっても、私たちを思い出したいの?」
迷いを乗せたような声色だった。
でも、答えは簡単だ。僕は深く頷いてみせた。
すると君は、複雑な表情を浮かべる。
「……少しだけ待ってて。答えを出してから、どうしていくのか決めるから」
そう言って、君は僕のそばから立ち去っていった。
答えを出す? なんの答え?
僕の問いかけは、虚しくも駅にひしめく人々の足音でかき消されてしまう。
君が隣にいない通学路は、寂しい空間に変わった──
◆
学校へ到着した後、頭痛はすっかり治まっていた。
なんとなく、サヤカと顔を合わせるのが気まずい。ホームルームが始まる前まで教室には行きたくないな。
悩んだ挙げ句、僕はトイレに駆け込んだ。
個室に身を潜め、ポケットからスマートフォンを取り出した。
気になることがある。アプリを開き、僕は姉のコハルにメッセージを送信した。
《松谷アサカって人、知ってるか? サヤカの姉らしい》
送信ボタンをタップすると、数分経ってから返事がきた。
《松谷アサカさん? 誰それ》
あっさりと希望を消された。僕は肩を落とす。
でも……無理もないよな。都合良くアサカを知ってるはずがない。
アサカはサヤカの姉であるらしい。短文で、僕は素早くそう返信した。
《そうなんだ。あたしからはなにも言えないけど、北小出身の友だちで知ってそうな子がいたらそれとなく訊いてみるね。あんま期待しないでほしいけど。なにかあったらまた連絡するわ》
続いて「じゃあね」と、可愛らしい花びらのスタンプも送られてきた。
コハルは意外にも、サヤカの件に関してかなり親身になってくれている。この前の土曜日、コハルと会ったときもずいぶんと真剣に話を聞いてくれたものだ。
「そういえば……」
僕は、たちまち思い返した。コハルにも、妙なことを言われたんだっけ。
コハルにサヤカの件を相談した日のやり取りが、脳裏をよぎる──
姉のコハルと会ったその日は、あいにくの雨だった。
駅近くにある姉のアパートは、築十年ほどの建物だ。部屋に行くのは、これで二回目。一度目は引っ越しの手伝いをしたときだから、ゆっくり訪れるのは今回が初めてとなる。
アパート前に到着し、オートロックで二○三号室を呼び出した。鍵を解除してもらい、二階まで上がる。
廊下は綺麗で、まだまだ新築に感じた。
いいな、一人暮らし。自分だけが住むってどんな感じなんだろう。料理や洗濯などもちろん自分でやらなければならないが、自由に色々できるからきっと楽しいんだろうな。
アパートの階段をのぼりながら、僕はそんなことを考えた。
ほどなくしてコハルの部屋前に辿り着き、もう一度インターホンを押そうと手を伸ばした──
「ショウジー! いらっしゃい」
ガチャリと勢いよくドアが開かれた。
目の前に現れた、見慣れた顔。姉のコハルだ。きりっとした表情で僕を見ている。
Tシャツにテーパードパンツを合わせていて、なんか、お洒落な印象だ。ばっちり化粧もしていて、引っ越す前と比べてだいぶ映えた気がした。
「コハル……なんか変わったか?」
「お! 姉の変貌振りにさっそく気づくとは。さすが我が弟よ!」
コハルは僕を見上げながら、ニヤリと笑う。
どうやら、大学で出会った人と付き合うことになったらしい。恋する乙女は綺麗になるものなの、なんて言いながら目を輝かせるんだ。
ふーん。いいな、楽しそうで。ていうか、この春入学したばっかなのに展開早くね?
姉に新しい彼氏ができたことを九割どうでもいいと思いながら、僕は早速家に上がった。
「そこ座りなよ。ほら、クッション」
水玉模様のクッションを受け取り、僕は床に腰かけた。コハルは僕の斜め横で、胡坐をかいて座り込んだ。
窓の外でザーザーと雨が音を鳴らしている。降水確率百%で、湿気が鬱陶しい。
雨音から耳を背けるように、僕はコハルの方に体を向けた。
「大学生活は慣れたのかよ」
「講義はダルいけど部活は楽しいよ。毎日夕方から練習があるんだ」
「部活、結局入ったんだな。吹奏楽部だろ?」
「そうそう! 大学でも、クラリネット担当になったんだよ」
誇らしげに話しながら、コハルは棚に置かれた黒い楽器ケースを手に取った。中を開けると、黒くて細長いクラリネットが姿を現す。マウスピースの部分には【CLAMPON】と、ブランド名が記されていた。
小学四年生から、コハルはずっとクラリネットを続けている。演奏会に何度か聴きに行ったことがあるが、ステージ上でクラリネットを吹くコハルの姿はなんとも輝いていて、それに……なんというか、ちょっとだけかっこいいんだ。
大学でも吹奏楽部を続けるなんて、よほど音楽が好きなんだろうな。
「将来は音楽関係の仕事に就くのか?」
「え? それはないよ」
「ずっと楽器を続けてきたのに?」
「音楽で食べていくなんて、相当大変なんだよ。あたしはただ、クラリネットが好きなだけ。卒業して社会人になっても、趣味としてずっと続けるつもり」
そういうもんなのかな。
姉は話をわざと切り替えるように、顔を覗き込みながら口を開いた。
「そういうあんたはどうなのよ。高校で部活はやらないの?」
「ああ、そうだな……。予定はない」
「ふーん。じゃあ新生活にはだいぶ慣れてきた?」
それに関しては、可もなく不可もなくといった具合だ。クラスで絡める相手は数人できたし、担任も普通にいい先生だ。授業は無難に受けている。
ひとつだけ気がかりなのは、彼女──サヤカの件だ。彼女が何者なのかばかり考えてしまっている。
コハルに話をすることで、少しでも何かが思い出せたらいいと思う。
ガラス窓の外から微かに聞こえる雨音を打ち消すように、僕は口を開いた。
「コハルに訊きたいことがあるんだけど」
息を深く吐き、僕は事の説明を始めた。「久しぶり」と入学式の日に声をかけてきた、サヤカの話を。
姉は僕の話を怪訝そうな表情を浮かべながら聞いていたが、だんだんと真顔になっていき、静かに相づちを打った。
「松谷サヤカちゃん、か」
顎に指を置き、姉は僕の目をしっかりと捉えて小さく呟いた。
「そんな子、知らないわ」