高校二年生に進級してから、二ヶ月と少し。
 新しいクラスにもやっと慣れてきたと思った矢先、大きな問題が待ち受けていた。

 現在、修学旅行の班決め真っ只中。
 一生の思い出に残るだろうイベント前の重要な時間に、俺は椅子から離れられずにいた。
(そもそも、なんで修学旅行を六月にするかな……)
 親睦(しんぼく)が深くなった十月あたりが最適だと思うのに、どうやら今年から変わったらしい。
 教師たちは高校生のコミュ力を過大評価しすぎている。
 クラスメイト全員の名前すら覚えているか怪しい俺は、この二ヶ月でゼロから仲良しの友達を作ることはできなかった。
 友達がいないわけじゃない。仲の良い友達が、別のクラスになってしまっただけ。
 いっこうに動かない俺が気になるのか、担任がチラチラと様子を(うかが)ってくる。その視線から逃げるように、体を(ひね)ってうしろを向いた。案の定、グループが決まった生徒は、楽しそうに談笑している。
 仕方ない。俺を入れてくれる優しいグループを探すか。
 意を決して重い腰を持ち上げたが、それは一人のクラスメイトによって(はば)まれてしまった。
日置(ひおき)、グループ決まってないの? 俺らのとこ来ない?」
 日本男児らしい凛々しい顔つきの彼、堀田(ほった)颯斗(はやと)は、短い髪を揺らしてニカッと笑った。同じ中学校出身の堀田は、爽やかな風貌(ふうぼう)と親しみやすい人柄から、女子の人気はもちろん、一部の男子からも憧れの的となっていた。
 残念ながら、俺はその一部に属していないし、彼と親しいほどの仲でもない。
「決まってな──」
「じゃあ決まり! こっち来いよ!」
 おいおい、話を聞いてくれ。
 なんで俺? そもそもグループのメンバーは?
 聞きたいことが山ほどあるのに、堀田は聞く耳を持たず、強引に俺の腕を引っ張った。
「日置も俺らのグループ入るって!」
「…………」
 まだ入るとは言ってないけど。それに、目の前に座る三人のクラスメイトは、興味なさそうな目つきで俺を見上げている。
 全然歓迎ムードではない空気に耐えられず、今度は俺が堀田の腕を引っ張った。
「おい! 全然歓迎されてないじゃん! なんで連れて来たの!?」
「え、みんな合意の上だけど」
「どこがだよ!」
 合意? どこが?
「さっきも聞いたけど、なんで俺な──」
「なぁ、決まったから名前書いていい?」
 話を聞かないやつばっかりなのか。
 堀田から手を離し、声の主に向き直る。グループメンバーを記入する用紙を持った、一人のクラスメイトはジッと俺を見つめていた。
 名前は、えっと……。
「渡会だっけ、俺入っていいの?」
 なんとか捻り出すことができた。
 渡会紬嵩(つかさ)。彼も堀田と同じく、女子から絶大な人気を誇る生徒だ。スラッとした長身に、スッキリした余白のない顔立ち。不意に見せる優しさに惚れてしまう……と、隣の席の女子も言っていたっけ。
「…………あ、うん。俺、渡会。よろしく」
 渡会は謎の()を置いて、パッと顔を逸らした。
 あまり俺の好感度は高くないようだ。もう少し笑顔を意識するべきだった。
「渡会の隣が仲里(なかさと)で、その隣が守崎(もりさき)
 渡会が記入している間、堀田が二人のクラスメイトを紹介してくれた。
 人懐こそうにニパッと笑う彼は、仲里晴輝(はるき)。男にしては中性的な顔立ちで、朗らかな表情からはアイドルのような愛嬌を感じる。
 手元のスマホに集中する彼は、守崎尚哉(なおや)。仲里や堀田とは反対に、近寄り難い雰囲気を(かも)し出す彼は、俳優のように整った横顔を画面に向けていた。
 二人も言うまでもなく、学内で騒がれている生徒だ。よく分からないまま、学力より顔面偏差値が高そうなグループに招き入れられてしまった。
 まぁ……もう、入れてくれるなら誰でもいいか。
 ひとまず、グループが決まったことに安堵してホッと息を吐いた。

 まだ少し肌寒い明け方。
 当日は思ったより早く来るもので、あっという間に修学旅行初日。
「日置! おはよ」
 集合場所の校庭に向かう道中、慣れ親しんだ声が背後から聞こえた。振り向くより先に隣に並んでくる、自分より少し背の低い男子生徒に「はよー」と挨拶を返す。
 彼は辻谷(つじたに)萊空(らいあ)。同じ中学出身であり、同じ部活のバドミントン部に所属している。数少ない俺の友達だ。
「忘れ物ないか心配すぎて眠れなかった」
 重たそうに垂れ下がった目尻を擦り、大きく欠伸(あくび)をする辻谷。
「俺も母さんにめっちゃ聞かれた……って、楽しみで眠れなかったんじゃないのかよ」
「あはは! 確かに!」
 辻谷の豪快な笑い声に、つられて俺も声を上げて笑った。
 ひとしきり笑いあったあと、辻谷は思い出したように話題を切り替えた。
「そういえば、誰と同じグループなんだっけ?」
「あー……それね」
 そのうち聞かれると思っていた質問に、一人ずつグループメンバーの名前を挙げる。
「うわー、堀田以外喋ったことないけど……なんでそのグループ?」
「俺が聞きたい」
「ついに日置も陽キャの仲間入りか」
「違う違う」
 わざとらしく泣く素振りを見せる辻谷に「やめろ」と言って肩を叩く。ダメージゼロの彼は「ごめん」とまた豪快に笑った。
 近況報告をしているうちに、気がつけば校庭に到着していた。まだ話していたかったけれど名残(なごり)惜しく辻谷と別れ、ちらほらと集まる生徒たちを横目に、同じグループの彼らを探した。イケメン特有のオーラで見つけやすそうだけど、これだけ生徒が多いとそう簡単にはいかない。
 メッセージを送るためにスマホを開くが、ロックを解除する間もなく、目の前に影が差した。
「おはよ」
「……はよ」
 顔を上げた先には、ジッと俺を見下ろす渡会と、まだ眠そうな仲里が立っていた。
「堀田たち、あっちいるって」
 ポケットに手を突っ込んだまま、仲里が目で場所を示す。目線をたどると「修学旅行楽しみだな」と言わんばかりの笑顔で手を振る堀田と、仲里と同じく眠そうな守崎が待っていた。

「一組からバスに移動ー!」
 校長の長い挨拶のあと、教師の指示を皮切りにワッと周りが騒がしくなる。
「長すぎ! 足いてー」
「それな。早く座りたい」
 堀田は愚痴を溢し、守崎はうんざりといった表情を浮かべた。
 俺も今すぐ、バスへ乗り込みたい。けれど、俺たち五組の順番はもう少し先だ。
「てか、バスの座席どうする?」
 仲里が流れだす二組の生徒へ目を向けた。その言葉に、渡会と守崎も顔を上げる。
「そういえば決めてなかったな」
「一番うしろの二列だっけ? 三人と二人で分かれるんでしょ」
「グッとパーで決めればよくね?」
 堀田の提案で輪になり、グーの手を中央に出し合う。
「グッとパーで……」
 仲里が掛け声を上げると、それを守崎が制した。
「やっぱ待って。誰か女子の隣になるんでしょ? 俺イヤなんだけど」
 思い出したように彼が手を引っ込める。
 そんな我儘(わがまま)に抗議の声が上がるのは当然で。
「えー、なんだよ今さら。だから一番うしろに五人で並べばいいって言ったじゃん」
「それだと会話聞こえねーじゃん」
「そん時くらい我慢しろよ」
「じゃあお前、女子の隣な」
「は? なんでそうなんの」
 もう誰が何を喋っているのか分からないけど、仲が良すぎるあまり低レベルの喧嘩をしているらしい。
 ただ傍観していた俺は、(らち)があかないと思って口を挟んだ。
「俺その席でいいよ。後部座席の真ん中」
 ワーワーと騒いでいたわりに、俺の声は届いていたらしい。ピタッと言い合いが止まり、仲里と堀田と守崎の三人は「マジで?」という顔で俺に注目する。
「じゃあ俺、日置の隣に座る」
 渡会からはまさかの立候補。
 予想外な発言に固まっていると、渡会は「いい?」と首を傾げた。隣は誰でもいい俺は、圧に押されながらもぎこちなく(うなず)いた。
「じゃあ俺は、その隣の窓際」
「じゃ、俺と仲里で前の二席な」
 渡会に続けて守崎と堀田が決め、結局話し合いで収まった。
 バスに乗り込めば、予想通り、先に座っていた隣の女子からの「お前かよ」という視線が痛い。
 なんとなく居心地が悪く、渡会のほうに寄ると、勢い余って体がぶつかった。
「あ、ごめん」
「大丈夫……寄りかかってもいいけど」
 そこまで言うなら代わってほしい。とは言えず、気持ちだけ受け取った。
 点呼確認が終わり、バスが動き出す。
 修学旅行は始まったばかりだが、もう帰りたい。

 乗車券の番号を照らし合わせ、バスと同じ組み合わせに分かれて新幹線に乗り込む。
 今度は窓際だ。テンションが上がる。
「な、窓、コレ開けててもいい?」
 バスの中に語彙力(ごいりょく)を置いてきたかもしれない。
 ブラインドを指差し、隣に座る渡会に声をかける。リュックから荷物を取り出していた彼は、ピタリと手を止めた。
「わざわざ聞かなくてもいいのに。(まぶ)しかったら言うし……外の景色好きなん?」
「うん、好き」
 景色の何がいいのと聞かれれば、答えられないけど。なんとなく好き。
 ニコリと笑みを向けると、渡会は一瞬固まったあと「…………そ」と呟いて顔を逸らした。
 そこへちょうど、五つ分のお弁当を抱えた仲里が戻ってきた。
「弁当貰ってきたよ」
「なんの弁当?」
 仲里から一つ受け取った堀田は、包装紙の隙間から中身を覗いた。
「分かんない、いろいろ入ってるやつ」
「幕末弁当か」
「……幕の内じゃね?」
 仲里がポツリと堀田に突っ込む。
 全員が顔を見合わせ、耐えきれずに笑いだした。
 幕末弁当、逆に気になるな。
 早めの昼食を済ませ、一息つく。窓の外は、まだ緑が多いが、ちらほらと建物も増えてきた気がする。
 今日は雲ひとつない晴天。窓から差し込む太陽の日差しも暖かい。自然と(まぶた)も落ちてくる。
 今寝たら、夜眠れなくなるだろうな。頭では分かっていても、眠気には抗えない。
「眠いの?」
 まどろむ俺に気付いた渡会が顔を覗き込む。
「うん」
「着いたら起こすから寝ていいよ」
 首を振ろうとするも、優しい声色がさらに眠気を誘う。
 彼の善意に甘えることにした俺は、深く椅子に座り直し、ゆっくりと目を閉じた。

 体を揺さぶられる感覚に意識が浮上する。重い瞼を開くが、ボヤボヤとしていて、起きているはずなのに、まだ夢の中にいるようだった。
「おーい、日置。起きろって」
 渡会の声が聞こえる。
 何度か(まばた)きを繰り返し、ピントを合わせる。やっとクリアになった視界に、起こしてくれた渡会が鮮明に映った。窓の外は、最後に見た緑はなく、駅構内に変わっていた。
 座席から立ち上がり、凝り固まった体を伸ばす。その時、骨の鳴る音と共に、変な声が漏れてしまった。慌てて口を(ふさ)ぐも、聞かれてしまったようで。
「大丈夫、聞いてない聞いてない」
 前を歩く渡会に気を遣われてしまった。無性に恥ずかしくなり、リュックを背負い直すと、意味もなく彼の背中を叩いた。
 季節は梅雨の六月。
 地元は晴れていたのに、関西は曇りのようだ。太陽が隠れているのも相まって、駅の外は寒かった。
 今日の予定は〝(のう)〟を観覧して旅館に向かうだけ。
 行きのバスや新幹線の移動時間が長かったぶん、能の劇場までは時間が短く感じた。
 劇場の入口には、能に使われる衣装や小道具が飾られていた。重たそうな装束(しょうぞく)を過ぎ、会場内に入るとL字に組まれた舞台が目に入る。メインステージは中央ではなく端に寄っていた。
 準備が整えば、劇場のスタッフが袖幕から登場した。
「説明するより、見てもらったほうが早いかもしれませんね」
 スタッフは軽く挨拶を済ませ、颯爽(さっそう)と舞台からおりた。このテンポのよさ、うちの校長も見習ってほしい。
 会場が暗闇につつまれ、舞台上に照明の光が集まる。和楽器を持った演者と能面で顔を覆った役者の登場に、会場内の空気はガラリと変わった。
 お経のような歌声が、静かで品のある舞に重なる。初めて見る光景に、ただただ目が釘づけになった。
 会場全体に、拍手が響き渡る。
 最後を締めくくる学年主任の挨拶で、能の体験は幕を閉じた。

「雨降ってんだけどー!」
 劇場の外から、生徒の叫び声が聞こえてくる。
 怪しいとは思っていたが、ついに降りだしたようだ。
 軒下から空を見上げると、大粒の雨が顔にぶつかった。慌てて目を擦れば、嫌な予感が走る。
「コンタクト取れた」
 小さなひとりごとは、雨音にかき消された。
 フリーズしたまま立ち尽くす俺は、密かに頭を抱えるのだった。
 今頃、旅館で横になっているだろうキャリーケースの中に、眼鏡を置いてきてしまった。コンタクトが取れるなんて、一ミリも思わなかった。
 視力を奪われた左目を開ければ、(ゆが)んだ世界が広がる。気持ち悪いから右も取ってしまいたい。
「どした? 感動したの?」
「違う、コンタクト取れた」
 目を擦る俺を泣いていると勘違いしたのか、渡会は顔を覗き込んでからかってきた。今はそんな冗談に乗っている場合じゃない。
 視界のギャップに気分が悪くなっていると、一つの打開策が浮かぶ。
「ねぇ、歩く時にどっか(つか)ませてほしいんだけど……いい?」
「……なに? どういうこと?」
 渡会は怪訝(けげん)そうに眉を(ひそ)めた。それでも、視界の悪さや転ぶリスクを細かく説明して押し通す。
 最終的に、彼は訝しんだ表情のまま頷いた。
「……分かった。いーよ」
 それは良いよの顔なのか。
「嫌なら別の人に頼むけど」
「行こ」
 せっかく気を遣ったのに、渡会は聞こえなかったフリをして傘を開いた。
 彼が何を考えているか分からないが、お言葉に甘えてリュックの紐を握る。そこへ、折りたたみ傘を忘れていた堀田と仲里と守崎が、大きな一つの和傘を持ってやってきた。劇場のスタッフからプレゼントされたらしい。
「早く移動してー」
 担任の声に、渡会と俺、堀田と仲里と守崎に分かれて雨の中を歩いた。
 なるべく迷惑をかけないように、足元を注意深く見つめる。一方、渡会は引っ張られる感覚が気に食わなかったようだ。
「こっちのほうがいい」
 そう言って手を繋いできた。
 リュックの紐を掴んでいた時より距離が詰まる。
 歩きづらくないかと心配になったけれど、思っていた以上の安心感に、振りほどくのはためらわれた。幸いにも、うしろを歩く三人から(はや)し立てられることもなかった。
 渡会はバスの座席に着くまで手を繋いでくれた。
 クラスメイトからはジロジロ見られたと思うが、今は視界が悪くて良かった。こんなの、クリアな視界で味わったら恥ずかしくて死ぬ。
「ありがと、マジで助かった」
「旅館に着いてからもでしょ? まだお礼言うの早いと思うけど」
「んぇ……あ、そうか。でもありがとう」
「うん」
 なんと、旅館に到着してからも介抱してくれるらしい。
 俺の腑抜(ふぬ)けた返事に、渡会は満足げに頷いた。

「ようこそいらっしゃいました」
 品の良い声が耳に届く。視力を奪われた俺は、声の主を見ても顔が分からない。おそらく女将(おかみ)であろう女性も、並んで迎えてくれた旅館のスタッフも、全員のっぺらぼうだ。
 ボヤける視界の中、夕食や入浴の時間について話す学年主任の声に耳を傾ける。
「部屋の鍵を受け取った班は、このまま大広間に移動!」
「え」
 飛んできた指示に声を漏らす。
 待て待て待て。先に部屋行かないの? せめて、眼鏡を取りに行かせてほしい。さすがにこれ以上視界が悪いのは不便すぎる。部屋に向かう許可を貰わなくては。
「先生に言ってこようか?」
 必死に目を()らして担任を探す俺を、渡会が察してくれたらしい。彼の声に反射的に頷けば、繋がれていた手が離れた。
「渡会どこ行ったん?」
 隣から守崎の声が聞こえた。ボヤけた視界でも整っていると分かる顔に、危機的状況を説明する。彼は納得したように頷き、仲里の名前を呼んだ。
 グループリーダーの仲里から鍵を受け取れば、タイミング良く、離れていた体温が俺の手を握った。

 落ち着いたBGMが流れる廊下に、二人分の足音が響く。相変わらず、俺の手は渡会の手に繋がれたまま。
「本当に今日はありがと」
 気まずさを紛らわせるために口を開いた。
「気にすんなって、俺も…………やっぱいいや」
 何かを言いかけた渡会が口を(つぐ)む。
「なに?」
「なんでもない」
「逆に気になるんだけど」
「……………………」
 これ以上聞くなということか。
 黙りこむ背中を見つめていると、渡会がピタリと足を止めた。どうやら、ここが俺たちの部屋らしい。視界の悪さとも、あと少しでお別れだ。
「ここで待ってて」
 急ぐ気持ちを抑え、ドアノブへ手をかける。
 ずっと繋いでいた手は、なぜかすぐにはほどけなかった。引き留められるように引かれ、名残惜しそうにスッと離れる。一瞬のことで、わざとなのか偶然なのかも分からない。
 なんだなんだ。モテるテクニックか。なんて感想を抱きながら、座敷に上がった。
 色を頼りに自分のキャリーケースを見つけ、小さなポケットに手を突っ込む。触れ慣れた素材の感触を得ると、ケースを引っ張り出し、待ち望んだ眼鏡を身につけた。
 クリアな視界に、ホッと息を吐く。それも束の間、急いで渡会が待つ部屋の入り口へと駆けだした。
「ごめん、お待たせ……うわっ⁉」
 気を抜いた俺は、掃除の行き届いた滑らかな畳に足を取られた。バランスを崩した体は大きく傾く。
 ギュッと強く目を(つむ)った先に、思っていた衝撃は襲ってこなかった。むしろ、痛みとは逆の包容力に包まれている。
「ごめん、ありがとう」
 抱き止めてくれた渡会から体を起こす。この上なく恥ずかしい。いっそ消えてしまいたい。床と見つめ合っていれば、いきなり頬を掴まれた。羞恥心に染まった赤い顔が、オレンジを放つライトの下にさらされる。
「怪我ない?」
「え、あ、うん、大丈夫、です」
 思わず敬語になる。
 渡会は固まる俺など気にせず、顔の角度を変え、頭を撫で、傷がないか探していた。
 しいて言えば、眼鏡が食い込んだ目頭(めがしら)が痛いくらいだが、そんなことより、俺はもうキャパオーバーだった。今はただ、渡会を見つめることしかできない。
「もう何でもするから許してほしい」
 そう心の中で思った。
「へぇ」
 聞こえていないはずの渡会が、意地悪そうに笑う。
 え。俺、さっきの何でもするからって、無意識に口に出してた?
 呆然と立ち尽くす俺に、ドアを開けた渡会は、()かすように目を向けてきた。真偽が分からないまま、慌ててスニーカーを履き、部屋から飛び出す。彼の隣に並べば、嬉しそうに笑みを浮かべる横顔を見上げた。
「な、さっきのこと忘れてほしいんだけど」
「やだ」
 即答。というか、やっぱり口に出してたんだ。
 何をお願いされるのだろう。明日の自由行動で何か(おご)るとかかな。あ、でもずっと介抱してもらってたし、三個くらいは言うこと聞かないといけないかも。
 不安を胸に、恐る恐る隣を窺う。
「お手柔らかにお願いします」
「うん」
 返事は微笑みと一緒に返ってきた。

 夕食が待つ大広間に入ると、仲里たちが座っている円卓へ向かった。
 席に着くなり、三人はまじまじと俺の顔を凝視(ぎょうし)してくる。
「なんか、眼鏡かけると雰囲気変わるね」
「幼く見える」
「不良にカツアゲされそう」
 散々な言われようである。そんなに似合ってないのか。
「あ、違う違う! ごめんて! 可愛いってこと」
 俺の微妙な空気を感じ取ったのか、すかさず仲里がフォローを入れた。堀田もそうそうと頷き、カツアゲされそうと言った守崎も頷く。
 可愛いと言われても、どう反応したらいいか分からない。返事に戸惑っていると、学年主任の声が響いた。
「皆さん、修学旅行一日目お疲れ様でした。移動ばかりで疲れたと思いますが、たくさん美味しいご飯を食べて、明日も頑張りましょう!」
 大広間に「いただきます」と生徒の声が反響する。同時に、食器の音や会話も大きくなった。
「なぁ、乾杯しようぜ」
 堀田が手に取ったグラスを揺らす。彼の提案に、円卓上に並んでいた瓶を開けた。堀田はコーラ、仲里と守崎はオレンジジュース、渡会と俺は烏龍茶を注いだ。
「かんぱい〜!」
 堀田の元気な声を合図に、グラスを前へ突き出す。合わさった五つのグラスは、カチャンとガラスの弾ける音を鳴らした。
「その動画送って」
 烏龍茶を喉に流し込んでいると、渡会が守崎に目配せした。
「グループに送るわ」
 いつの間にか動画を撮っていた守崎は、片手で器用にスマホをタップしている。
「多分、ストーリー動画じゃない? インスタの」
 ボーッと二人のやり取りを見ていた俺に、隣に座っていた堀田が説明してくれた。インスタというアプリは、中高生の間で人気の写真を掲載するSNS。俺はダウンロードすらしていないけど、陽のかたまりである彼らは、かなり使いこなしているようだ。
「日置はインスタやってないの? アカウント教えてよ」
 堀田は当たり前のようにスマホを取り出した。
「俺も知りたい」
「俺も! 教えて」
「ID送って」
 堀田との会話を聞いていたようで、渡会たちも続いてスマホを手にする。
「俺やってないからアカウント持ってない」
 そう答えれば、四人は一瞬の沈黙のあと、あり得ないという表情を浮かべた。別に、インスタやってない高校生はいるだろ。俺とか。
「じゃあ部屋戻ったらアカウント作ろ」
 渡会は期待するようにこちらを窺った。断るのも面倒で適当に頷けば、嬉しそうな笑みが返ってきた。
 男子高校生の食欲は旺盛(おうせい)なもので、円卓に並んでいた料理は、気付けばほとんど俺たちの胃袋に消えていた。
「皆さん、そろそろ食べ終わりましたかね? 次は時間をずらしてクラスごとの入浴になります。時間を間違えないように気をつけてください!」
 学年主任の挨拶が済めば、次々と生徒が席を立つ。特に指示がなかったので、大広間の出入り口は混雑していた。
 人の波が落ち着くまでの間。椅子に腰かけて膨れた腹を休ませていると、ポンと肩を叩かれた。
「よっ! 気分どう? 元気にイビられてる?」
 見上げた先には、辻谷が立っていた。
「イビられてない。人を舎弟(しゃてい)みたいに言うなよ……あ、聞いて、能見たあとにコンタクト取れてさ」
「あ~、だから眼鏡してんだ」
 苦い思い出を笑って聞いていた彼は、慰めるように頭を掻き撫でてきた。かと思えば、いきなり大声を上げた。
「あ、やべ! 俺一組だから風呂の準備しないと! またな!」
 小走りで出入り口へ駆けていく辻谷。
 元気な友達に乱された髪を直しつつ席を立てば、今度は隣に渡会が並んできた。
「さっきの誰?」
「部活の友達」
「…………ふーん」
 なんだか不機嫌な渡会は、そう言って目を細め、辻谷に乱された俺のボサボサな髪を撫でた。

 しおりに感想を書いたり、インスタのアカウントを作ったりしていれば、すぐに入浴時間が回ってきた。向かった大浴場は、俺たちの学校の生徒や一般の客で(にぎ)わっている。
「日置、風呂平気なん?」
 ちょうど眼鏡を外したタイミングで、渡会の声がかかった。
「大丈夫」
「転ぶなよ」
「…………善処(ぜんしょ)はする」
 自信のない返事をして、脱いだインナーシャツを(かご)に放った。
 男同士と言えど、人前で裸になるのは抵抗がある。体型に自信がないからとかではなく、普通に恥ずかしい。
 逃げるように浴場に駆けこみ、目に付いた風呂椅子に座る。持参したシャンプーを手に取って泡立てるが、量が多かったのか、泡はどんどん瞼の上まで流れ落ちてきた。手探りで回したハンドルは、捻る方向を間違えたようだ。冷たい水が、容赦なく降りかかる。
「うわ!」
「何してんの」
 隣に座ってきた男子生徒に溜め息をつかれた。声からして守崎だと思う。
「水、これお湯に変えて」
 目を閉じたまま、暗闇に向かって頼みこむ。キュッキュッと、ハンドルが回る音がすると、降りかかっていた水が徐々に温かくなってきた。
「だから平気かって聞いたじゃん」
 守崎とは反対の方向から渡会の声がした。
「ありがと。助かった」
 目元の水分を(ぬぐ)い、渡会と守崎に礼を伝えた。肌色の人型の何かにしか見えないけど、人違いだったらすみません。
「どういたしまして。洗い終わったら待ってて」
 渡会の声色に心配が滲んでいた。また、能の帰り道のように引導してくれるのだろう。さすがにそこまで迷惑はかけられない。
「マジで転ばれたら困るから」
 断りを入れようと口を開くが、先手を打たれてしまった。
 結局、渡会に手を引かれ、浴槽に向かうことになった。
 間近に来れば認識はできるもので、大理石っぽい縁が見えると、繋がれている手を引いた。眼鏡を取りに行った時とは違い、彼の手はすんなり離れる。
 ゆっくり湯船に身を沈めれば、ふぅと息を吐いた。少し熱いが気持ちがいい。
「思ったけど、日置ってプールとかどうすんの?」
 お湯が波立つ音と仲里の声が、同時に聞こえてきた。
「あ〜……中学の頃は今より視力良かったから、まだ一人で大丈夫だったし、プライベートでプールは行かない」
「高校はプールの授業ないもんな……あ、海は?」
「海は泳がないから行く」
 海という単語に、堀田と渡会と守崎も反応した。
「海いーな。行きて〜」
「そろそろ夏だし、計画立てよ」
「日帰りで行けっかな」
 なんだか海の計画を立て始めている。最初は四人だけの話かと聞き流していたが、会話の流れからして俺も頭数に入っているようだ。修学旅行が終わったら、以前の関係に戻ると思っていたから驚いた。
「にいちゃんたち、高校生か?」
 海の話題で盛り上がっていると、聞きなれない年配のおじさんの声が割り込んできた。おそらく、一般の宿泊客だろう。
「そうです。修学旅行で」
 突然の来訪に、渡会は淡々と答えた。
「はっは! もう美味いもん食うたか! どっから来はった!」
 おじさんは豪快に笑いながら、鼓舞(こぶ)するように俺の肩を叩いた。地味に痛い。
「ちゃんと食って筋肉つけなアカンよ! こんな細くてヒョロっちいと、女の子守れないやんか!」
「え……」
 突然、おじさんに腹を触られた。くすぐったさに思わず、ふっと息が漏れる。微妙な空気になりかねないと、慌てて口を押さえてももう遅い。
「おっとすまんすまん! こそばゆかったか!」
 おじさんはまた豪快に笑った。
 さっきからスキンシップが激しいとは思っていたけれど、ここまでとは。変な下心を感じないぶん、余計にたちが悪い。
 愛想笑いを浮かべて距離を取ると、体をずらした先で腕を掴まれた。反動で、ヒョロっちいと言われた体が湯船から引き上げられる。
「じゃあ、俺らもう行かないとなんで。失礼しまーす」
「ほなな! 楽しんでや!」
 おじさんの元気な声が浴場内に響いた。
 脱衣所へ着けば、俺の腕を引いていた渡会は心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫?」
「まさかセクハラされると思ってなかった」
「だよな」
「俺はそんなヒョロくない」
「あ、そこなんだ」
 嘘である。少しでも笑える空気に持っていきたくて冗談を言った。
 からかってくると思った渡会は、笑うことも慰めることもせず、俺を見つめていた。
 
 怒涛(どとう)の一日目も終わりが迫っていた。けれど、今は修学旅行。これだけで終わるわけがない。
 思い出は、記憶より写真のほうが目に見えて残る。現代っ子の彼らは、息をするようにスマホに記録を残していた。映りが良いからという理由で、部屋の狭い洗面所に五人肩を並べ、鏡越しに写真を撮った。
 満足そうな彼らを横目に、暑苦しい洗面所を出ようとすると、それは渡会によって止められた。
「日置と一緒に撮りたいんだけど……二人で」
 俺の腕を掴んだまま、渡会は期待するようにスマホを掲げた。自然な動きで俺の肩を抱き、画面の中でベストポジションを探しだす。ポーズがワンパターンしかない俺は、ずっとピースを維持してシャッターが切られるのを待った。
 撮るよ、と耳元で一言。同時に、画面が一瞬光る。もちろん、SNSを駆使している男子高校生が一枚で切り上げることはなく、追加で何枚か撮りたいとお願いされた。
 渡会との撮影を通して、ピース以外にも新しいポーズを習得した。今後、使うか分からないが覚えておこう。
「もう戻っていい?」
 スマホの画面を見つめる渡会に尋ねれば、満足したような笑みが返ってきた。
 奥の座敷には、すでに五人分の布団が敷かれていた。左側に三人分、右側に二人分、中央に頭を向ける形になっている。
「敷いてくれたんだ、ありがとう」
「どーいたしまして」
 誰が敷いてくれたのか分からず、まとめて三人に礼を伝えると、寄せられた机の端でスマホをいじっていた堀田が顔を上げた。
 やっと、疲労の溜まった体を、肌触りの良い布団に転がす。
(あ、勝手に場所決めちゃった……ま、いっか)
 新幹線で寝てしまったことを懸念(けねん)していたが、心配なく眠れそうだ。
 眼鏡を枕元に放り、じわじわと襲ってきた睡魔に身を委ねる。
「えー、まだ寝んなよ。もっと話したいのに」
 まどろみだした俺の頬を仲里が突つく。
「うーん。何話すの」
「修学旅行と言えば、恋バナでしょ」
 なんとも修学旅行らしい回答だった。
 体を反転させ、眼鏡をたぐり寄せる。隣にいると思った仲里は、三人側の中央を陣取っていた。
「日置は彼女いるの?」
 机の上にスマホを置いた堀田は、質問を投げながら仲里の隣に寝転がった。個人の時間に没頭していた渡会と守崎も、気になると言わんばかりに布団に吸い寄せられて来る。
「おもしろくなくてごめんだけど、いない」
 首を振れば、堀田はなぜか頭にハテナを浮かべた。
「あれ、でも中学の時はいたよね?」
「それ多分誤解」
「え、堀田と日置って中学一緒なん?」
 隣の布団に寝転がっていた渡会は、驚いた声を上げて体を起こした。
 てっきり堀田から聞いていたと思っていたが、どうやら違うようだ。
「そうだよ、一緒のクラスにはなったことないけど」
「三クラスしかなかったのに、逆に奇跡だよな」
 俺の返答に付け加えて堀田が笑う。
「で、誤解ってなに?」
 途切れてしまった話題を戻すように、守崎が口を挟んだ。あいにく、期待の眼差(まなざ)しを向けてくる彼が喜ぶような特別な思い出はない。
「仲良かった友達の相談乗ってたら、それを付き合ってると勘違いした人が言いふらしただけ」
「あるあるだね」
 仲里がクスッと笑った。
「どうやって誤解といたの」
 守崎はこの話の先に、まだ面白い要素があると思っているようだ。さらに質問を重ねた。
「といたっていうか、結局相談乗ってた子が本命とくっついたから、それ以来集合することもなくなって……自然消滅だと思われてるんじゃない?」
「へー、俺もそれ聞くまでは自然消滅だと思ってた」
 堀田が納得したように頷いた。
「そんな有名カップルだったんだ」
「勝手に噂が一人歩きしただけだよ。俺の話終わり、てか彼女持ちいないの?」
 渡会の探るような視線から顔を逸らし、俺よりも学年の女子全員が気になっているだろう話題に切り替えた。四人を見れば、口を揃えて「いた」と言った。「いる」ではなく「いた」ということは、今はフリーのようだ。
 気になった俺は、四人の元カノ談を尋ねてみた。
 単純に趣味が合わなかったからと、それらしい理由もあれば、精神的に重い元カノの話もあり、逆に軽薄な元カノの話もあった。
「重さで言ったら、渡会もだいぶ重いけどな」
 精神的に重い彼女と付き合っていた過去を持つ守崎は、自身の話の途中でそんなことを言い出した。
「元カノが?」
 話の流れで元カノの性格かと思ったが、守崎は首を左右に振った。
「いや、渡会自身が」
「へぇ」
「別に普通だけど」
 視線を向けた先の渡会は、心外だと言うように肩をすくめた。
「重いっていうか、嫉妬深いというか」
「隙がなくて逆に怖いらしいよ」
 仲里と堀田は、コソコソ話をする素振りで俺にささやきかけてくる。
 渡会は尽くしたいタイプの人間らしい。たしかに、思い当たる(ふし)は今日を思い返すだけで山ほどある。
「あと、勘違いさせてくるっていう十代女性からの口コミもありました」
「レビューみたいに言うなよ」
 ふざけてからかう仲里に、渡会は溜め息をついた。
 ちなみに、俺はそのレビューを今日体験していた。さりげなく手を繋いだり、逆に名残惜しそうに手を離したり、気遣いも含めればキリがない。
「俺の話終わり」
 ヘソを曲げてしまった渡会は、ポスンと枕に頭を預けた。抗議の声が上がったが、答える気はないらしい。
「えっと、じゃあ、好きなタイプは?」
 みんなの意識が逸れるように口を挟む。
 もっと(かじ)を切って全然違う話をすれば良かった。でも、好きを語るだけなら誰も傷つかないだろう。
 修学旅行の夜は、まだまだ長引きそうだ。 
 朝か。きっと朝なんだろうな。
 頭で理解しても、体は(なまり)のように動かない。まだ夢の中に浸っていたくて、目の前の何かに(すが)る。
 まだ起きたくない。あと二時間は寝たい。
「日置、日置起きろって」
 そんな俺の願いも虚しく、周りの音が騒がしくなり、体を揺さぶられた。やっと重い瞼を持ち上げると、眩しさでグッと眉間に(しわ)が寄る。
 しかめ面をして数秒。ボヤける視界を瞬きで整えた。手探りで眼鏡を探せば、そっと手を取られ、手のひらに細いフレームの感触を得た。
「起きた? おはよ」
 クリアになった視界の先で、渡会が柔らかい笑みを浮かべていた。開け放たれた障子から差し込む朝陽と相まって、すごく眩しい。
「日置! おはよう! 遅い!」
 突然背後から飛んできた大きい声に、肩を跳ねさせ振り返る。そこには仁王立ちの学年主任が、どっしりと構えていた。
「……え、あ、おはようございます。すみません」
 状況が理解できないまま、慌てて挨拶と謝罪を返す。周りには、まだ起きない仲里と守崎に手を焼いている、担任と堀田の姿が見えた。
 そういえば、朝の巡回時間を確認していなかった。運が悪くも、俺たちはその時間前に起きることはできなかったようだ。
 のろのろと洗面所へ向かい、身支度を整える。客間に戻ると、仲里と守崎はやっと起きたようで、学年主任と担任から軽くお叱りを受けていた。
 疲労の滲んだ教師陣を見送り、緊張が解けた俺は、また布団に突っ伏した。寝ようと思えば寝れる。
「おっ、朝陽すげーな」
 堀田の声に、ピクリと体が反応する。彼の目線を追って立ち上がると、窓の外を見た。
 この旅館が建つ土地は、住宅街より高い。目を凝らせば海も見える。
 昇ってきた太陽に、キラキラと照らされる街並みは美しいものだった。
「朝陽綺麗だな」
「朝陽とか朝焼けが一番綺麗だと思う」
「写真撮っとこ」
 窓際に集まっている仲里と堀田と守崎は、目の前の景色に感嘆の声を漏らした。
「日置もこっち来なよ。朝陽すごい綺麗……日置?」
 こちらを振り返った渡会の表情は、困惑が混ざっていた。他の三人も渡会の反応に疑問を持ったようで、同じように振り向き、同じように戸惑いの表情を浮かべた。
 それもそうだ。
 だって、俺の顔が赤くなっているのだから。
 いたたまれずうつむくと、手で顔を覆い隠した。理由も理由なので余計に恥ずかしい。
 しばらくして畳を擦る音が聞こえ、肩に優しく手が触れた。
「どした? 体調悪い?」
 渡会の声に弱々しく首を振った。
「やっぱ先生に言ったほうが……」
 あまりにも様子がおかしい俺に、堀田も口を開く。
 微妙な空気にしてしまった自分に、恥ずかしさよりも罪悪感が勝った。
 うつむいたまま、顔を覆っていた手を()がす。きっと、まだ顔は赤いままだろう。
 誰もからかうことなく、俺の言葉を待っていた。
 そうか。やっぱ言わなきゃダメか。ダメだよね。
「…………………………から」
 静かな部屋に落ちたとは思えないほど、か細い声だった。
「ん?」
 渡会がそっと手を握ってくれる。
「………………………だから」
「いいよ、ゆっくりで」
 どうしても小さくなってしまう声を、四人は辛抱強く待ってくれた。
 言ってしまえ。あとのことはその時考えろ。
 意を決して、小さく息を吸う。
「……お、俺の……名前が、…………朝陽(あさひ)だから」
 口に出せたのは良いものの、改めて言葉にするとアホらしい。
 つまりはこうだ。俺の名前は朝陽。四人が朝陽が綺麗だとかなんとか言うから、寝起きの脳は勝手に褒め言葉として受け取ってしまったわけだ。
 危惧(きぐ)していた通り、俺と四人の間に、しばらく沈黙が流れた。
 どうしよう。「なんちゃって」とか言ってみる? あんなに恥ずかしがって心配させたあとなのに? 窓から突き落とされる未来しか見えない。
 本当にどうしよう。誰か助けてくれ。
「なにそれ、可愛い」
「え」
 思いもしなかった言葉に、反射的に顔を上げた。けれど、状況を理解する前に、いつの間にか渡会の腕に抱き締められていた。
「焦ったー! もっと深刻なことかと思った」
「俺も、持病とかそっち系の」
「無駄に緊張したわ」
 渡会の腕の中で、彼の肩越しから仲里と堀田と守崎を窺う。三人とも、胸を撫で下ろして笑っていた。
 何の奇跡か、軽蔑(けいべつ)(まぬが)れたようだ。なんていい奴らだ。
 心優しいグループメンバーの反応に冷静を取り戻し、渡会から体を離した。
 物理的にも水に流してこよう。タオルを手に取ると、火照った体を冷ますため、また洗面所へ向かった。

「皆さん、おはようございます! よく眠れましたかね? かなりリラックスしすぎていた生徒もいたようですが」
 大広間に学年主任の声が響く。チラッと向けられた視線に、俺たちはいろんな方向へ顔を逸らしてしまった。動じずにいれば良かったものの、これでは〝自分たちのグループです!〟と自白しているようなものだ。
 修学旅行二日目の朝食は和食だった。昨日の新幹線で食べた幕の内弁当と似たような献立だけど、できたての温かいご飯は格別に違う美味しさがあった。
 普段より豪華な朝食を堪能する中、同じグループの彼らは浮かない表情で箸をすすめていた。
 その理由はなんとなく分かっていた。おそらく四人が懸念している、今日のビッグイベント。
「そんな嫌なの? 自由行動」
 同じタイミングで、四つの頭が縦に揺れた。
 自由行動は女子のグループと一緒に回ることになっていた。顔面優良物件が揃うこのグループとの行動権を勝ち取った女子グループは、それはそれは嬉しそうに盛り上がっていたのを思い出す。
 そこまでテンションを下げなくてもいいのでは……と思ったが、昨夜の恋バナ(という名の傷えぐり大会)を聞いたあとだと、彼らが肩を落とす理由も納得できてしまった。
「ずっと先生が監視してるわけじゃないし、集合時間決めて解散すれば?」
「……一理ある」
 短く答えて黙り込んだ仲里は、口に含んだ白米と俺の言葉をやっと咀嚼(そしゃく)できたようで、急に「それだ!」と表情を明るくした。希望が見えるやいなや、仲里を筆頭に、この場の雰囲気も元気を取り戻した。
 俺たちが自由行動で向かう場所は、最近テレビでも取り上げられたテーマパーク。新設されたばかりで、今のところ評判も良い。
「日置はジェットコースター無理なんだよな」
 朝はあまり食べない派らしい守崎は、そう言いながら箸を置いた。
 守崎が言った通り、俺は絶叫系が苦手だ。だから、留守番係をする予定。
 肯定するように頷くと、彼は小首を傾げた。
「何なら乗れそう?」
「激しくなければ乗れるけど」
「じゃあ、俺らがいない間、メリーゴーランド乗ってれば?」
「嫌だよ」
 首を振れば、何を楽しみに行くのか不思議そうに見つめられ、思わず目線を逸らす。
 実は、行き先を決める時にテーマパーク以外の候補も上がっていた。絶叫アトラクションが乗れないと言う俺に、四人は行き先を変えようと気を遣ってくれたのだ。けれど、「行けば楽しめる」という自信を武器に、なんとか説得をした。
 自分の都合だけで、グループの雰囲気を壊したくなかった、というのは建前(たてまえ)で。本当は女子の圧力を感じたから。全くもって自分の意思ではない。
「はい、皆さん食べ終わりましたか? 今日もたくさんスケジュールが詰まっていますが──」
 待ち時間の潰し方を考えていれば、学年主任の声が耳に届いた。もう朝食の時間は終わってしまったようだ。今日は別のホテルに泊まるので、ここの旅館で食事をするのはこれで最後。そう思うと、少し寂しい気がした。
 昨晩とは違い、出入り口が空く前に席を立つと、昨晩と同じく、渡会が隣に並んだ。
「今日は二人で前の席に座ろ」
「いいけど……三人はそれでいいの?」
「さぁ? いいんじゃない」
 渡会は軽く返事をして、クルッとうしろを振り返った。
「今日のバス、俺と日置で座るから」
 提案ではなく報告をした渡会は、それだけ伝えてまた前に向き直った。文句が飛んでこないということは、見事了承を得たのだろう。
 女子の隣決定戦のジャンケンをしているのか、背後から阿鼻叫喚(あびきょうかん)が聞こえてくる。仲里の悲痛の叫びに苦笑を溢すと、ふと疑問が浮かんだ。
 俺の隣は楽しいのだろうか。
 基本的に話しかけられたら答えるし、俺からも何かあれば声をかける。何もなければ何もしない。ただそれだけ。会話が面白いわけでもない。
 考えれば考えるほど、謎である。
 隣を歩く渡会を見上げれば、視線に気付いた彼は、端正な整った顔をこちらに向けた。
 聞いてみようか。俺の何がいいの?って。
「…………」
 いや、やっぱ無理。面倒くさい恋人かよ。
 結局口には出せず、代わりに別の言葉を口にした。
「楽しみだな」
「うん」
 隣からは嬉しそうな返事が聞こえた。

 旅館のスタッフに見守られ、バスは発車した。道路の角を曲がるまで手を振ってくれるスタッフに、控えめに手を振り返し、見慣れない街道へと目を移す。
 昨夜は雨だったが今日は快晴。雨の名残を留める地面を、太陽が水面(みなも)のようにキラキラと照らしていた。
「そういえばさ、日置は休日とか何してんの?」
 窓の外を眺めていると、渡会が声をかけてきた。
 彼の質問に、意味もなく「んー」と唸る。熱中している趣味がないから、コレ!という回答ができない。何かないかと最近の休日を思い返した。
「姉の荷物持ちとか、出掛けることが多いかも」
「へぇ、お姉さんいるんだ」
「上に二人」
「あー……だからか」
 まるで知っていたかのような口振りだった。
「なに?」
「いや、こっちの話」
 一人で納得した様子の渡会は、ニコリと微笑む。
 なんだよ、気になるな。
 彼はたまにこちらがモヤモヤするような言動をしてくる。昨日、手を繋いで廊下を歩いていた時もそうだ。突き止めようとしても、黙ってこちらが折れるのを待つ。
 ずるい。ずるすぎる。顔が良いからって何でも許されると思うなよ。
「渡会は兄弟いるの?」
 仕返しにはならないが、俺も質問を投げた。
「いるよ、弟。十個下だけど」
「あー……だからか」
 だから世話焼きなのか。かいがいしく介抱された理由に合点がいく。
「なんだよ」
「何でもない」
 先程の渡会を真似するように、ニコリと微笑んだ。結果的に、仕返しができたようだ。せいぜいモヤモヤしてくれ。
 俺がくだらない意地を張っていると、誰かの叫ぶ声が耳に届いた。
「シカだ!」
 ……なんて? シカ? シカってなんだ? あの鹿か?
 ある生徒の一声で、クラス全員が窓際に貼りつき、道路を覗き込んだ。俺も気になって窓に顔を寄せるが、この席からは鹿らしいものは何も見えない。
「あ、いた」
 隣の渡会がポツリと言った。窓から顔を上げて振り向けば、彼は通路側に頭を倒していた。
 そっちか。好奇心が(おもむ)くまま、通路側へ身を乗り出した、瞬間──、
 ゴチンッ。
「「い"っ……」」
 上体を戻そうとした渡会のおでこと、俺の頭がぶつかってしまった。お互いに額を押さえて唸る。
 これは俺が悪い。
「ご、ごめん」
「こっちこそごめん」
 鹿の存在も忘れ、席に座り直して渡会を窺った。前髪に隠れているが、ぶつかったおでこは、うっすら赤くなっている。
 痛みがなくなるわけでもないのに、罪を(つぐな)うように赤く色づいたおでこに手を伸ばした。
 イケメンを傷つけてしまった罪って、懲役(ちょうえき)何年だろうか。よりによって顔だ。終身刑かもしれない。さよなら俺の人生。
「もういいって」
 くだらないことを考えながらおでこを撫でていると、渡会は珍しく照れた表情で俺の手首を掴んだ。
「ごめん」
 もう一度謝罪を口にし、手を引っ込める。
 子供扱いされて恥ずかしかったのかもしれない。何から何まで、すまん。
「俺が武士だったら切腹してた」
「そこまでしなくていいだろ」
 覚悟を込めた言葉を捧げれば、渡会は声を上げて笑った。

 修学旅行二日目の午前。たくさんの鹿に囲まれていた。
「そろそろ本堂に移動するよ〜」
 担任の声が(あた)りに響いた。その声を合図に、残りの鹿せんべいを手当たり次第目についた鹿に与える。
「そういや、違う学校も来てるんだな。制服見たことないけど」
 観光客や鹿で溢れかえる街道を器用に避けながら、堀田が周りを見渡した。
 たしかに、知らない制服の生徒が点々といる。どこの学校だろうか。
「前見てないとぶつかるよ」
 他校の生徒に気を取られていると、腕を引かれた。
「ごめん。人多いもんな」
「いや、鹿に」
「鹿に……」
 渡会の言葉を復唱する。進行方向には、鹿が数頭(たたず)んでいた。当たり前だが鹿は人語を喋らないし、気を遣って対向者を避けることもない。
 渡会が腕を引いてくれなければぶつかっていた鹿に会釈をする。偶然なのか、鹿もペコリと立派な角を下げた。賢い彼(?)となら意思疎通はできそうだ。
 鹿エリアを抜け、迫力のある大きな門をくぐれば、そこには目を見張るほどの美しい庭園が広がっていた。
「広いな」
「あ、池に(こい)いる」
「鯉の餌とかねーの?」
「てか撮影OKだっけ?」
 見かけによらず、庭園を楽しんでいる四人。失礼だけど、こういう観光メインの場所には興味がないと思っていた。
 撮影許可がおりた途端、写真を撮りまくる彼らのうしろ姿を眺めながら、俺もスマホを取り出した。
 手入れの行き届いた風景にすっかり夢中になっていると、遠くから名前を呼ばれた。声がした先で、仲里が手招きをしている。いつの間にか、四人との距離が開いていたようだ。
 スマホをポケットに突っ込み、急いで彼らの元へ向かった。その道中、他校の生徒とすれ違った。華やかな白のセットアップや、凝った刺繍のエンブレムから私立高校だと窺える。
「朝陽?」
 すれ違いざまにかけられた女子の声。久しぶりに聞いた声に、急いでいた足が止まる。
「やっぱ朝陽だ!」
 振り向いた先にいた女子生徒は、パッと顔を明るくした。そのまま、(つや)のある長い黒髪をなびかせて駆け寄ってくる。
 彼女は中学の同級生、池ヶ谷(いけがや)杏那(あんな)。恋愛相談に乗っていた女の子だ。
「一年ぶりくらい? 背伸びたね」
 変わらない彼女の様子に、懐かしい感覚が蘇る。
「まぁね、杏那も修学旅行?」
「そうそう」
「見ない制服だけど、高校どこ行ったの?」
「あー! わたし県外の高校受験したんだよね。この制服が着たかったの!」
 池ヶ谷は嬉しそうに顔をほころばせ、体を左右に振って華やかな制服を見せびらかせてきた。
「どう? 似合う?」
「……似合ってるよ」
「分かりやすい嘘つかないでよ」
 なぜバレる。
 正直、制服にこだわりはないので気持ちは分からない。それでも、お世辞を言えただけ褒めてほしい。
「そんなんじゃモテないよ」
「余計なお世話──」
「日置! 集合写真撮るから早く来いって……」
 池ヶ谷に返そうとした言葉は、焦った声にかき消された。
 振り向けば、少し息を切らした渡会が立っていた。
「あっ! ごめん」
 完全に、急いでいたことを忘れていた。しかも、迎えに来させてしまった。本当に申し訳ない。
 すぐに切り上げようと池ヶ谷に向き直ると、急いでいたはずの渡会が先に口を開いた。
「友達?」
「え……あ、そう。中学の友達」
 思わずぎこちなく頷き、池ヶ谷を見る。彼女はポカンと渡会を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「ヤバ。ガチのイケメンじゃん」
 心の声が漏れてしまったようだ。
 そんな夢心地の表情を浮かべる池ヶ谷をよそに、続けて迎えに来てくれた守崎と仲里も到着してしまった。案の定、彼らを視界に入れた池ヶ谷は、また心の声をダダ漏れにしていた。
「おい、マジでそろそろ行かないと」
 ただ一人、最後にやってきた堀田だけは違う反応を見せた。
「堀田くん!」
「おー、池ヶ谷じゃん。久しぶり」
「久しぶり! 元気だった? あれ、堀田くんと朝陽って仲良かったんだ」
「この修学旅行でね」
「へー、何がキッカケだった──」
「杏那、悪いけど俺らもう行かないと」
 会話が長引くことを察知し、慌てて口を挟んだ。俺が原因だけど、さすがに戻ったほうがいいだろう。
 池ヶ谷は会話を邪魔されて不満の声を上げたが、自分も修学旅行中だと思い出したのか友達を振り返っていた。
「じゃ! また! お邪魔してごめんなさい」
 艶のある黒髪がひるがえる。
「朝陽ー! また連絡するから未読無視やめてよねー!」
 人混みをかきわけて元気な声が響いた。おそらく、渡会たちのことを満足するまで聞いてくるのだろう。面倒だな、未読無視しようかな。
「マジでごめん、行こう」
 四人に声をかけ、クラスメイトが集まる場所へ向かう。そこには、腕を組んだ担任が待ち構えていた。
「遅い! まだカメラマンさん来てないからよかったけど……何してたの」
「あ、えっと、女の子助けてました」
 面倒ごとを回避したい俺は、咄嗟(とっさ)に嘘をついた。
 担任は(いぶか)しんだ目で、うしろに並ぶ四人にも「本当?」と首を傾げた。彼女の隣で、ひそかに圧をかける。頼む、首を縦に振ってくれ。
 要望通り、四人は顔を見合わせて頷いてくれた。担任はしばらく黙って俺を見つめていたが、しばらくして「やるじゃん」と言って腕を小突いた。
 嘘を褒められてしまった。罪悪感はあるけど、怒られるよりはマシ。
 到着したカメラマンの元へ向かう担任を見送り、四人のほうへ向き直る。
「ありがと。助かった」
「貸しイチな」
 守崎は人差し指を上に向け、意地悪な笑みを浮かべた。
 今回ばかりは俺のせいだし仕方ない。渡会に関しては、昨日からの迷惑料を含めると、貸し十個じゃないと釣り合わないかもしれない。
「写真撮るよ~! 並んで〜!」
 カメラマンの横で担任が手を挙げた。
 刻一刻と時間が過ぎる。気がつけば、今日のビッグイベントまで一時間を切っていた。

「四時間後にまたこの駅に集合してね、それでは解散!」
 さて、自由行動が始まってしまった。
 俺たちのグループ以外にも何組かテーマパークに行くらしく、入場ゲートに向かう街道には、同じ制服の生徒があちこちに見えた。
 心配していた四人も解散直後は浮かない顔をしていたが、テーマパークが近づくにつれて活気を取り戻していた。
「ホットドッグ食べたいな」
「俺はチュロス食べたい」
「やっぱ、ポップコーンでしょ」
 堀田と仲里と守崎は、歩きながら堂々とスマホを覗き込んでいた。
 今の時間は正午近い。食べ物の話題になるのも当然だった。
「ねぇねぇ、私たちお化け屋敷に行きたいんだけど、一緒に来てくれない?」
 いきなり割って入ってきた、女子グループの一人の声。
「え、入り口解散・入り口集合じゃダメ?」
 仲里の返答に、女子たちは顔を見合わせて言葉を続けた。
「テーマパークは人気だから先生も巡回するっぽいし~、見つかったら怒られちゃうよ〜」
「そうだよ! お願い!」
 手を合わせて上目遣いで訴えてくる。
 そういえば、先生の存在をすっかり忘れていた。別行動が見つかって、学年主任と仲良くコーヒーカップに乗る刑になったらどうしよう。
「いいよ。お化け屋敷くらい」
 誰もが押し黙る中、意外にも口を開いたのは守崎だった。
 どうした。どんな風の吹き回しだ。
 一番拒否しそうな守崎の発言に、渡会と堀田と仲里も驚いた表情をしている。この短期間で大人になった守崎に感心していると、
「その代わり、お前らが先歩けよ」
とても男らしくない発言をしていた。もちろん、女子からは非難殺到だ。
 守崎は異議を唱える女子に怪訝な顔を向けているが、それはそうだろう。女子たちはお化け屋敷に本当に行きたくて言っているわけではないのだから。
 結局、女子の熱意に負けてお化け屋敷へ行くことになった。誰にも言っていないけど、ホラー系も得意ではない。知られたら、からかわれるだろうし、そもそも行かないと思っていたから誤算だった。
 お化け屋敷の対策を練っていれば、いつの間にか入場ゲートに到着していた。
 パーク内に足を踏み入れると、愉快な音楽が迎えてくれる。
「ミミ付けようぜ!」
 テンションの上がった仲里は、近くのショップを指差した。彼の背中に続き、ゆったりとした音楽が包む店内へ足を踏み入れる。
「日置はコレ」
 綺麗に整頓されたオリジナルグッズを眺めていると、渡会が一つのカチューシャを俺の頭に被せた。近くの立ち鏡を覗けば、淡い茶色にところどころ柄のついたミミが頭に生えている。茶トラ猫がモチーフのようだ。
 渡会も赤茶色のミミを身につけ、鏡越しに首を傾げた。
「どう?」
「似合ってるよ」
 そう伝えれば、嬉しそうに顔がほころぶ。
 他の三人も選び終わったようで、堀田は犬のミミ、仲里はクマのミミ、守崎は黒猫のミミを頭に生やしていた。
 ショップを出て向かうは、さっそく売店……ではなく、空腹より思い出作りの彼らは写真を撮り始めた。満足するまで彼らの撮影会に付き合い、ようやく売店を目指す。
 その道中、キャストにたくさん声をかけられた。さすがはテーマパーク。盛り上げ上手なキャストの歓迎に、自然とこちらの気分も高揚(こうよう)する。
 売店で買ったホットドッグを手に、テラス席に座ると、ちょうどパレードの時間になったようだ。名前の知らないキャラクターの着ぐるみや、楽器を持ったパフォーマーが行進してきた。
 パーク内に盛大で華やかな音が広がる。周りのゲストも手を振ったり、手拍子していたりと、とても賑やかだった。
 盛り上がるパレードに気を取られていると、トンと肩を叩かれる。
「ケチャップついてるよ」
 振り向いた先で、渡会が自身の口の端を指し示していた。ペロッと舌を出してみるが違ったようで、彼は頬を緩め「逆」と笑った。反対側に舌を出すが、拭えた気はしない。
 諦めて紙ナプキンに手を伸ばすと、先に渡会がティッシュで拭ってくれた。あ、これ子供っぽいな。
 恥ずかしさに他の三人を窺う。幸いにも、三人ともパフォーマンスに見入(みい)っていて、こちらのやり取りに気づいている様子はなかった。
 少し物足りない昼食を済ませ、早速ジェットコースターへ向かう。食後にハードなアトラクションは出るもん出そうだと他人事に思ったけれど、そこは若さで何とかなるのだろう。
「マジで一人で平気?」
「巡回の先生に見つかんなよ」
「ちょっと待ち時間長いかも」
 まるで、初めて留守番を任される子供のようだった。
 仲里と守崎と堀田の心配する声に頷けば、女子たちの呼ぶ声が聞こえた。
「何かあったら連絡して」
 渡会もそう言い残し、待機列に向かった三人の背中を追った。
 待っても三十分くらいだろう。のんきにパンフレットを開き、ジェットコースター周辺のエリアを眺める。
 マップの上を泳いでいた目は期間限定のシェイクに魅了され、そこを目指した足は……ズボンを引っ張られる感覚によって止められた。
 なんだ、変質者か?
 ここは人通りが少ないわけではない。むしろ、ジェットコースターの前だから多いほうだ。
 大胆にも程があるだろ。そう思いながら振り向くが、そこには誰もいなかった。それでも、ズボンを引っ張られる感覚は続いている。下から。
 目線を下げると、小さな男の子が俺のズボンの裾を握って立っていた。
「まま……」
「人違いですけど……」
 子供相手に敬語になる。
 おそらく迷子の彼は、今にも泣きだしそうに顔を歪めた。
 これは……一緒に探してあげたほうがいいよな。待ち時間暇だし、探してあげるか。
 念のため、グループチャットに一報入れようとしたが、男の子は待てないのか、また俺のズボンを先程より強い力で引っ張った。
 やめてくれ。こんなところで大衆にパンツを(さら)したら、俺が変質者になってしまう。
 諦めてスマホをしまい、ズボンを押さえながら男の子の目線に合わせてしゃがんだ。
「だっこ」
 話しかけるより先に、むちっとした腕が首に回る。どうやら、そのためにズボンを引っ張っていたらしい。
 子供を抱っこした経験などなく、おろおろしながら男の子の両脇に手を差しこみ持ち上げた。見た目より重たい男の子は、高くなった視点で首をキョロキョロと動かした。
「どっから来たの?」
「おうち」
「あー……そうじゃなくて。ママはどこでいなくなっちゃったの?」
「あっち」
 男の子は奥のエリアを指差した。
 情報の少ないナビを信じ、彼の示したエリアを目指す。一方、男の子は俺のカチューシャが気になるようで、ジッとミミを見つめていた。あげくの果てには、小さな手が頭に伸びた。
「あ、ダメだろ」
 地面に転がり落ちたカチューシャを追ってしゃがみこむ。男の子は降ろされたことが不満だったらしい。目に涙を溜めて俺の脚に巻きついた。
「だっこー!」
 ついにはぐずりだしてしまった。手を広げて迎えれば、すぐに首に腕を回してくる。ちょっと可愛い。
 男の子をあやしているうちに、彼の言っていたエリアに到着した。男の子と同じ年齢の子供たちが、小さい機関車に乗ったり、仕掛け噴水でずぶ濡れになったりしている。
 服の色も髪の長さも何もヒントはないが、とにかく、焦ってウロウロしている女性を探した。けれど、母親らしき人は見つからない。
 仕方なくインフォメーションに向かうことにした俺は、パンフレットを開くため、空いていたベンチに男の子を座らせた。予想通り、彼はまたぐずりだす。
 迷った末、男の子を膝の上に乗せてパンフレットを開いた。男の子はコアラのようにしがみついている。隣に座っている夫婦に、なごやかな笑みを向けられて恥ずかしい。
 インフォメーションの場所は、ここからだいぶ距離があった。というか、ほぼ反対側の入場ゲートの方面だ。最初からそっちに向かえば良かった。
 男の子を抱え、パーク内を練り歩く。俺の腕の疲れなどつゆ知らず、男の子は相変わらずキョロキョロとせわしなく首を動かしていた。そんな彼を見つめ、ふと思う。
 どうして俺を選んだのだろう。
「俺の何がいいの?」
 渡会には聞けなかった質問は、子供相手にはいとも簡単に口にできた。
「まま……」
「俺はママじゃない」
 返ってきた答えは、何の参考にもならなかったけど。

 人混みを()って歩いていると、目的地のインフォメーションが見えてきた。
「そろそろ着くよ」
 男の子に声をかけるが反応がない。聞こえてくるのは、規則的な呼吸だけ。途中から静かになったとは思っていたけど、まさか寝ていたとは。場内アナウンスをするには、名前と住所が分からないとダメだろう。
 男の子を軽く揺すったり、背中を叩いてみるが、起きる気配はまったくない。
 腕の限界が近い俺は、音を上げる筋肉を叱咤(しった)してインフォメーションのドアを開けた。そこには、スタッフと話し込む一人の女性がいた。
「あ」
 俺に気付いたスタッフが声を上げる。女性もスタッフの反応を追うように振り返った。彼女はこちらを見るなり、安堵の表情を浮かべ、パタパタと駆け寄ってきた。
「その子うちの子です! すみません! どこにいましたか?」
「えっと、ジェットコースターのところで会いました」
「ありがとうございます……! 急にいなくなってしまったもので」
 母親は涙を浮かべ「良かった」と呟いた。
「すみません。寝てしまったのですが……」
 男の子に目を向けると、母親は困ったように笑って手を伸ばした。その瞬間、体を動かされる感覚に目が覚めたのか、男の子はいきなり寝起きとは思えない大声で泣き出した。俺の服を強く握り締め、引っ張ってくる。
 なぜかパニックになっている男の子に、母親も困惑していた。
 男の子はなかなか泣きやまない。すっかり困り果てていると、制服のポケットに入れていたスマホが振動した。着信を告げるそれに、今の自分の状況を思い出す。
 まずい、今どれくらい経ったんだ。しかも、グループチャットに何の連絡も入れないまま、ここまで来てしまった。
「すみません……! 一旦このまま電話出てもいいですか?」
「はい! 全然構いません! ご迷惑をおかけしてしまいすみません」
 母親はバッと頭を下げた。
 俺ももう一度頭を下げ、泣いたままの男の子を抱えてスマホの画面をスライドした。
「もしも……」
『日置! 今どこいんの!?』
 画面の向こうから、切羽詰まった渡会の声が聞こえてくる。
「ごめん、迷子届けに来てて」
『迷子? 今迷子センターいんの?』
「そう、でもちょっと離れたくないみたいで」
『……分かった。今からそっち行くから絶対動くなよ』
 プツリと通話が切れた。
 怒ってるかな。怒ってるよな。
 チャットルームには、仲里たちからもメッセージが届いていた。渡会に関しては、毎分おきに通知が入っている。
 罪悪感に、自然と溜め息が溢れた。

 ぐずる男の子を抱えて数分、ドアの開く音がピリつく空気を裂いた。
 出入り口に立つ渡会と目が合う。息も上がって髪も乱れているが、それさえもスタイリングされているように見えて眩しかった。
「今ってドラマの撮影やったっけ?」
「あかん、惚れてまうとこやった」
 受付の女性スタッフの声が耳に届いた。
 イケメンはなんでも味方につけてしまうんだな。場違いに感心していると、渡会は男の子を一瞥(いちべつ)したあと、こちらに近付いてきた。
「触れてもいいですか?」
 俺の隣に腰を下ろした渡会は、母親に声をかけた。
「え……? あ、はい!」
 突然現れたイケメンに魅入っていた母親は慌てて頷く。触れるのは母親ではなく子供のほうだが、彼女はもちろん、受付スタッフまで頬を真っ赤に染めていた。
 寄せられる甘い視線を気にも止めず、渡会はそっと男の子の頭を撫でた。男の子はバッと顔を上げると、目に大量の涙を浮かべて泣きの姿勢に入る。
 渡会はすぐに話し出さず、男の子の目を見て微笑み、大きな瞳から溢れた涙を優しく拭った。
「一人でよく頑張ったね」
 彼の振る舞いは、ドラマのワンシーンのようだった。
「もうお母さん来たから、大丈夫だよね」
 渡会の言葉に、男の子がキョトンとした表情を浮かべた。小さな頭で一つ一つ、状況を読み込んでいるようだ。男の子は渡会を見て、俺を見て、そして恐る恐るうしろを向いた。
「ママ‼」
 今までの態度が嘘のように、男の子が母親に飛びつく。
 どうやらパニックになって泣き出したのは、母親を知らない人だと勘違いしたからのようだ。ずっと俺にしがみついていたうえ、ろくに顔も確認できず、母親の声も自身の泣き声でかき消していたので、誤解が続いていたらしい。もはや、奇跡の重なり合いだ。
 俺もアトラクションに乗ったくらい疲れた。
 まだ少しだけ手続きがある親子をあとにして、俺の迷子救出チャレンジは幕を閉じた。

 迷子を助けたからと言って、俺の失態が帳消しになるわけではない。
(……気まず)
 隣を歩く渡会を見ることさえできない。
 口を開けば言い訳にしかならない現状に、適切な言葉を探していると、先に話を切りだしたのは渡会だった。
「先生たちには、日置がいなくなったこと言ってないから安心して」
「…………え」
 予想外の発言に思わず顔を上げる。
「怒ってないの?」
 怒られると思っていた。迷惑をかけまくっているから……特に渡会には。
「少し焦ったけど、無事だったからもうなんでもいい」
「え、あ、……そ、な」
 やばい、日本語飛んだ。
 たまに忘れそうになるけれど、俺と渡会は元々親しい間柄ではない。この修学旅行で少しずつ距離が縮まっている程度の、友達と呼んでいいのかすら分からない関係。
 なんでそんなに気にかけてくれるのだろう。
 なんでそんなに優しいのだろう。
 なんで俺なんだろう。
「俺の何がいいの」
 口から漏れた言葉に自分で驚く。
 修学旅行は明日もある。ここで亀裂(きれつ)が入ったら、気まずいどころではない。それでも出てしまった言葉は戻せない。
「さぁ? なんだろ」
 俺の心配をよそに、渡会は首を傾げて笑った。
 え、そんな感じなんだ。
 俺が思っている以上に、彼の気遣いは気紛れらしい。
 自分の考えすぎだと気付けば、ふっと肩の力が抜けた。

「まったく、日置はすぐいなくなるんだから〜」
「せめて連絡くらい入れろよな~」
 仲里はわざとらしく唇を尖らせ、堀田は大げさに手に持っていたスマホの画面を叩いた。
「マジで大変だったよ。渡会が」
 守崎が目配せで伝えると、視線を受けた渡会は怪訝そうに顔を顰めた。
 本当に申し訳ない……とはいえ。もちろん反省は大前提として、もし、連絡を入れていた場合は、俺が下着を晒した変質者として彼らの前に戻ってくることになっていたけど、それはそれでいいのだろうか。絶対ネタにされるから言わないけど。
 葛藤を墓場まで死守することを誓えば、ジェットコースターで乱れた髪やメイクもろもろを直した女子たちが戻ってきた。
「ね、お化け屋敷行こ!」
 忘れてた。そういえばそんな話だったか。
 悲しいことに、ジェットコースターと近かったお化け屋敷は、すぐにたどり着いてしまった。
 よくある廃病院をモチーフにしたそこは、外観から気合いが入っており、館内から聞こえてくる悲鳴がさらに恐怖を引き立てていた。
「ではお気をつけて〜」
 脱落者が多いのか、最悪なことに順番は秒で回ってきた。実際、数十分は待っていたが、心の中で十字を切っていた俺にとっては、一秒と変わりない。
 討論の末、男子が先陣を担うこととなり、懐中電灯を持っている仲里を先頭にぞろぞろと暗い館内を進んだ。
 視界に映る全てが怖い。開け放たれた扉の向こうはカーテンで締めきられ、人間のような影が(うごめ)いてる。「手術中」とランプのついた部屋からは、(うめ)き声が聞こえてくる。
 膝を震わせながら歩いていると、突然背後からギィ……とドアの開く音が聞こえた。恐る恐る振り返るが、黒い影がいるだけでよく見えない。
 仲里が手にしていた懐中電灯を向けた。
 そこには、首があらぬ方向に折れ曲がった人(?)が立っていた。「ぁ」とか「が」とか、わけの分からない声を漏らしている。
 恐怖の沈黙、三秒。急に首がぐるんと一回転した。そして、あろうことか俺たちに向かって駆けだした。
「キャー‼ 」
 女子の悲鳴と共に、その場の全員が駆けだした。もう順番はぐちゃぐちゃだ。
 無我夢中で長い廊下を走った。足元が暗くてよく見えない。仲里が持っている懐中電灯と、時折点滅する照明だけが頼りだ。
 バァンと破裂音が耳をつんざいた。顔を上げれば、暗い館内に一筋の光が見えた。その光に向かって夢中で走る。
 いつの間にか、出口を駆け抜けていたようだ。辺りは暗い館内ではなく、賑やかなパーク内に変わっていた。
 整わない呼吸を落ち着かせるように、深く息を吸う。
「日置大丈夫?」
 大丈夫ではない。それでも、渡会が持ってきてくれた自分のショルダーバッグを背負い、コクリと頷いた。
「あと一つくらい乗れそう」
 恐怖を味わった人間とは思えない淡々とした口調で、堀田が腕時計を見ていた。俺はもう帰りたいよ。
 自由時間終了まで残り三十分。今から乗れて、あまり並ばないもの。
 周りを見渡せば、馬と目が合った。
 そう、メリーゴーランドだ。

 キラキラと光沢を放つ馬にまたがり、ポップな音楽に身を任せる。
 メリーゴーランドなんて久しぶりに乗った。
「日置、こっち見て」
 隣の馬に乗っている渡会が、スマホを構えていた。咄嗟にピースを向けるも、いつまで経ってもレンズは下がらなかった。
「これ動画」
 早く言ってよ。動画は写真より何をしたらいいか分からない。
 したり顔の渡会に怪訝な目線を送ると、彼は笑みを溢してスマホに向き直った。
 やられっぱなしはなんだか性に合わず、俺もスマホを取り出し、四角い枠に渡会を閉じ込めた。傾きだした夕陽は、彼の形の良い横顔を照らしていた。
「外カメあんまり盛れないんだけど」
 撮られていることに気付いた渡会は、困ったように笑った。
「いつでもかっこいいよ」
 素直にそう伝えると、彼は照れたように耳を赤く染めた。

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。
 退場ゲートに向かう頃、仲里がポツリと呟いた。
「楽しかったな〜」
 その言葉に全員が頷いた。
 そういえば、お土産を見ていなかった。けれど、ゆっくり見ている時間はもうない。
 また来ればいっか。
 ゲートをくぐると、馴染みのある街並に目を(すが)める。
 ただいま、現実。

 ホテルに着くまで、バスの中は誰かの寝息が聞こえるほど静かだった。クラスメイトは全員、自由行動を存分に楽しめたようだ。
 隣の渡会も珍しく眠っている。いつもは大人っぽい彼だが、寝顔は年相応のあどけなさを見せていた。
「はい、皆さん起きてください〜! そろそろホテルに着きます。寝てる子がいたら起こしてあげてね」
 担任の声がバス内のマイクを通じて響き、静かだった空間に音が溢れ出す。
 さわがしくなる音をものともせず、眠り続ける渡会。体を揺すると、グッと眉間に皺が寄り、ゆっくり瞼が上がった。
「おはよ」
「…………はよ」
 まだ眠いのか、ボーッと俺を見つめていた瞳は、また瞼の裏に隠れてしまった。徐々に速度を落とすバスに、夢の中に戻る彼を慌てて叩き起こした。

「仲里君のグループちょっといい?」
 ホテルへ向かう道中、担任に呼び止められた。振り向いた先の表情は、少し曇っている。
「実は手配ミスで、仲里君のグループの部屋を四人部屋で取ってたの。だから一人、違うグループのところに行ってもらうことはできる?」
 ブラウンに縁取られた眉が、申し訳なさそうに下がる。
 なるほど。つまり一人分ベッドが足りないと。移動先のグループが気になるけれど、一晩だけなら問題ない。
 立候補しようと口を開くが、それは渡会に(さえぎ)られてしまった。
「それってベッドの数以外に問題はあるんですか?」
「え? 特にはないと思うけど、みんながいいのであれば」
「じゃあ大丈夫です」
 あれ、俺の意見は? それに、まだ五人で話し合っていない。
 渡会以外の三人に目を向けるが、その表情から反論の色は窺えなかった。
 必然のように決まった四人部屋を、俺は何も言わずに受け入れるしかなかった。
 ホテルのエントランスを抜け、向かうは五〇七号室。キャリーケースはすでに部屋にあるそうだ。
 カードキーで開いたドアの先は、担任が言っていた通り、本当に四人部屋だった。
「誰と誰がペアになる?」
 堀田はさっそくベッド問題を取り上げた。
 部屋のベッドは四つ。俺たちは五人。誰かが犠牲になって一つのベッドを二人で使う他ない。床という選択肢もあるけど、それはあまりにも可哀想だ。
「俺は寝相悪いからパス」
「俺も〜」
 守崎と仲里が我先にと手を挙げた。
 譲る気のない二人に、文句をグッと飲み込む。今朝の様子を思い出すかぎり、蹴落とされるのは間違いない。それはできれば回避したい。
 残った者同士で顔を見合わせる。身長から考えて、堀田と渡会の組み合わせはなくなった。そうなると、堀田と俺か、渡会と俺かの組み合わせになる。
「バスで一緒に座ってた二人でいーじゃん」
 傍観(ぼうかん)していた守崎が、俺と渡会を指差す。
「俺はいいけど」
 渡会はあっさりと頷いた。
 マジで? そんな軽い感じでいいの? 男とくっついて寝るのに?
「日置はどう? 俺と一緒でいい?」
「え……あ、俺はどっちでも」
 なぜか真剣な面持ちの渡会に、首が縦に揺れる。
「じゃあ、決まりな!」
 最後の一人ベッドを獲得した堀田は、嬉しそうにニカッと笑った。
 ただ一人、状況を把握できていない俺は、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 不安を残したまま迎えた消灯時間。
 ベッドの上で真っ白な天井を眺めていると、最後にシャワーを終えた渡会が戻ってきた。
 邪魔にならないよう、なるべく壁にくっついてスペースを空ける。
「そんな寄らなくてもいいのに」
 ベッドに上がった渡会は、俺の腕を引っ張った。やはり、男二人が寝そべると当然狭い。少しでも寝返ると体が当たってしまう。
 今日はみんな、遊び疲れたらしい。雑談もそこそこに、ひとり、またひとりと眠りについた。俺も細心の注意を払いながら、そっと瞼を閉じたのだった。
 寒い。
 ぶるりと体を震わせ、目を閉じたまま手探りで掛け布団を探す。それでも毛布の感触は見当たらず、代わりにペチンと何かにぶつかった。
 なんだ。眼鏡じゃないし。スマホでもない。人っぽい……人?
 寝起きの頭で状況整理したあと、勢いよく体を起こした。
「あれ、今日は早起きじゃん」
 ベッドに腰掛け、スマホをいじっていた渡会と目が合う。
 ボヤける視界の中、先程ぶつかった場所を見ると、渡会が手を置いていた。
 顔じゃなくて良かった。いや、手も良くないけど。
「……ごめん、手……当たった」
 眠気を押し切って、乾いた喉から言葉を絞り出す。渡会は首を傾げ、思い出したように笑った。
「あぁ、全然痛くないから大丈夫」
「なら良かった……えっと、おはよう」
「ん、おはよう。声と寝癖やばいから洗面所行ってきな」
 渡会はニコリと微笑み、眼鏡を渡してくれた。
 やけに機嫌の良い彼を背に、床に足をつくと、柔らかい感触が肌を伝った。掛け布団、こんなとこにあったのか。
 寝相は悪くないと思っていたけれど、知らない間に落としていたようだ。そう思って顔を上げれば、他の三つのベッドが目に入った。全員掛け布団を床に落としている。
 なんで? 室内はそんなに暑くないのに。
 洗面所に向いた足を止め、異常な光景を見つめる。そんな俺に気づいた渡会は、聞きたいことを()()ったようでニヤッと口角を上げた。
「寒かったら起きるかなって」

「マジでないわ」
 朝食の待つ大ホールへ向かうエレベーターの中。守崎は弱々しく首を振った。堀田と仲里も、遠い目をして頷いている。
「いいじゃん。昨日と違って自分で起きれたんだし」
 全員の掛け布団を剥ぎ取った渡会は、得意げな顔で鼻を鳴らした。
「もっと、こう、あんじゃん。起こし方ってやつがさ〜……」
「どうせ、日置だけ優しく起こしてやったんだろ」
 仲里は肩を落とし、堀田は訝しんだ目を渡会に向けた。
「俺もみんなと同じだけど」
「え? 撫でられたり、くすぐられたりして起きたんじゃねーの?」
 俺の反応に、堀田は目を見開いた。
 なんでそうなるんだ。
 同意を求めるために渡会を見ると、フイッと目を逸らされた。
 やったのか、俺が寝てる間に。
「こいつ、日置が拒否しないから好き勝手やってんだよ」
 守崎が溜め息交じりに口を開いた。
「そーだよ。多少は嫌がらないと、いつか痛い目みるぞ」
「度が過ぎてキスとかしかねないんだから」
 続けて堀田と仲里も忠告してくる。
「それはまだやってない」
 ちょっと待って。〝まだ〟ってなんだ。渡会とキスする予定はありませんけど。パッと口を押さえれば、渡会は「うそうそ」と笑った。もっと笑えるような嘘をついてほしい。
 会話が途切れた瞬間「ポーン」と音が鳴り、エレベーターのドアが開いた。
 空腹を刺激するいい匂いに誘われ、大ホールへ入る。朝食はバイキング形式のようで、何種類もの料理が用意されていた。
「皆さんおはようございます! 今日が修学旅行最終日です。最後まで怪我なく楽しく学びましょう」
 今日で学年主任の挨拶ともお別れ。寂しいもんだな。
 マイクの音が切れると同時に、生徒たちは真っ先に料理が集まるテーブルに飛びついた。
「俺らも行こ」
 堀田の声に続けて席を立つ。
 プレートを手に料理を眺めれば、お腹がぐぅと鳴った。
 パンもあればご飯もある。洋と和が入り混じったメニューだった。
(昨日の朝は和食だったから、今日は洋食にしよう)
 自然と伸びた手で、もちもちのロールパンをトングで挟む。あとはコンソメスープとスクランブルエッグと、デザート……。野菜も取り、綺麗に彩られたプレートに含み笑いが溢れる。
 席に戻ると、四人はすでに揃っていた。
「今日ってどこ行くんだっけ」
 バターの(ふた)を開けながら堀田が口を開く。
「アレじゃね、なんかの神社みたいな」
「午前中だけだよな」
 仲里はオムレツを口へ運び、守崎はフレンチトーストをつついた。
「なんか、着付け体験もするとか書いてあった」
 着付けか、あんまり食べすぎたらまずいかな。
 渡会の一言に思考を巡らせたあと、ためらいもなく料理に手を伸ばした。帯に締め付けられる苦しさより、空腹でよろよろになる苦しさのほうが嫌だ。
「おみくじ、誰が一番運が良いか試そうよ」
「いいね、じゃあ最下位はあっちでアイス奢りな」
 仲里の提案に、守崎が乗っかった。運すら味方につけてしまいそうな四人に勝ち目など見えないが、せめて最下位は免れるようにそっと祈りを捧げた。
「それ、美味しそう」
 デザートの夏蜜柑(なつみかん)ケーキを頬張っていると、渡会がプレート上で半分に欠けたケーキを指差した。
「食べる?」
 蜜柑とスポンジのバランスがちょうどよくなるよう、フォークに乗せて差し出す。
 渡会は、差し出されたケーキを見て目をまたたいた。シェアは無理なタイプだったようだ。フォークを下ろせば、パシッと手首を掴まれる。
「ありがと」
 手首ごと引き寄せた渡会はケーキを口に含んだ。
「おいしい?」
 首を傾げると、ニコリと笑みが返ってくる。
 幸せそうな渡会を横目に、残りのケーキを口へ運ぶ。同時に、学年主任の声が聞こえてきた。最終日だからか締めの挨拶は少し長かった。

 部屋に戻り、ベッドの上で満足に膨れたお腹を落ち着かせる。
「今日着付けあるならセットしよ」
 ベッドでくつろぐ俺と違い、守崎はせっせとヘアアイロンやスプレーをテーブルの上に広げた。ノーセットでも全然いいと思うのに、インスタ職人たちは、それだけでは物足りないらしい。
 手際よく髪を遊ばせる彼らを眺めていると、渡会が隣に腰掛けた。
「日置もやろ」
「えー……やんなきゃダメ?」
「ダメ」
「上手くできるか分かんないんだけど」
「やってあげる……ヘアオイルとか、かゆくなったりしないよね?」
 渡会は優しく俺の髪に触れた。なんだか美容室に来たみたいだ。
 セットと言うからオールバックとかホストみたいな盛り盛りヘアを想像していたが、襟足を跳ねさせたり、センターパートにするくらいだった。
 時間はさほどかからず、仕上げにスプレーをかけられる。ヘアオイルの甘すぎない爽やかな香りは、とても好みだった。
「はい、お疲れ様でした」
 渡会に軽く肩を叩かれ、顔を上げた。鏡に映る自分は、いつもよりスッキリして見える。
 これがイケメンの力。
 足りないのは俺の顔面の力。

「いらっしゃい! ほな、好きなもの選んでや〜!」
 元気なおじさんに迎えられ、色とりどりの着物が並ぶ部屋へ通された。
 着物ってこんなに種類があるんだな。
 華やかな色の列に圧倒される中、(よう)のかたまりの四人は、ショッピングモールへ来たかのように物色していた。派手な色の着物に盛り上がる彼らを背に、栗色のシンプルな着物を手に取った。無難が一番である。
 懸念していた帯は、もちろんキツかった。締め付けに耐えながら、慣れない草履(ぞうり)を履き、先に着付けを終えた四人が待つ街道へ出た。
 細かい刺繍が施されたものだったり、ツートーンで揃えられたものだったり、彼らは見事に着こなしている。セットした髪型も相まってモデルのようだ。
 女子の準備を待つ間、行き交う通行人の視線が刺さる。着物を身につけた集団がいるのだからその反応も頷けるが、ほとんどの視線は隣に立つ渡会たちに向けられていた。
「芸能人?」
「撮影やない?」
 中学生くらいの女の子たちは、歩きながらずっと目線を四人に固定していた。ブレない視線は、一種のパフォーマンスのように見える。
 しばらくして、男子より華やかな彩りの着物を身につけた女子が姿を現した。普段着られない服装にテンションが上がっているのか、あちらこちらでスマホ片手に記念撮影をしている。
 点呼確認を終えた担任に続き、神社を目指す。生徒を引き連れる白い着物の背には、(つる)の模様が描かれていた。
「集合写真撮るよ〜」
 本殿の前に着くと、担任が手を挙げた。その声に全員が身だしなみを整える。
「日置こっち向いて」
 隣から降ってきた声に顔を上げる。俺の頭に手を伸ばした渡会は、器用に風で乱れた髪を整えてくれた。こだわりがあるのか、微調整まで抜かりない。
 彼が満足するまでの間、ふわりと風がそよぎ、ヘアオイルの香りが顔周りを包んだ。
「俺、このヘアオイルの匂い好き」
 ポツリと呟く。
 渡会は手を止め、覗き込むように小首を傾げた。
「へぇ、俺がいつも使ってるやつ……好き?」
「好き」
 頬を緩めて笑うと、渡会の表情が固まった。髪から手を離した彼は、終わりを示すようにパッと顔を逸らす。カメラマンの合図に、俺も前へ向き直った。
 撮影間際、ちらっと窺った渡会の耳は、ほのかに赤く色づいていた。

「じゃあ一時間後、ここに集合ね〜」
 撮影後、担任は手を振って生徒を見送った。
 参拝に向かったり、出店(でみせ)にお土産を買いに行ったり、着物の集団があちこちに散らばる。
「おみくじ引きに行こ」
 仲里が赤く存在感を放つ鳥居を指差した。
 草履で砂利を踏みならし、奥社を目指す。夜に来たら怖そうだけど、昼間の神社は日の光も掛け合わさって神秘的だった。
 奥社に到着すれば、早速お目当てのおみくじコーナーへ向かった。
 ジャラジャラと音を鳴らし、一人ずつおみくじの入った筒を振る。俺の順番が回ってくると、ギュッと両手を握った。
 神様。小吉くらいでお願いします。
 精一杯の祈りを込めて筒を振る。出てきた数字は三一番。三一の引き出しを開け、一番上ではなく、上から二番目の紙を取り出した。
「まだ待って。せーので見よ」
 最後の堀田が筒を抱えて振り返った。
 待ち時間がもどかしい。なんだか緊張もしてきた。
 五人揃って輪になると、仲里が小さく声を上げた。
「せ〜の……」
 バッとおみくじを開く。
 末吉。
 普通だ。正しい順番は分からないけど、多分普通。
「日置が一番下っぽいな」
 まあまあな結果に胸を撫で下ろせば、スマホで運勢の順番を調べていた守崎が、哀れみの目を向けてきた。なんとなくそんな感じはしてた。
 奢り確定に苦笑を漏らし、手元のおみくじをじっくりと眺めた。健康運、勉強運、末吉らしくまあまあな内容だった。一番盛り上がるのは、やっぱり恋愛運。
〝近い内に待ち人来たり〟と書いてある。本当かよ。
「渡会の見して」
「いいよ」
 隣で大吉のおみくじを広げる渡会の手元を覗き込む。案の定、だいたいプラスな事しか書いていない。
 恋愛運はどうだろう。心配無用人生花道万々歳、とかかな。
 流れるように恋愛運へ目を向ける。そこには思っていたような文字はなかった。
 己を信じて進むべし。
 意外にも、鼓舞するような一文が記されていた。
 渡会が攻略困難な人間なんて、この世にいるのだろうか。神様も、たまにはイケメンに試練を与えるらしい。
 粗方おみくじに目を通せば、おみくじ掛けに足を向けた。破けないように慎重に結び、念のため、平穏な日々を願って手を合わせた。
「あ。アイスある」
 堀田の声に振り向くと、そこにはソフトクリームやジェラートを売っているレトロなキッチンカーがあった。
「みんな何がいい?」
 財布を取り出し、四人を窺う。
「あ、奢りは冗談だから」
 メニューを眺める守崎が首を振った。すっかり奢る気でいた俺は、残金を確認する手を止めてポカンと口を開いた。
 まぁ……いいか。奢らなくていいなら、それに越したことはない。
 拍子抜けのまま窓口に向かう。定番の抹茶ソフトクリームをスルーして無花果(いちじく)のジェラートを頼んだ。
「日置も食べる?」
 本殿へ戻る途中、隣を歩く渡会から抹茶ソフトクリームが差し出された。喜ばしいことに、シェアしてくれるようだ。
「ありがとう。俺のもよかったら」
「ありがと」
 交換するように自分のジェラートも差し出す。
 ソフトクリームを一口含むと、抹茶とバニラの香りが口の中に広がった。
 あまりの美味しさにもう一口だけ貰おうと口を開けば、草履に足を取られ、こけそうになった。その勢いで照準を誤ったソフトクリームは、口の端に当たった。短い舌を伸ばしてみるが届かない。
 ティッシュなど持っていない。さすがに借り物の着物で拭うわけにもいかない。
 一人でパニックになっていると、隣から伸びてきた手が頬を拭った。そのままクリームのついた指を目で追えば、渡会はためらいもなく口に含んだ。
「……大丈夫な感じ?」
 バグった脳は変な質問を飛ばした。
「あ、ごめん。嫌だった?」
 渡会は焦ったように眉を下げる。その反応に首を横に振った。
 そういえば、テーマパークの時もケチャップのついた口元を拭ってくれた。弟だっているし、自然と体が動いてしまうのだろう。
 ホッとした表情を浮かべた渡会から、ジェラートを受け取る。俺もいびつな形になってしまった抹茶ソフトクリームを渡した。
 少し溶けだしたジェラートを口にすると、なぜかさっきよりも甘く感じた。

「疲れた~!」
「足いて~」
「ねみー」
 仲里と堀田と守崎は、ゲッソリとした表情でバスの座席に腰を沈めた。着物はとうに脱がれ、慣れ親しんだ制服に変わっている。
 長かった修学旅行も、あとは新幹線に乗って帰るだけ。過ぎ去っていく街並みを眺めていると、寂しさがこみ上げてくる。
「寂しい?」
 俺の心情を見透かしたように渡会が声をかけてきた。
「ちょっとね、楽しかったから」
「それは……良かった」
 渡会は優しい声で微笑んだ。

「お土産を購入する生徒は、素早く時間内に購入してください。トイレに行っておくことも忘れずに! では一旦解散!」
 学年主任の一声で列が乱れ、生徒の波が駅構内に流れだす。
「俺、お土産見てくるけど、みんなどうする?」
 駅内を指差せば、反応は二手に分かれた。
 渡会と堀田は「俺も行く」と手を挙げ、仲里と守崎は「トイレ寄ってから行く」とこの場を離れた。
 さっそく渡会と堀田と一緒に、駅地下のお土産コーナーへ向かう。
 八つ橋、抹茶バウムクーヘン、わらび餅、いろんなお土産品がショーケースに並んでいる。
 悩みながら着々と増えるお土産。また一つ腕に紙袋を下げると、遠くから名前を呼ばれた。ショーケースから顔を上げた先に、渡会と堀田が手招きしている姿が見えた。
「試食していいって」
 彼らの元へ駆け寄ると、渡会は爪楊枝(つまようじ)に刺さったどら焼きのような欠片(かけら)を差し出してきた。隣の堀田はすでに食べたらしく、モグモグと口を動かしている。
 受け取りたいけど両手が紙袋で塞がっている。お土産を床に置こうとすれば、渡会の声がそれを制した。
「口開けて」
 どうやら、食べさせてくれるらしい。
 素直に口を開ければ、渡会はもう片方の手を添え、落ちないように入れてくれた。
「どう?」
「美味しい」
 きな粉みたいな味がする。
「つかさお兄ちゃん僕も〜」
「ボクもー」
 うしろから揶揄する声が飛んできた。
 振り返ると、仲里と守崎が立っていた。手にはお土産の袋をぶら下げている。合流する前に買ってきたようだ。
 というか〝つかさ〟って……。
「弟の真似やめろ」
 隣の渡会は眉間に皺を寄せていた。
 全員苗字で呼び合うから、たまに下の名前を聞くと分からなくなる。俺の名前も朝の事件がなければ……思い出したら恥ずかしくなってきた。
 嫌な記憶を振り払うように店員へ向き直る。
「先程試食でもらったのと、あと……チョコレート味もください」
「ありがとうございます〜」
 店員は手際良く箱を紙袋に詰め、会計時、一緒に何かを渡してきた。
「これ、おまけね!」
「あ、ありがとうございます」
 店員の手には、まねき猫のキーホルダーがぶら下がっていた。ゆらゆらと揺れるそれは、時折シャランと鈴の音を鳴らした。
 キーホルダーを握りしめ、両腕には大量の紙袋。さすがに買いすぎた。
「持つよ」
 渡会が俺の腕から紙袋を抜き取る。
 息をするように気遣いを見せる彼には頭が上がらない。何から何まで、渡会様様である。
 エスカレーターに差し掛かり、リュックを背負い直せば、手の中で貰ったキーホルダーが音を鳴らした。
 思い立って渡会の制服をクイッと引っ張る。
「手出して」
「え、なに」
 渡会は少し怖気(おじけ)づきながらも、手を差し出してくれた。その上に、まねき猫のキーホルダーを乗せた。
「これ、弟さんにあげる」
「日置が貰ったんじゃないの?」
「俺すぐ失くしそうだし……貰ってくれない? つかさお兄ちゃん」
 試食時のやりとりを思い出してニコリと微笑む。
 渡会は予想外だったようで、パチリと目をまたたいた。それでも、すぐにキーホルダーをポケットにしまい、俺の頭を掻き撫でた。せっかくセットしたのに。
「普通に呼んでよ」
 渡会はポツリと呟いた。
「渡会?」
「下の名前」
「紬嵩」
 言われるまま口にした。
 目の前の彼は、みるみるうちに頬を赤く染める。
「…………やっぱまだ苗字で」
 そう言い残すと顔を背けてしまった。
 まだってなんだよ。
 キスといい、名前といい、今後の予定に勝手に組み込まれている。渡会の不思議な思考に眉を顰めると、広場のほうから学年主任の声が聞こえてきた。
「時間も押してるので、素早くホームに移動してくださーい!」
 切羽詰まった声に腕時計を見る。発車時刻まで、数分しか残っていなかった。
 駆け足で向かえば、すでに新幹線が到着していた。乗車口には担任が立っており、生徒一人一人に切符を渡している。
「座席は中で調整して、とりあえず乗っちゃって」
 押し込まれるように乗車し、切符の番号が示した座席へ向かった。
「いらっしゃい〜」
「なんだかんだ日置と隣になるのは初めてかも」
 俺の席は仲里と堀田の間だった。修学旅行中はほとんど渡会の隣だったから、なんだか新鮮に感じる。
「揃ってない班がいたら報告しに来て〜、あとお昼のお弁当も持って行ってね」
 担任は歩きながら指差しで生徒を数えていた。車内はざわざわと騒がしいが、乗り遅れた生徒はいないようだ。
「また幕末弁当かな」
 堀田は初日の言い間違いを、自分の持ちネタにしたようだ。したり顔を浮かべる彼に、笑って首を振る。
「いや、さすがに違うでしょ」
「俺取りに行ってくる」
 仲里は席を立ち、車両の後方へ向かった。その背中を見送ると、堀田がトントンと肩を叩いてきた。
「修学旅行楽しかった?」
「うん。正直パシられるかと思ってたから、普通に楽しくてびっくりした」
「なわけないじゃん。俺らそんなふうに見えてたの?」
「喋ったことなかったし」
「んー……まぁ、そうか」
 堀田は頬を掻き、困ったように笑った。
 終わりよければ全て良し。グループ決めの時間に、声をかけてくれた堀田には感謝しかない。
「誘ってくれてありがとう」
「発案者は俺じゃないけど、どういたしまして〜」
 発案者? 中学の繋がりで堀田が誘ってくれたのだと思ったけど、違うのか。
「それってどういう──」
「なー! 見ろよ、肉!」
 俺の問いは仲里の声にかき消された。
 まぁ、楽しかったし何でもいっか。
 仲里から焼肉弁当を受け取ると、空になっていたお腹を満たした。

 昼食を終え、家族に到着時間を送ろうとチャットアプリを開く。そこには一件のメッセージが届いていた。
『イケメンたちのインスタアカウント教えて』
 送り主は池ヶ谷だった。
 予想はしていたけどやっぱりか。断られたって入れておこうかな……一応聞いてみるか。
「杏……じゃなくて、鹿のところで会った中学の同級生がインスタのアカウント知りたいらしいんだけど、教えてもいい?」
 まずは両隣の堀田と仲里に声をかけた。
「池ヶ谷だろ? 俺はいいよ」
「んー、俺は教えてもいいけどフォロバはしないかも。よく知らないし」
 二人に頷き、今度はうしろの席の守崎と渡会に同じ質問をした。
「俺はパス」
「あ〜……俺は教えていいよ」
 即答で返してきた守崎に対して、渡会は少し迷ってから頷いた。
 席に座り直し、さっそく池ヶ谷にメッセージを打った。その数分後、高速の土下座をするウサギのキャラクターのスタンプが送られてきた。そして、俺はすっかり家族に連絡することを忘れていたのだった。

「皆さんお疲れ様でした! ここで解散ですが、修学旅行は帰るまでが修学旅行です。寄り道せずに気をつけて帰ってください! それでは解散!」
「「「さようなら〜」」」
 駅構内に生徒の声が響く。
 終わってしまった、修学旅行。イマイチ実感が湧かない。
 駅の出口へ向かう生徒を眺めていると、堀田がスマホから顔を上げた。
「俺、迎え来てるから帰るけどみんな平気?」
 堀田の問いかけに、守崎は電光掲示板を見上げた。
「俺は電車で帰るから、もう行く」
「あ、俺も」
 同じ路線の仲里も、守崎に続いて手を挙げた。
「俺は迎え来るのもう少しかかるから待ってる」
 家族には、先程思い出して連絡したばかり。あと三十分は待たないといけない。
 最後に渡会に視線が集まると、彼はニコリと笑った。
「俺も。電車の時間遅いから」
 三日間付かず離れずだった俺たちは、ここで解散することになった。堀田は駅の出口へ、仲里と守崎はホームへ向かった。
 三人を見送り、隣を見上げる。
「電車の時間あとどのくらい?」
「十分くらいかな」
「乗せてこうか?」
「いや、最寄り駅に迎え来てもらってるから大丈夫」
「そっか」
 渡会に頷けば、周りを見回した。
 とりあえず座りたい。慣れない環境で三日間過ごした体は、思ったより疲れていた。
 ゴロゴロとキャリーケースを引きずり、空いていたベンチに腰を落ち着ける。そして、まだ直接伝えていなかった礼を口にした。
「修学旅行、いろいろ手伝ってくれてありがと。コンタクト取れた時とか、風呂の時とか、迷子の時とか、あと、お土産持ってくれたりとか……」
 三日間の迷惑事をあげればキリがない。段々と声が尻すぼみになっていく。
 罪悪感に目線が床に落ちると、柔らかい声が耳に届いた。
「気にしなくていいって、こっちこそグループ入ってくれてありがとう」
 疲れを感じさせない爽やかな笑顔だった。
 そんな彼に、自然と俺の表情も緩んだ。
「渡会とは、一番距離が縮まった気がする」
「……そう」
「最初なんか冷たかったし」
「え……あ、あれは挨拶の仕方が分からなくて、緊張してたし……」
 慌てて弁解する渡会に「冗談だよ」と笑った。
 その時、駅内の放送が響いた。
 渡会はあと十分と言っていたけれど、ホームまでの距離を考えると、もう向かったほうが良いのではないか。
「もう行く? 余裕あったほうがいいし。改札まで送るよ」
 ベンチから重い腰を持ち上げた。足を踏み出しても、すぐ隣に並んでくると思っていた渡会は来ない。
 振り返ろうとした瞬間、引きとめるように手首を掴まれた。
「ど、どした?」
 意図の汲めない渡会の行動に体が固まる。
 振り向いた先の彼も、気難しい表情を浮かべていた。
「日置さ……旅館で眼鏡取りに行った時のこと、覚えてる?」
 眼鏡? 渡会の言葉に記憶を巡らせる。
 眼鏡を取りに行って。
 こけそうになって。
 渡会に抱きとめてもらって。
 何でもするって、口走って──。
「……お、覚えてるけど」
 このあとに何を言われるのか分からない恐怖で声が震えた。
 なんだろう……実は修学旅行で仲良くしていたのはドッキリでしたとか? 来週からは何でも言いなりになれよとか?
 渡会を見つめたまま、ぐるぐると考える。この三日間が楽しかったからこそ、それが全部偽りの優しさだと知ったら引きこもりそう。三年くらい。
「日置をグループに入れようって言ったの、俺なんだよね」
 俺の心配を知ってか知らずか、渡会が口を開いた。堀田に聞けなかった質問の答えは、ここで返ってきた。
「……そ、そうなんだ」
「一人が可哀想だとかそういうのじゃなくて……ちょっとはあったけど」
 渡会の視線がスッと横に逸れる。
「一緒のグループになったら、日置のこと知れるかなって」
 俺の手首を握る手に力が入る。
「修学旅行で日置の面白いところとか、気が利くところとか……その、可愛いとこも、いろいろ知れて嬉しかった」
 渡会の頬と耳が、どんどん赤く染まっていく。
 待って。なんかこの流れ、おかしくない?
 甘くなっていく雰囲気に、気持ちがふわふわしてくる。
「あんまり触れるつもりはなかったんだけど、今さらだけど……ごめん」
「いや、俺も嫌じゃなかったからそのままにしてたというか……」
 そう口ごもると、渡会は俺の目を見て優しく微笑んだ。
 さらに甘くなっていく雰囲気に溺れそうになる。
 てか、これって……この流れって…………。
「もし日置が良かったらだけど」
 俺はただ言葉を待つしかなかった。
「俺と、友達になってほしい」
 え?
「ト…………トモダチ?」
 人間と分かり合えた宇宙人みたいな返しをしてしまった。
 いや、だってそうでしょ。
 告白の流れだったじゃん。
 どうして期待している自分がいるのかは分からないけど、雰囲気的に告白だった。百人中百人が告白判定をくだすくらいには告白だった。
 これが口コミで「勘違いさせてくる」と言われていた渡会の実力か。
 えっと、何だっけ、友達か……友達…………、
「ごめん……」
 思わず言葉が口を()いた。
 渡会は悲しそうに眉尻を下げている。
「ちがっ! ごめんって、そういうごめんじゃなくて! えっと、もう勝手に友達だと思ってたから、それのごめん」
 もう何を言っているのか自分でも分からない。
 そもそも、友達ってどこからが友達? 今まで「友達になろう!」で友達になったことがないから分からない。
 変な汗が止まらないでいると、渡会は俺の手をギュッと握った。何度も繋いできた手。安心するような大きな手。
 混乱していた脳が少し和らいだ。
「そう言ってもらえて嬉しいけど」
「……うん」
「なんて言うか……例えば、日置が遊びたいってなったら一番に誘ってほしいし、困った時は一番に頼ってほしい」
「あぁ、そういう……」
 なるほど、それが友達か。
 一呼吸置き、気持ちを落ち着かせる。
「えっと、友達よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
 渡会は今までで、一番輝いた笑顔を浮かべた。それにこたえるように、俺も笑顔を返す。
 再び、駅内放送の音が聞こえてくる。人の波も、どんどんホームに向かって流れだした。
「じゃあ、またね」
「うん。またね」
 渡会は名残惜しく手を離し、キャリーケースを引きずって改札へと歩きだした。改札を通ったあとも、時折こちらを振り返って機嫌良さそうに手を振ってくる。俺も手を振り返し、渡会の姿が見えなくなるまで、その場で見送った。
 迎えの車が到着するまで、あと二十分。(ほて)った体を冷やすために、外へ足を向けた。
 二年に進級してから約三ヶ月、新しい友達ができた。

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