高校二年生に進級してから、二ヶ月と少し。
新しいクラスにもやっと慣れてきたと思った矢先、大きな問題が待ち受けていた。
現在、修学旅行の班決め真っ只中。
一生の思い出に残るだろうイベント前の重要な時間に、俺は椅子から離れられずにいた。
(そもそも、なんで修学旅行を六月にするかな……)
親睦が深くなった十月あたりが最適だと思うのに、どうやら今年から変わったらしい。
教師たちは高校生のコミュ力を過大評価しすぎている。
クラスメイト全員の名前すら覚えているか怪しい俺は、この二ヶ月でゼロから仲良しの友達を作ることはできなかった。
友達がいないわけじゃない。仲の良い友達が、別のクラスになってしまっただけ。
いっこうに動かない俺が気になるのか、担任がチラチラと様子を窺ってくる。その視線から逃げるように、体を捻ってうしろを向いた。案の定、グループが決まった生徒は、楽しそうに談笑している。
仕方ない。俺を入れてくれる優しいグループを探すか。
意を決して重い腰を持ち上げたが、それは一人のクラスメイトによって阻まれてしまった。
「日置、グループ決まってないの? 俺らのとこ来ない?」
日本男児らしい凛々しい顔つきの彼、堀田颯斗は、短い髪を揺らしてニカッと笑った。同じ中学校出身の堀田は、爽やかな風貌と親しみやすい人柄から、女子の人気はもちろん、一部の男子からも憧れの的となっていた。
残念ながら、俺はその一部に属していないし、彼と親しいほどの仲でもない。
「決まってな──」
「じゃあ決まり! こっち来いよ!」
おいおい、話を聞いてくれ。
なんで俺? そもそもグループのメンバーは?
聞きたいことが山ほどあるのに、堀田は聞く耳を持たず、強引に俺の腕を引っ張った。
「日置も俺らのグループ入るって!」
「…………」
まだ入るとは言ってないけど。それに、目の前に座る三人のクラスメイトは、興味なさそうな目つきで俺を見上げている。
全然歓迎ムードではない空気に耐えられず、今度は俺が堀田の腕を引っ張った。
「おい! 全然歓迎されてないじゃん! なんで連れて来たの!?」
「え、みんな合意の上だけど」
「どこがだよ!」
合意? どこが?
「さっきも聞いたけど、なんで俺な──」
「なぁ、決まったから名前書いていい?」
話を聞かないやつばっかりなのか。
堀田から手を離し、声の主に向き直る。グループメンバーを記入する用紙を持った、一人のクラスメイトはジッと俺を見つめていた。
名前は、えっと……。
「渡会だっけ、俺入っていいの?」
なんとか捻り出すことができた。
渡会紬嵩。彼も堀田と同じく、女子から絶大な人気を誇る生徒だ。スラッとした長身に、スッキリした余白のない顔立ち。不意に見せる優しさに惚れてしまう……と、隣の席の女子も言っていたっけ。
「…………あ、うん。俺、渡会。よろしく」
渡会は謎の間を置いて、パッと顔を逸らした。
あまり俺の好感度は高くないようだ。もう少し笑顔を意識するべきだった。
「渡会の隣が仲里で、その隣が守崎」
渡会が記入している間、堀田が二人のクラスメイトを紹介してくれた。
人懐こそうにニパッと笑う彼は、仲里晴輝。男にしては中性的な顔立ちで、朗らかな表情からはアイドルのような愛嬌を感じる。
手元のスマホに集中する彼は、守崎尚哉。仲里や堀田とは反対に、近寄り難い雰囲気を醸し出す彼は、俳優のように整った横顔を画面に向けていた。
二人も言うまでもなく、学内で騒がれている生徒だ。よく分からないまま、学力より顔面偏差値が高そうなグループに招き入れられてしまった。
まぁ……もう、入れてくれるなら誰でもいいか。
ひとまず、グループが決まったことに安堵してホッと息を吐いた。
まだ少し肌寒い明け方。
当日は思ったより早く来るもので、あっという間に修学旅行初日。
「日置! おはよ」
集合場所の校庭に向かう道中、慣れ親しんだ声が背後から聞こえた。振り向くより先に隣に並んでくる、自分より少し背の低い男子生徒に「はよー」と挨拶を返す。
彼は辻谷萊空。同じ中学出身であり、同じ部活のバドミントン部に所属している。数少ない俺の友達だ。
「忘れ物ないか心配すぎて眠れなかった」
重たそうに垂れ下がった目尻を擦り、大きく欠伸をする辻谷。
「俺も母さんにめっちゃ聞かれた……って、楽しみで眠れなかったんじゃないのかよ」
「あはは! 確かに!」
辻谷の豪快な笑い声に、つられて俺も声を上げて笑った。
ひとしきり笑いあったあと、辻谷は思い出したように話題を切り替えた。
「そういえば、誰と同じグループなんだっけ?」
「あー……それね」
そのうち聞かれると思っていた質問に、一人ずつグループメンバーの名前を挙げる。
「うわー、堀田以外喋ったことないけど……なんでそのグループ?」
「俺が聞きたい」
「ついに日置も陽キャの仲間入りか」
「違う違う」
わざとらしく泣く素振りを見せる辻谷に「やめろ」と言って肩を叩く。ダメージゼロの彼は「ごめん」とまた豪快に笑った。
近況報告をしているうちに、気がつけば校庭に到着していた。まだ話していたかったけれど名残惜しく辻谷と別れ、ちらほらと集まる生徒たちを横目に、同じグループの彼らを探した。イケメン特有のオーラで見つけやすそうだけど、これだけ生徒が多いとそう簡単にはいかない。
メッセージを送るためにスマホを開くが、ロックを解除する間もなく、目の前に影が差した。
「おはよ」
「……はよ」
顔を上げた先には、ジッと俺を見下ろす渡会と、まだ眠そうな仲里が立っていた。
「堀田たち、あっちいるって」
ポケットに手を突っ込んだまま、仲里が目で場所を示す。目線をたどると「修学旅行楽しみだな」と言わんばかりの笑顔で手を振る堀田と、仲里と同じく眠そうな守崎が待っていた。
「一組からバスに移動ー!」
校長の長い挨拶のあと、教師の指示を皮切りにワッと周りが騒がしくなる。
「長すぎ! 足いてー」
「それな。早く座りたい」
堀田は愚痴を溢し、守崎はうんざりといった表情を浮かべた。
俺も今すぐ、バスへ乗り込みたい。けれど、俺たち五組の順番はもう少し先だ。
「てか、バスの座席どうする?」
仲里が流れだす二組の生徒へ目を向けた。その言葉に、渡会と守崎も顔を上げる。
「そういえば決めてなかったな」
「一番うしろの二列だっけ? 三人と二人で分かれるんでしょ」
「グッとパーで決めればよくね?」
堀田の提案で輪になり、グーの手を中央に出し合う。
「グッとパーで……」
仲里が掛け声を上げると、それを守崎が制した。
「やっぱ待って。誰か女子の隣になるんでしょ? 俺イヤなんだけど」
思い出したように彼が手を引っ込める。
そんな我儘に抗議の声が上がるのは当然で。
「えー、なんだよ今さら。だから一番うしろに五人で並べばいいって言ったじゃん」
「それだと会話聞こえねーじゃん」
「そん時くらい我慢しろよ」
「じゃあお前、女子の隣な」
「は? なんでそうなんの」
もう誰が何を喋っているのか分からないけど、仲が良すぎるあまり低レベルの喧嘩をしているらしい。
ただ傍観していた俺は、埒があかないと思って口を挟んだ。
「俺その席でいいよ。後部座席の真ん中」
ワーワーと騒いでいたわりに、俺の声は届いていたらしい。ピタッと言い合いが止まり、仲里と堀田と守崎の三人は「マジで?」という顔で俺に注目する。
「じゃあ俺、日置の隣に座る」
渡会からはまさかの立候補。
予想外な発言に固まっていると、渡会は「いい?」と首を傾げた。隣は誰でもいい俺は、圧に押されながらもぎこちなく頷いた。
「じゃあ俺は、その隣の窓際」
「じゃ、俺と仲里で前の二席な」
渡会に続けて守崎と堀田が決め、結局話し合いで収まった。
バスに乗り込めば、予想通り、先に座っていた隣の女子からの「お前かよ」という視線が痛い。
なんとなく居心地が悪く、渡会のほうに寄ると、勢い余って体がぶつかった。
「あ、ごめん」
「大丈夫……寄りかかってもいいけど」
そこまで言うなら代わってほしい。とは言えず、気持ちだけ受け取った。
点呼確認が終わり、バスが動き出す。
修学旅行は始まったばかりだが、もう帰りたい。
乗車券の番号を照らし合わせ、バスと同じ組み合わせに分かれて新幹線に乗り込む。
今度は窓際だ。テンションが上がる。
「な、窓、コレ開けててもいい?」
バスの中に語彙力を置いてきたかもしれない。
ブラインドを指差し、隣に座る渡会に声をかける。リュックから荷物を取り出していた彼は、ピタリと手を止めた。
「わざわざ聞かなくてもいいのに。眩しかったら言うし……外の景色好きなん?」
「うん、好き」
景色の何がいいのと聞かれれば、答えられないけど。なんとなく好き。
ニコリと笑みを向けると、渡会は一瞬固まったあと「…………そ」と呟いて顔を逸らした。
そこへちょうど、五つ分のお弁当を抱えた仲里が戻ってきた。
「弁当貰ってきたよ」
「なんの弁当?」
仲里から一つ受け取った堀田は、包装紙の隙間から中身を覗いた。
「分かんない、いろいろ入ってるやつ」
「幕末弁当か」
「……幕の内じゃね?」
仲里がポツリと堀田に突っ込む。
全員が顔を見合わせ、耐えきれずに笑いだした。
幕末弁当、逆に気になるな。
早めの昼食を済ませ、一息つく。窓の外は、まだ緑が多いが、ちらほらと建物も増えてきた気がする。
今日は雲ひとつない晴天。窓から差し込む太陽の日差しも暖かい。自然と瞼も落ちてくる。
今寝たら、夜眠れなくなるだろうな。頭では分かっていても、眠気には抗えない。
「眠いの?」
まどろむ俺に気付いた渡会が顔を覗き込む。
「うん」
「着いたら起こすから寝ていいよ」
首を振ろうとするも、優しい声色がさらに眠気を誘う。
彼の善意に甘えることにした俺は、深く椅子に座り直し、ゆっくりと目を閉じた。
体を揺さぶられる感覚に意識が浮上する。重い瞼を開くが、ボヤボヤとしていて、起きているはずなのに、まだ夢の中にいるようだった。
「おーい、日置。起きろって」
渡会の声が聞こえる。
何度か瞬きを繰り返し、ピントを合わせる。やっとクリアになった視界に、起こしてくれた渡会が鮮明に映った。窓の外は、最後に見た緑はなく、駅構内に変わっていた。
座席から立ち上がり、凝り固まった体を伸ばす。その時、骨の鳴る音と共に、変な声が漏れてしまった。慌てて口を塞ぐも、聞かれてしまったようで。
「大丈夫、聞いてない聞いてない」
前を歩く渡会に気を遣われてしまった。無性に恥ずかしくなり、リュックを背負い直すと、意味もなく彼の背中を叩いた。
季節は梅雨の六月。
地元は晴れていたのに、関西は曇りのようだ。太陽が隠れているのも相まって、駅の外は寒かった。
今日の予定は〝能〟を観覧して旅館に向かうだけ。
行きのバスや新幹線の移動時間が長かったぶん、能の劇場までは時間が短く感じた。
劇場の入口には、能に使われる衣装や小道具が飾られていた。重たそうな装束を過ぎ、会場内に入るとL字に組まれた舞台が目に入る。メインステージは中央ではなく端に寄っていた。
準備が整えば、劇場のスタッフが袖幕から登場した。
「説明するより、見てもらったほうが早いかもしれませんね」
スタッフは軽く挨拶を済ませ、颯爽と舞台からおりた。このテンポのよさ、うちの校長も見習ってほしい。
会場が暗闇につつまれ、舞台上に照明の光が集まる。和楽器を持った演者と能面で顔を覆った役者の登場に、会場内の空気はガラリと変わった。
お経のような歌声が、静かで品のある舞に重なる。初めて見る光景に、ただただ目が釘づけになった。
会場全体に、拍手が響き渡る。
最後を締めくくる学年主任の挨拶で、能の体験は幕を閉じた。
「雨降ってんだけどー!」
劇場の外から、生徒の叫び声が聞こえてくる。
怪しいとは思っていたが、ついに降りだしたようだ。
軒下から空を見上げると、大粒の雨が顔にぶつかった。慌てて目を擦れば、嫌な予感が走る。
「コンタクト取れた」
小さなひとりごとは、雨音にかき消された。
フリーズしたまま立ち尽くす俺は、密かに頭を抱えるのだった。
今頃、旅館で横になっているだろうキャリーケースの中に、眼鏡を置いてきてしまった。コンタクトが取れるなんて、一ミリも思わなかった。
視力を奪われた左目を開ければ、歪んだ世界が広がる。気持ち悪いから右も取ってしまいたい。
「どした? 感動したの?」
「違う、コンタクト取れた」
目を擦る俺を泣いていると勘違いしたのか、渡会は顔を覗き込んでからかってきた。今はそんな冗談に乗っている場合じゃない。
視界のギャップに気分が悪くなっていると、一つの打開策が浮かぶ。
「ねぇ、歩く時にどっか掴ませてほしいんだけど……いい?」
「……なに? どういうこと?」
渡会は怪訝そうに眉を顰めた。それでも、視界の悪さや転ぶリスクを細かく説明して押し通す。
最終的に、彼は訝しんだ表情のまま頷いた。
「……分かった。いーよ」
それは良いよの顔なのか。
「嫌なら別の人に頼むけど」
「行こ」
せっかく気を遣ったのに、渡会は聞こえなかったフリをして傘を開いた。
彼が何を考えているか分からないが、お言葉に甘えてリュックの紐を握る。そこへ、折りたたみ傘を忘れていた堀田と仲里と守崎が、大きな一つの和傘を持ってやってきた。劇場のスタッフからプレゼントされたらしい。
「早く移動してー」
担任の声に、渡会と俺、堀田と仲里と守崎に分かれて雨の中を歩いた。
なるべく迷惑をかけないように、足元を注意深く見つめる。一方、渡会は引っ張られる感覚が気に食わなかったようだ。
「こっちのほうがいい」
そう言って手を繋いできた。
リュックの紐を掴んでいた時より距離が詰まる。
歩きづらくないかと心配になったけれど、思っていた以上の安心感に、振りほどくのはためらわれた。幸いにも、うしろを歩く三人から囃し立てられることもなかった。
渡会はバスの座席に着くまで手を繋いでくれた。
クラスメイトからはジロジロ見られたと思うが、今は視界が悪くて良かった。こんなの、クリアな視界で味わったら恥ずかしくて死ぬ。
「ありがと、マジで助かった」
「旅館に着いてからもでしょ? まだお礼言うの早いと思うけど」
「んぇ……あ、そうか。でもありがとう」
「うん」
なんと、旅館に到着してからも介抱してくれるらしい。
俺の腑抜けた返事に、渡会は満足げに頷いた。
「ようこそいらっしゃいました」
品の良い声が耳に届く。視力を奪われた俺は、声の主を見ても顔が分からない。おそらく女将であろう女性も、並んで迎えてくれた旅館のスタッフも、全員のっぺらぼうだ。
ボヤける視界の中、夕食や入浴の時間について話す学年主任の声に耳を傾ける。
「部屋の鍵を受け取った班は、このまま大広間に移動!」
「え」
飛んできた指示に声を漏らす。
待て待て待て。先に部屋行かないの? せめて、眼鏡を取りに行かせてほしい。さすがにこれ以上視界が悪いのは不便すぎる。部屋に向かう許可を貰わなくては。
「先生に言ってこようか?」
必死に目を凝らして担任を探す俺を、渡会が察してくれたらしい。彼の声に反射的に頷けば、繋がれていた手が離れた。
「渡会どこ行ったん?」
隣から守崎の声が聞こえた。ボヤけた視界でも整っていると分かる顔に、危機的状況を説明する。彼は納得したように頷き、仲里の名前を呼んだ。
グループリーダーの仲里から鍵を受け取れば、タイミング良く、離れていた体温が俺の手を握った。
落ち着いたBGMが流れる廊下に、二人分の足音が響く。相変わらず、俺の手は渡会の手に繋がれたまま。
「本当に今日はありがと」
気まずさを紛らわせるために口を開いた。
「気にすんなって、俺も…………やっぱいいや」
何かを言いかけた渡会が口を噤む。
「なに?」
「なんでもない」
「逆に気になるんだけど」
「……………………」
これ以上聞くなということか。
黙りこむ背中を見つめていると、渡会がピタリと足を止めた。どうやら、ここが俺たちの部屋らしい。視界の悪さとも、あと少しでお別れだ。
「ここで待ってて」
急ぐ気持ちを抑え、ドアノブへ手をかける。
ずっと繋いでいた手は、なぜかすぐにはほどけなかった。引き留められるように引かれ、名残惜しそうにスッと離れる。一瞬のことで、わざとなのか偶然なのかも分からない。
なんだなんだ。モテるテクニックか。なんて感想を抱きながら、座敷に上がった。
色を頼りに自分のキャリーケースを見つけ、小さなポケットに手を突っ込む。触れ慣れた素材の感触を得ると、ケースを引っ張り出し、待ち望んだ眼鏡を身につけた。
クリアな視界に、ホッと息を吐く。それも束の間、急いで渡会が待つ部屋の入り口へと駆けだした。
「ごめん、お待たせ……うわっ⁉」
気を抜いた俺は、掃除の行き届いた滑らかな畳に足を取られた。バランスを崩した体は大きく傾く。
ギュッと強く目を瞑った先に、思っていた衝撃は襲ってこなかった。むしろ、痛みとは逆の包容力に包まれている。
「ごめん、ありがとう」
抱き止めてくれた渡会から体を起こす。この上なく恥ずかしい。いっそ消えてしまいたい。床と見つめ合っていれば、いきなり頬を掴まれた。羞恥心に染まった赤い顔が、オレンジを放つライトの下にさらされる。
「怪我ない?」
「え、あ、うん、大丈夫、です」
思わず敬語になる。
渡会は固まる俺など気にせず、顔の角度を変え、頭を撫で、傷がないか探していた。
しいて言えば、眼鏡が食い込んだ目頭が痛いくらいだが、そんなことより、俺はもうキャパオーバーだった。今はただ、渡会を見つめることしかできない。
「もう何でもするから許してほしい」
そう心の中で思った。
「へぇ」
聞こえていないはずの渡会が、意地悪そうに笑う。
え。俺、さっきの何でもするからって、無意識に口に出してた?
呆然と立ち尽くす俺に、ドアを開けた渡会は、急かすように目を向けてきた。真偽が分からないまま、慌ててスニーカーを履き、部屋から飛び出す。彼の隣に並べば、嬉しそうに笑みを浮かべる横顔を見上げた。
「な、さっきのこと忘れてほしいんだけど」
「やだ」
即答。というか、やっぱり口に出してたんだ。
何をお願いされるのだろう。明日の自由行動で何か奢るとかかな。あ、でもずっと介抱してもらってたし、三個くらいは言うこと聞かないといけないかも。
不安を胸に、恐る恐る隣を窺う。
「お手柔らかにお願いします」
「うん」
返事は微笑みと一緒に返ってきた。
夕食が待つ大広間に入ると、仲里たちが座っている円卓へ向かった。
席に着くなり、三人はまじまじと俺の顔を凝視してくる。
「なんか、眼鏡かけると雰囲気変わるね」
「幼く見える」
「不良にカツアゲされそう」
散々な言われようである。そんなに似合ってないのか。
「あ、違う違う! ごめんて! 可愛いってこと」
俺の微妙な空気を感じ取ったのか、すかさず仲里がフォローを入れた。堀田もそうそうと頷き、カツアゲされそうと言った守崎も頷く。
可愛いと言われても、どう反応したらいいか分からない。返事に戸惑っていると、学年主任の声が響いた。
「皆さん、修学旅行一日目お疲れ様でした。移動ばかりで疲れたと思いますが、たくさん美味しいご飯を食べて、明日も頑張りましょう!」
大広間に「いただきます」と生徒の声が反響する。同時に、食器の音や会話も大きくなった。
「なぁ、乾杯しようぜ」
堀田が手に取ったグラスを揺らす。彼の提案に、円卓上に並んでいた瓶を開けた。堀田はコーラ、仲里と守崎はオレンジジュース、渡会と俺は烏龍茶を注いだ。
「かんぱい〜!」
堀田の元気な声を合図に、グラスを前へ突き出す。合わさった五つのグラスは、カチャンとガラスの弾ける音を鳴らした。
「その動画送って」
烏龍茶を喉に流し込んでいると、渡会が守崎に目配せした。
「グループに送るわ」
いつの間にか動画を撮っていた守崎は、片手で器用にスマホをタップしている。
「多分、ストーリー動画じゃない? インスタの」
ボーッと二人のやり取りを見ていた俺に、隣に座っていた堀田が説明してくれた。インスタというアプリは、中高生の間で人気の写真を掲載するSNS。俺はダウンロードすらしていないけど、陽のかたまりである彼らは、かなり使いこなしているようだ。
「日置はインスタやってないの? アカウント教えてよ」
堀田は当たり前のようにスマホを取り出した。
「俺も知りたい」
「俺も! 教えて」
「ID送って」
堀田との会話を聞いていたようで、渡会たちも続いてスマホを手にする。
「俺やってないからアカウント持ってない」
そう答えれば、四人は一瞬の沈黙のあと、あり得ないという表情を浮かべた。別に、インスタやってない高校生はいるだろ。俺とか。
「じゃあ部屋戻ったらアカウント作ろ」
渡会は期待するようにこちらを窺った。断るのも面倒で適当に頷けば、嬉しそうな笑みが返ってきた。
男子高校生の食欲は旺盛なもので、円卓に並んでいた料理は、気付けばほとんど俺たちの胃袋に消えていた。
「皆さん、そろそろ食べ終わりましたかね? 次は時間をずらしてクラスごとの入浴になります。時間を間違えないように気をつけてください!」
学年主任の挨拶が済めば、次々と生徒が席を立つ。特に指示がなかったので、大広間の出入り口は混雑していた。
人の波が落ち着くまでの間。椅子に腰かけて膨れた腹を休ませていると、ポンと肩を叩かれた。
「よっ! 気分どう? 元気にイビられてる?」
見上げた先には、辻谷が立っていた。
「イビられてない。人を舎弟みたいに言うなよ……あ、聞いて、能見たあとにコンタクト取れてさ」
「あ~、だから眼鏡してんだ」
苦い思い出を笑って聞いていた彼は、慰めるように頭を掻き撫でてきた。かと思えば、いきなり大声を上げた。
「あ、やべ! 俺一組だから風呂の準備しないと! またな!」
小走りで出入り口へ駆けていく辻谷。
元気な友達に乱された髪を直しつつ席を立てば、今度は隣に渡会が並んできた。
「さっきの誰?」
「部活の友達」
「…………ふーん」
なんだか不機嫌な渡会は、そう言って目を細め、辻谷に乱された俺のボサボサな髪を撫でた。
しおりに感想を書いたり、インスタのアカウントを作ったりしていれば、すぐに入浴時間が回ってきた。向かった大浴場は、俺たちの学校の生徒や一般の客で賑わっている。
「日置、風呂平気なん?」
ちょうど眼鏡を外したタイミングで、渡会の声がかかった。
「大丈夫」
「転ぶなよ」
「…………善処はする」
自信のない返事をして、脱いだインナーシャツを籠に放った。
男同士と言えど、人前で裸になるのは抵抗がある。体型に自信がないからとかではなく、普通に恥ずかしい。
逃げるように浴場に駆けこみ、目に付いた風呂椅子に座る。持参したシャンプーを手に取って泡立てるが、量が多かったのか、泡はどんどん瞼の上まで流れ落ちてきた。手探りで回したハンドルは、捻る方向を間違えたようだ。冷たい水が、容赦なく降りかかる。
「うわ!」
「何してんの」
隣に座ってきた男子生徒に溜め息をつかれた。声からして守崎だと思う。
「水、これお湯に変えて」
目を閉じたまま、暗闇に向かって頼みこむ。キュッキュッと、ハンドルが回る音がすると、降りかかっていた水が徐々に温かくなってきた。
「だから平気かって聞いたじゃん」
守崎とは反対の方向から渡会の声がした。
「ありがと。助かった」
目元の水分を拭い、渡会と守崎に礼を伝えた。肌色の人型の何かにしか見えないけど、人違いだったらすみません。
「どういたしまして。洗い終わったら待ってて」
渡会の声色に心配が滲んでいた。また、能の帰り道のように引導してくれるのだろう。さすがにそこまで迷惑はかけられない。
「マジで転ばれたら困るから」
断りを入れようと口を開くが、先手を打たれてしまった。
結局、渡会に手を引かれ、浴槽に向かうことになった。
間近に来れば認識はできるもので、大理石っぽい縁が見えると、繋がれている手を引いた。眼鏡を取りに行った時とは違い、彼の手はすんなり離れる。
ゆっくり湯船に身を沈めれば、ふぅと息を吐いた。少し熱いが気持ちがいい。
「思ったけど、日置ってプールとかどうすんの?」
お湯が波立つ音と仲里の声が、同時に聞こえてきた。
「あ〜……中学の頃は今より視力良かったから、まだ一人で大丈夫だったし、プライベートでプールは行かない」
「高校はプールの授業ないもんな……あ、海は?」
「海は泳がないから行く」
海という単語に、堀田と渡会と守崎も反応した。
「海いーな。行きて〜」
「そろそろ夏だし、計画立てよ」
「日帰りで行けっかな」
なんだか海の計画を立て始めている。最初は四人だけの話かと聞き流していたが、会話の流れからして俺も頭数に入っているようだ。修学旅行が終わったら、以前の関係に戻ると思っていたから驚いた。
「にいちゃんたち、高校生か?」
海の話題で盛り上がっていると、聞きなれない年配のおじさんの声が割り込んできた。おそらく、一般の宿泊客だろう。
「そうです。修学旅行で」
突然の来訪に、渡会は淡々と答えた。
「はっは! もう美味いもん食うたか! どっから来はった!」
おじさんは豪快に笑いながら、鼓舞するように俺の肩を叩いた。地味に痛い。
「ちゃんと食って筋肉つけなアカンよ! こんな細くてヒョロっちいと、女の子守れないやんか!」
「え……」
突然、おじさんに腹を触られた。くすぐったさに思わず、ふっと息が漏れる。微妙な空気になりかねないと、慌てて口を押さえてももう遅い。
「おっとすまんすまん! こそばゆかったか!」
おじさんはまた豪快に笑った。
さっきからスキンシップが激しいとは思っていたけれど、ここまでとは。変な下心を感じないぶん、余計にたちが悪い。
愛想笑いを浮かべて距離を取ると、体をずらした先で腕を掴まれた。反動で、ヒョロっちいと言われた体が湯船から引き上げられる。
「じゃあ、俺らもう行かないとなんで。失礼しまーす」
「ほなな! 楽しんでや!」
おじさんの元気な声が浴場内に響いた。
脱衣所へ着けば、俺の腕を引いていた渡会は心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫?」
「まさかセクハラされると思ってなかった」
「だよな」
「俺はそんなヒョロくない」
「あ、そこなんだ」
嘘である。少しでも笑える空気に持っていきたくて冗談を言った。
からかってくると思った渡会は、笑うことも慰めることもせず、俺を見つめていた。
怒涛の一日目も終わりが迫っていた。けれど、今は修学旅行。これだけで終わるわけがない。
思い出は、記憶より写真のほうが目に見えて残る。現代っ子の彼らは、息をするようにスマホに記録を残していた。映りが良いからという理由で、部屋の狭い洗面所に五人肩を並べ、鏡越しに写真を撮った。
満足そうな彼らを横目に、暑苦しい洗面所を出ようとすると、それは渡会によって止められた。
「日置と一緒に撮りたいんだけど……二人で」
俺の腕を掴んだまま、渡会は期待するようにスマホを掲げた。自然な動きで俺の肩を抱き、画面の中でベストポジションを探しだす。ポーズがワンパターンしかない俺は、ずっとピースを維持してシャッターが切られるのを待った。
撮るよ、と耳元で一言。同時に、画面が一瞬光る。もちろん、SNSを駆使している男子高校生が一枚で切り上げることはなく、追加で何枚か撮りたいとお願いされた。
渡会との撮影を通して、ピース以外にも新しいポーズを習得した。今後、使うか分からないが覚えておこう。
「もう戻っていい?」
スマホの画面を見つめる渡会に尋ねれば、満足したような笑みが返ってきた。
奥の座敷には、すでに五人分の布団が敷かれていた。左側に三人分、右側に二人分、中央に頭を向ける形になっている。
「敷いてくれたんだ、ありがとう」
「どーいたしまして」
誰が敷いてくれたのか分からず、まとめて三人に礼を伝えると、寄せられた机の端でスマホをいじっていた堀田が顔を上げた。
やっと、疲労の溜まった体を、肌触りの良い布団に転がす。
(あ、勝手に場所決めちゃった……ま、いっか)
新幹線で寝てしまったことを懸念していたが、心配なく眠れそうだ。
眼鏡を枕元に放り、じわじわと襲ってきた睡魔に身を委ねる。
「えー、まだ寝んなよ。もっと話したいのに」
まどろみだした俺の頬を仲里が突つく。
「うーん。何話すの」
「修学旅行と言えば、恋バナでしょ」
なんとも修学旅行らしい回答だった。
体を反転させ、眼鏡をたぐり寄せる。隣にいると思った仲里は、三人側の中央を陣取っていた。
「日置は彼女いるの?」
机の上にスマホを置いた堀田は、質問を投げながら仲里の隣に寝転がった。個人の時間に没頭していた渡会と守崎も、気になると言わんばかりに布団に吸い寄せられて来る。
「おもしろくなくてごめんだけど、いない」
首を振れば、堀田はなぜか頭にハテナを浮かべた。
「あれ、でも中学の時はいたよね?」
「それ多分誤解」
「え、堀田と日置って中学一緒なん?」
隣の布団に寝転がっていた渡会は、驚いた声を上げて体を起こした。
てっきり堀田から聞いていたと思っていたが、どうやら違うようだ。
「そうだよ、一緒のクラスにはなったことないけど」
「三クラスしかなかったのに、逆に奇跡だよな」
俺の返答に付け加えて堀田が笑う。
「で、誤解ってなに?」
途切れてしまった話題を戻すように、守崎が口を挟んだ。あいにく、期待の眼差しを向けてくる彼が喜ぶような特別な思い出はない。
「仲良かった友達の相談乗ってたら、それを付き合ってると勘違いした人が言いふらしただけ」
「あるあるだね」
仲里がクスッと笑った。
「どうやって誤解といたの」
守崎はこの話の先に、まだ面白い要素があると思っているようだ。さらに質問を重ねた。
「といたっていうか、結局相談乗ってた子が本命とくっついたから、それ以来集合することもなくなって……自然消滅だと思われてるんじゃない?」
「へー、俺もそれ聞くまでは自然消滅だと思ってた」
堀田が納得したように頷いた。
「そんな有名カップルだったんだ」
「勝手に噂が一人歩きしただけだよ。俺の話終わり、てか彼女持ちいないの?」
渡会の探るような視線から顔を逸らし、俺よりも学年の女子全員が気になっているだろう話題に切り替えた。四人を見れば、口を揃えて「いた」と言った。「いる」ではなく「いた」ということは、今はフリーのようだ。
気になった俺は、四人の元カノ談を尋ねてみた。
単純に趣味が合わなかったからと、それらしい理由もあれば、精神的に重い元カノの話もあり、逆に軽薄な元カノの話もあった。
「重さで言ったら、渡会もだいぶ重いけどな」
精神的に重い彼女と付き合っていた過去を持つ守崎は、自身の話の途中でそんなことを言い出した。
「元カノが?」
話の流れで元カノの性格かと思ったが、守崎は首を左右に振った。
「いや、渡会自身が」
「へぇ」
「別に普通だけど」
視線を向けた先の渡会は、心外だと言うように肩をすくめた。
「重いっていうか、嫉妬深いというか」
「隙がなくて逆に怖いらしいよ」
仲里と堀田は、コソコソ話をする素振りで俺にささやきかけてくる。
渡会は尽くしたいタイプの人間らしい。たしかに、思い当たる節は今日を思い返すだけで山ほどある。
「あと、勘違いさせてくるっていう十代女性からの口コミもありました」
「レビューみたいに言うなよ」
ふざけてからかう仲里に、渡会は溜め息をついた。
ちなみに、俺はそのレビューを今日体験していた。さりげなく手を繋いだり、逆に名残惜しそうに手を離したり、気遣いも含めればキリがない。
「俺の話終わり」
ヘソを曲げてしまった渡会は、ポスンと枕に頭を預けた。抗議の声が上がったが、答える気はないらしい。
「えっと、じゃあ、好きなタイプは?」
みんなの意識が逸れるように口を挟む。
もっと舵を切って全然違う話をすれば良かった。でも、好きを語るだけなら誰も傷つかないだろう。
修学旅行の夜は、まだまだ長引きそうだ。
新しいクラスにもやっと慣れてきたと思った矢先、大きな問題が待ち受けていた。
現在、修学旅行の班決め真っ只中。
一生の思い出に残るだろうイベント前の重要な時間に、俺は椅子から離れられずにいた。
(そもそも、なんで修学旅行を六月にするかな……)
親睦が深くなった十月あたりが最適だと思うのに、どうやら今年から変わったらしい。
教師たちは高校生のコミュ力を過大評価しすぎている。
クラスメイト全員の名前すら覚えているか怪しい俺は、この二ヶ月でゼロから仲良しの友達を作ることはできなかった。
友達がいないわけじゃない。仲の良い友達が、別のクラスになってしまっただけ。
いっこうに動かない俺が気になるのか、担任がチラチラと様子を窺ってくる。その視線から逃げるように、体を捻ってうしろを向いた。案の定、グループが決まった生徒は、楽しそうに談笑している。
仕方ない。俺を入れてくれる優しいグループを探すか。
意を決して重い腰を持ち上げたが、それは一人のクラスメイトによって阻まれてしまった。
「日置、グループ決まってないの? 俺らのとこ来ない?」
日本男児らしい凛々しい顔つきの彼、堀田颯斗は、短い髪を揺らしてニカッと笑った。同じ中学校出身の堀田は、爽やかな風貌と親しみやすい人柄から、女子の人気はもちろん、一部の男子からも憧れの的となっていた。
残念ながら、俺はその一部に属していないし、彼と親しいほどの仲でもない。
「決まってな──」
「じゃあ決まり! こっち来いよ!」
おいおい、話を聞いてくれ。
なんで俺? そもそもグループのメンバーは?
聞きたいことが山ほどあるのに、堀田は聞く耳を持たず、強引に俺の腕を引っ張った。
「日置も俺らのグループ入るって!」
「…………」
まだ入るとは言ってないけど。それに、目の前に座る三人のクラスメイトは、興味なさそうな目つきで俺を見上げている。
全然歓迎ムードではない空気に耐えられず、今度は俺が堀田の腕を引っ張った。
「おい! 全然歓迎されてないじゃん! なんで連れて来たの!?」
「え、みんな合意の上だけど」
「どこがだよ!」
合意? どこが?
「さっきも聞いたけど、なんで俺な──」
「なぁ、決まったから名前書いていい?」
話を聞かないやつばっかりなのか。
堀田から手を離し、声の主に向き直る。グループメンバーを記入する用紙を持った、一人のクラスメイトはジッと俺を見つめていた。
名前は、えっと……。
「渡会だっけ、俺入っていいの?」
なんとか捻り出すことができた。
渡会紬嵩。彼も堀田と同じく、女子から絶大な人気を誇る生徒だ。スラッとした長身に、スッキリした余白のない顔立ち。不意に見せる優しさに惚れてしまう……と、隣の席の女子も言っていたっけ。
「…………あ、うん。俺、渡会。よろしく」
渡会は謎の間を置いて、パッと顔を逸らした。
あまり俺の好感度は高くないようだ。もう少し笑顔を意識するべきだった。
「渡会の隣が仲里で、その隣が守崎」
渡会が記入している間、堀田が二人のクラスメイトを紹介してくれた。
人懐こそうにニパッと笑う彼は、仲里晴輝。男にしては中性的な顔立ちで、朗らかな表情からはアイドルのような愛嬌を感じる。
手元のスマホに集中する彼は、守崎尚哉。仲里や堀田とは反対に、近寄り難い雰囲気を醸し出す彼は、俳優のように整った横顔を画面に向けていた。
二人も言うまでもなく、学内で騒がれている生徒だ。よく分からないまま、学力より顔面偏差値が高そうなグループに招き入れられてしまった。
まぁ……もう、入れてくれるなら誰でもいいか。
ひとまず、グループが決まったことに安堵してホッと息を吐いた。
まだ少し肌寒い明け方。
当日は思ったより早く来るもので、あっという間に修学旅行初日。
「日置! おはよ」
集合場所の校庭に向かう道中、慣れ親しんだ声が背後から聞こえた。振り向くより先に隣に並んでくる、自分より少し背の低い男子生徒に「はよー」と挨拶を返す。
彼は辻谷萊空。同じ中学出身であり、同じ部活のバドミントン部に所属している。数少ない俺の友達だ。
「忘れ物ないか心配すぎて眠れなかった」
重たそうに垂れ下がった目尻を擦り、大きく欠伸をする辻谷。
「俺も母さんにめっちゃ聞かれた……って、楽しみで眠れなかったんじゃないのかよ」
「あはは! 確かに!」
辻谷の豪快な笑い声に、つられて俺も声を上げて笑った。
ひとしきり笑いあったあと、辻谷は思い出したように話題を切り替えた。
「そういえば、誰と同じグループなんだっけ?」
「あー……それね」
そのうち聞かれると思っていた質問に、一人ずつグループメンバーの名前を挙げる。
「うわー、堀田以外喋ったことないけど……なんでそのグループ?」
「俺が聞きたい」
「ついに日置も陽キャの仲間入りか」
「違う違う」
わざとらしく泣く素振りを見せる辻谷に「やめろ」と言って肩を叩く。ダメージゼロの彼は「ごめん」とまた豪快に笑った。
近況報告をしているうちに、気がつけば校庭に到着していた。まだ話していたかったけれど名残惜しく辻谷と別れ、ちらほらと集まる生徒たちを横目に、同じグループの彼らを探した。イケメン特有のオーラで見つけやすそうだけど、これだけ生徒が多いとそう簡単にはいかない。
メッセージを送るためにスマホを開くが、ロックを解除する間もなく、目の前に影が差した。
「おはよ」
「……はよ」
顔を上げた先には、ジッと俺を見下ろす渡会と、まだ眠そうな仲里が立っていた。
「堀田たち、あっちいるって」
ポケットに手を突っ込んだまま、仲里が目で場所を示す。目線をたどると「修学旅行楽しみだな」と言わんばかりの笑顔で手を振る堀田と、仲里と同じく眠そうな守崎が待っていた。
「一組からバスに移動ー!」
校長の長い挨拶のあと、教師の指示を皮切りにワッと周りが騒がしくなる。
「長すぎ! 足いてー」
「それな。早く座りたい」
堀田は愚痴を溢し、守崎はうんざりといった表情を浮かべた。
俺も今すぐ、バスへ乗り込みたい。けれど、俺たち五組の順番はもう少し先だ。
「てか、バスの座席どうする?」
仲里が流れだす二組の生徒へ目を向けた。その言葉に、渡会と守崎も顔を上げる。
「そういえば決めてなかったな」
「一番うしろの二列だっけ? 三人と二人で分かれるんでしょ」
「グッとパーで決めればよくね?」
堀田の提案で輪になり、グーの手を中央に出し合う。
「グッとパーで……」
仲里が掛け声を上げると、それを守崎が制した。
「やっぱ待って。誰か女子の隣になるんでしょ? 俺イヤなんだけど」
思い出したように彼が手を引っ込める。
そんな我儘に抗議の声が上がるのは当然で。
「えー、なんだよ今さら。だから一番うしろに五人で並べばいいって言ったじゃん」
「それだと会話聞こえねーじゃん」
「そん時くらい我慢しろよ」
「じゃあお前、女子の隣な」
「は? なんでそうなんの」
もう誰が何を喋っているのか分からないけど、仲が良すぎるあまり低レベルの喧嘩をしているらしい。
ただ傍観していた俺は、埒があかないと思って口を挟んだ。
「俺その席でいいよ。後部座席の真ん中」
ワーワーと騒いでいたわりに、俺の声は届いていたらしい。ピタッと言い合いが止まり、仲里と堀田と守崎の三人は「マジで?」という顔で俺に注目する。
「じゃあ俺、日置の隣に座る」
渡会からはまさかの立候補。
予想外な発言に固まっていると、渡会は「いい?」と首を傾げた。隣は誰でもいい俺は、圧に押されながらもぎこちなく頷いた。
「じゃあ俺は、その隣の窓際」
「じゃ、俺と仲里で前の二席な」
渡会に続けて守崎と堀田が決め、結局話し合いで収まった。
バスに乗り込めば、予想通り、先に座っていた隣の女子からの「お前かよ」という視線が痛い。
なんとなく居心地が悪く、渡会のほうに寄ると、勢い余って体がぶつかった。
「あ、ごめん」
「大丈夫……寄りかかってもいいけど」
そこまで言うなら代わってほしい。とは言えず、気持ちだけ受け取った。
点呼確認が終わり、バスが動き出す。
修学旅行は始まったばかりだが、もう帰りたい。
乗車券の番号を照らし合わせ、バスと同じ組み合わせに分かれて新幹線に乗り込む。
今度は窓際だ。テンションが上がる。
「な、窓、コレ開けててもいい?」
バスの中に語彙力を置いてきたかもしれない。
ブラインドを指差し、隣に座る渡会に声をかける。リュックから荷物を取り出していた彼は、ピタリと手を止めた。
「わざわざ聞かなくてもいいのに。眩しかったら言うし……外の景色好きなん?」
「うん、好き」
景色の何がいいのと聞かれれば、答えられないけど。なんとなく好き。
ニコリと笑みを向けると、渡会は一瞬固まったあと「…………そ」と呟いて顔を逸らした。
そこへちょうど、五つ分のお弁当を抱えた仲里が戻ってきた。
「弁当貰ってきたよ」
「なんの弁当?」
仲里から一つ受け取った堀田は、包装紙の隙間から中身を覗いた。
「分かんない、いろいろ入ってるやつ」
「幕末弁当か」
「……幕の内じゃね?」
仲里がポツリと堀田に突っ込む。
全員が顔を見合わせ、耐えきれずに笑いだした。
幕末弁当、逆に気になるな。
早めの昼食を済ませ、一息つく。窓の外は、まだ緑が多いが、ちらほらと建物も増えてきた気がする。
今日は雲ひとつない晴天。窓から差し込む太陽の日差しも暖かい。自然と瞼も落ちてくる。
今寝たら、夜眠れなくなるだろうな。頭では分かっていても、眠気には抗えない。
「眠いの?」
まどろむ俺に気付いた渡会が顔を覗き込む。
「うん」
「着いたら起こすから寝ていいよ」
首を振ろうとするも、優しい声色がさらに眠気を誘う。
彼の善意に甘えることにした俺は、深く椅子に座り直し、ゆっくりと目を閉じた。
体を揺さぶられる感覚に意識が浮上する。重い瞼を開くが、ボヤボヤとしていて、起きているはずなのに、まだ夢の中にいるようだった。
「おーい、日置。起きろって」
渡会の声が聞こえる。
何度か瞬きを繰り返し、ピントを合わせる。やっとクリアになった視界に、起こしてくれた渡会が鮮明に映った。窓の外は、最後に見た緑はなく、駅構内に変わっていた。
座席から立ち上がり、凝り固まった体を伸ばす。その時、骨の鳴る音と共に、変な声が漏れてしまった。慌てて口を塞ぐも、聞かれてしまったようで。
「大丈夫、聞いてない聞いてない」
前を歩く渡会に気を遣われてしまった。無性に恥ずかしくなり、リュックを背負い直すと、意味もなく彼の背中を叩いた。
季節は梅雨の六月。
地元は晴れていたのに、関西は曇りのようだ。太陽が隠れているのも相まって、駅の外は寒かった。
今日の予定は〝能〟を観覧して旅館に向かうだけ。
行きのバスや新幹線の移動時間が長かったぶん、能の劇場までは時間が短く感じた。
劇場の入口には、能に使われる衣装や小道具が飾られていた。重たそうな装束を過ぎ、会場内に入るとL字に組まれた舞台が目に入る。メインステージは中央ではなく端に寄っていた。
準備が整えば、劇場のスタッフが袖幕から登場した。
「説明するより、見てもらったほうが早いかもしれませんね」
スタッフは軽く挨拶を済ませ、颯爽と舞台からおりた。このテンポのよさ、うちの校長も見習ってほしい。
会場が暗闇につつまれ、舞台上に照明の光が集まる。和楽器を持った演者と能面で顔を覆った役者の登場に、会場内の空気はガラリと変わった。
お経のような歌声が、静かで品のある舞に重なる。初めて見る光景に、ただただ目が釘づけになった。
会場全体に、拍手が響き渡る。
最後を締めくくる学年主任の挨拶で、能の体験は幕を閉じた。
「雨降ってんだけどー!」
劇場の外から、生徒の叫び声が聞こえてくる。
怪しいとは思っていたが、ついに降りだしたようだ。
軒下から空を見上げると、大粒の雨が顔にぶつかった。慌てて目を擦れば、嫌な予感が走る。
「コンタクト取れた」
小さなひとりごとは、雨音にかき消された。
フリーズしたまま立ち尽くす俺は、密かに頭を抱えるのだった。
今頃、旅館で横になっているだろうキャリーケースの中に、眼鏡を置いてきてしまった。コンタクトが取れるなんて、一ミリも思わなかった。
視力を奪われた左目を開ければ、歪んだ世界が広がる。気持ち悪いから右も取ってしまいたい。
「どした? 感動したの?」
「違う、コンタクト取れた」
目を擦る俺を泣いていると勘違いしたのか、渡会は顔を覗き込んでからかってきた。今はそんな冗談に乗っている場合じゃない。
視界のギャップに気分が悪くなっていると、一つの打開策が浮かぶ。
「ねぇ、歩く時にどっか掴ませてほしいんだけど……いい?」
「……なに? どういうこと?」
渡会は怪訝そうに眉を顰めた。それでも、視界の悪さや転ぶリスクを細かく説明して押し通す。
最終的に、彼は訝しんだ表情のまま頷いた。
「……分かった。いーよ」
それは良いよの顔なのか。
「嫌なら別の人に頼むけど」
「行こ」
せっかく気を遣ったのに、渡会は聞こえなかったフリをして傘を開いた。
彼が何を考えているか分からないが、お言葉に甘えてリュックの紐を握る。そこへ、折りたたみ傘を忘れていた堀田と仲里と守崎が、大きな一つの和傘を持ってやってきた。劇場のスタッフからプレゼントされたらしい。
「早く移動してー」
担任の声に、渡会と俺、堀田と仲里と守崎に分かれて雨の中を歩いた。
なるべく迷惑をかけないように、足元を注意深く見つめる。一方、渡会は引っ張られる感覚が気に食わなかったようだ。
「こっちのほうがいい」
そう言って手を繋いできた。
リュックの紐を掴んでいた時より距離が詰まる。
歩きづらくないかと心配になったけれど、思っていた以上の安心感に、振りほどくのはためらわれた。幸いにも、うしろを歩く三人から囃し立てられることもなかった。
渡会はバスの座席に着くまで手を繋いでくれた。
クラスメイトからはジロジロ見られたと思うが、今は視界が悪くて良かった。こんなの、クリアな視界で味わったら恥ずかしくて死ぬ。
「ありがと、マジで助かった」
「旅館に着いてからもでしょ? まだお礼言うの早いと思うけど」
「んぇ……あ、そうか。でもありがとう」
「うん」
なんと、旅館に到着してからも介抱してくれるらしい。
俺の腑抜けた返事に、渡会は満足げに頷いた。
「ようこそいらっしゃいました」
品の良い声が耳に届く。視力を奪われた俺は、声の主を見ても顔が分からない。おそらく女将であろう女性も、並んで迎えてくれた旅館のスタッフも、全員のっぺらぼうだ。
ボヤける視界の中、夕食や入浴の時間について話す学年主任の声に耳を傾ける。
「部屋の鍵を受け取った班は、このまま大広間に移動!」
「え」
飛んできた指示に声を漏らす。
待て待て待て。先に部屋行かないの? せめて、眼鏡を取りに行かせてほしい。さすがにこれ以上視界が悪いのは不便すぎる。部屋に向かう許可を貰わなくては。
「先生に言ってこようか?」
必死に目を凝らして担任を探す俺を、渡会が察してくれたらしい。彼の声に反射的に頷けば、繋がれていた手が離れた。
「渡会どこ行ったん?」
隣から守崎の声が聞こえた。ボヤけた視界でも整っていると分かる顔に、危機的状況を説明する。彼は納得したように頷き、仲里の名前を呼んだ。
グループリーダーの仲里から鍵を受け取れば、タイミング良く、離れていた体温が俺の手を握った。
落ち着いたBGMが流れる廊下に、二人分の足音が響く。相変わらず、俺の手は渡会の手に繋がれたまま。
「本当に今日はありがと」
気まずさを紛らわせるために口を開いた。
「気にすんなって、俺も…………やっぱいいや」
何かを言いかけた渡会が口を噤む。
「なに?」
「なんでもない」
「逆に気になるんだけど」
「……………………」
これ以上聞くなということか。
黙りこむ背中を見つめていると、渡会がピタリと足を止めた。どうやら、ここが俺たちの部屋らしい。視界の悪さとも、あと少しでお別れだ。
「ここで待ってて」
急ぐ気持ちを抑え、ドアノブへ手をかける。
ずっと繋いでいた手は、なぜかすぐにはほどけなかった。引き留められるように引かれ、名残惜しそうにスッと離れる。一瞬のことで、わざとなのか偶然なのかも分からない。
なんだなんだ。モテるテクニックか。なんて感想を抱きながら、座敷に上がった。
色を頼りに自分のキャリーケースを見つけ、小さなポケットに手を突っ込む。触れ慣れた素材の感触を得ると、ケースを引っ張り出し、待ち望んだ眼鏡を身につけた。
クリアな視界に、ホッと息を吐く。それも束の間、急いで渡会が待つ部屋の入り口へと駆けだした。
「ごめん、お待たせ……うわっ⁉」
気を抜いた俺は、掃除の行き届いた滑らかな畳に足を取られた。バランスを崩した体は大きく傾く。
ギュッと強く目を瞑った先に、思っていた衝撃は襲ってこなかった。むしろ、痛みとは逆の包容力に包まれている。
「ごめん、ありがとう」
抱き止めてくれた渡会から体を起こす。この上なく恥ずかしい。いっそ消えてしまいたい。床と見つめ合っていれば、いきなり頬を掴まれた。羞恥心に染まった赤い顔が、オレンジを放つライトの下にさらされる。
「怪我ない?」
「え、あ、うん、大丈夫、です」
思わず敬語になる。
渡会は固まる俺など気にせず、顔の角度を変え、頭を撫で、傷がないか探していた。
しいて言えば、眼鏡が食い込んだ目頭が痛いくらいだが、そんなことより、俺はもうキャパオーバーだった。今はただ、渡会を見つめることしかできない。
「もう何でもするから許してほしい」
そう心の中で思った。
「へぇ」
聞こえていないはずの渡会が、意地悪そうに笑う。
え。俺、さっきの何でもするからって、無意識に口に出してた?
呆然と立ち尽くす俺に、ドアを開けた渡会は、急かすように目を向けてきた。真偽が分からないまま、慌ててスニーカーを履き、部屋から飛び出す。彼の隣に並べば、嬉しそうに笑みを浮かべる横顔を見上げた。
「な、さっきのこと忘れてほしいんだけど」
「やだ」
即答。というか、やっぱり口に出してたんだ。
何をお願いされるのだろう。明日の自由行動で何か奢るとかかな。あ、でもずっと介抱してもらってたし、三個くらいは言うこと聞かないといけないかも。
不安を胸に、恐る恐る隣を窺う。
「お手柔らかにお願いします」
「うん」
返事は微笑みと一緒に返ってきた。
夕食が待つ大広間に入ると、仲里たちが座っている円卓へ向かった。
席に着くなり、三人はまじまじと俺の顔を凝視してくる。
「なんか、眼鏡かけると雰囲気変わるね」
「幼く見える」
「不良にカツアゲされそう」
散々な言われようである。そんなに似合ってないのか。
「あ、違う違う! ごめんて! 可愛いってこと」
俺の微妙な空気を感じ取ったのか、すかさず仲里がフォローを入れた。堀田もそうそうと頷き、カツアゲされそうと言った守崎も頷く。
可愛いと言われても、どう反応したらいいか分からない。返事に戸惑っていると、学年主任の声が響いた。
「皆さん、修学旅行一日目お疲れ様でした。移動ばかりで疲れたと思いますが、たくさん美味しいご飯を食べて、明日も頑張りましょう!」
大広間に「いただきます」と生徒の声が反響する。同時に、食器の音や会話も大きくなった。
「なぁ、乾杯しようぜ」
堀田が手に取ったグラスを揺らす。彼の提案に、円卓上に並んでいた瓶を開けた。堀田はコーラ、仲里と守崎はオレンジジュース、渡会と俺は烏龍茶を注いだ。
「かんぱい〜!」
堀田の元気な声を合図に、グラスを前へ突き出す。合わさった五つのグラスは、カチャンとガラスの弾ける音を鳴らした。
「その動画送って」
烏龍茶を喉に流し込んでいると、渡会が守崎に目配せした。
「グループに送るわ」
いつの間にか動画を撮っていた守崎は、片手で器用にスマホをタップしている。
「多分、ストーリー動画じゃない? インスタの」
ボーッと二人のやり取りを見ていた俺に、隣に座っていた堀田が説明してくれた。インスタというアプリは、中高生の間で人気の写真を掲載するSNS。俺はダウンロードすらしていないけど、陽のかたまりである彼らは、かなり使いこなしているようだ。
「日置はインスタやってないの? アカウント教えてよ」
堀田は当たり前のようにスマホを取り出した。
「俺も知りたい」
「俺も! 教えて」
「ID送って」
堀田との会話を聞いていたようで、渡会たちも続いてスマホを手にする。
「俺やってないからアカウント持ってない」
そう答えれば、四人は一瞬の沈黙のあと、あり得ないという表情を浮かべた。別に、インスタやってない高校生はいるだろ。俺とか。
「じゃあ部屋戻ったらアカウント作ろ」
渡会は期待するようにこちらを窺った。断るのも面倒で適当に頷けば、嬉しそうな笑みが返ってきた。
男子高校生の食欲は旺盛なもので、円卓に並んでいた料理は、気付けばほとんど俺たちの胃袋に消えていた。
「皆さん、そろそろ食べ終わりましたかね? 次は時間をずらしてクラスごとの入浴になります。時間を間違えないように気をつけてください!」
学年主任の挨拶が済めば、次々と生徒が席を立つ。特に指示がなかったので、大広間の出入り口は混雑していた。
人の波が落ち着くまでの間。椅子に腰かけて膨れた腹を休ませていると、ポンと肩を叩かれた。
「よっ! 気分どう? 元気にイビられてる?」
見上げた先には、辻谷が立っていた。
「イビられてない。人を舎弟みたいに言うなよ……あ、聞いて、能見たあとにコンタクト取れてさ」
「あ~、だから眼鏡してんだ」
苦い思い出を笑って聞いていた彼は、慰めるように頭を掻き撫でてきた。かと思えば、いきなり大声を上げた。
「あ、やべ! 俺一組だから風呂の準備しないと! またな!」
小走りで出入り口へ駆けていく辻谷。
元気な友達に乱された髪を直しつつ席を立てば、今度は隣に渡会が並んできた。
「さっきの誰?」
「部活の友達」
「…………ふーん」
なんだか不機嫌な渡会は、そう言って目を細め、辻谷に乱された俺のボサボサな髪を撫でた。
しおりに感想を書いたり、インスタのアカウントを作ったりしていれば、すぐに入浴時間が回ってきた。向かった大浴場は、俺たちの学校の生徒や一般の客で賑わっている。
「日置、風呂平気なん?」
ちょうど眼鏡を外したタイミングで、渡会の声がかかった。
「大丈夫」
「転ぶなよ」
「…………善処はする」
自信のない返事をして、脱いだインナーシャツを籠に放った。
男同士と言えど、人前で裸になるのは抵抗がある。体型に自信がないからとかではなく、普通に恥ずかしい。
逃げるように浴場に駆けこみ、目に付いた風呂椅子に座る。持参したシャンプーを手に取って泡立てるが、量が多かったのか、泡はどんどん瞼の上まで流れ落ちてきた。手探りで回したハンドルは、捻る方向を間違えたようだ。冷たい水が、容赦なく降りかかる。
「うわ!」
「何してんの」
隣に座ってきた男子生徒に溜め息をつかれた。声からして守崎だと思う。
「水、これお湯に変えて」
目を閉じたまま、暗闇に向かって頼みこむ。キュッキュッと、ハンドルが回る音がすると、降りかかっていた水が徐々に温かくなってきた。
「だから平気かって聞いたじゃん」
守崎とは反対の方向から渡会の声がした。
「ありがと。助かった」
目元の水分を拭い、渡会と守崎に礼を伝えた。肌色の人型の何かにしか見えないけど、人違いだったらすみません。
「どういたしまして。洗い終わったら待ってて」
渡会の声色に心配が滲んでいた。また、能の帰り道のように引導してくれるのだろう。さすがにそこまで迷惑はかけられない。
「マジで転ばれたら困るから」
断りを入れようと口を開くが、先手を打たれてしまった。
結局、渡会に手を引かれ、浴槽に向かうことになった。
間近に来れば認識はできるもので、大理石っぽい縁が見えると、繋がれている手を引いた。眼鏡を取りに行った時とは違い、彼の手はすんなり離れる。
ゆっくり湯船に身を沈めれば、ふぅと息を吐いた。少し熱いが気持ちがいい。
「思ったけど、日置ってプールとかどうすんの?」
お湯が波立つ音と仲里の声が、同時に聞こえてきた。
「あ〜……中学の頃は今より視力良かったから、まだ一人で大丈夫だったし、プライベートでプールは行かない」
「高校はプールの授業ないもんな……あ、海は?」
「海は泳がないから行く」
海という単語に、堀田と渡会と守崎も反応した。
「海いーな。行きて〜」
「そろそろ夏だし、計画立てよ」
「日帰りで行けっかな」
なんだか海の計画を立て始めている。最初は四人だけの話かと聞き流していたが、会話の流れからして俺も頭数に入っているようだ。修学旅行が終わったら、以前の関係に戻ると思っていたから驚いた。
「にいちゃんたち、高校生か?」
海の話題で盛り上がっていると、聞きなれない年配のおじさんの声が割り込んできた。おそらく、一般の宿泊客だろう。
「そうです。修学旅行で」
突然の来訪に、渡会は淡々と答えた。
「はっは! もう美味いもん食うたか! どっから来はった!」
おじさんは豪快に笑いながら、鼓舞するように俺の肩を叩いた。地味に痛い。
「ちゃんと食って筋肉つけなアカンよ! こんな細くてヒョロっちいと、女の子守れないやんか!」
「え……」
突然、おじさんに腹を触られた。くすぐったさに思わず、ふっと息が漏れる。微妙な空気になりかねないと、慌てて口を押さえてももう遅い。
「おっとすまんすまん! こそばゆかったか!」
おじさんはまた豪快に笑った。
さっきからスキンシップが激しいとは思っていたけれど、ここまでとは。変な下心を感じないぶん、余計にたちが悪い。
愛想笑いを浮かべて距離を取ると、体をずらした先で腕を掴まれた。反動で、ヒョロっちいと言われた体が湯船から引き上げられる。
「じゃあ、俺らもう行かないとなんで。失礼しまーす」
「ほなな! 楽しんでや!」
おじさんの元気な声が浴場内に響いた。
脱衣所へ着けば、俺の腕を引いていた渡会は心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫?」
「まさかセクハラされると思ってなかった」
「だよな」
「俺はそんなヒョロくない」
「あ、そこなんだ」
嘘である。少しでも笑える空気に持っていきたくて冗談を言った。
からかってくると思った渡会は、笑うことも慰めることもせず、俺を見つめていた。
怒涛の一日目も終わりが迫っていた。けれど、今は修学旅行。これだけで終わるわけがない。
思い出は、記憶より写真のほうが目に見えて残る。現代っ子の彼らは、息をするようにスマホに記録を残していた。映りが良いからという理由で、部屋の狭い洗面所に五人肩を並べ、鏡越しに写真を撮った。
満足そうな彼らを横目に、暑苦しい洗面所を出ようとすると、それは渡会によって止められた。
「日置と一緒に撮りたいんだけど……二人で」
俺の腕を掴んだまま、渡会は期待するようにスマホを掲げた。自然な動きで俺の肩を抱き、画面の中でベストポジションを探しだす。ポーズがワンパターンしかない俺は、ずっとピースを維持してシャッターが切られるのを待った。
撮るよ、と耳元で一言。同時に、画面が一瞬光る。もちろん、SNSを駆使している男子高校生が一枚で切り上げることはなく、追加で何枚か撮りたいとお願いされた。
渡会との撮影を通して、ピース以外にも新しいポーズを習得した。今後、使うか分からないが覚えておこう。
「もう戻っていい?」
スマホの画面を見つめる渡会に尋ねれば、満足したような笑みが返ってきた。
奥の座敷には、すでに五人分の布団が敷かれていた。左側に三人分、右側に二人分、中央に頭を向ける形になっている。
「敷いてくれたんだ、ありがとう」
「どーいたしまして」
誰が敷いてくれたのか分からず、まとめて三人に礼を伝えると、寄せられた机の端でスマホをいじっていた堀田が顔を上げた。
やっと、疲労の溜まった体を、肌触りの良い布団に転がす。
(あ、勝手に場所決めちゃった……ま、いっか)
新幹線で寝てしまったことを懸念していたが、心配なく眠れそうだ。
眼鏡を枕元に放り、じわじわと襲ってきた睡魔に身を委ねる。
「えー、まだ寝んなよ。もっと話したいのに」
まどろみだした俺の頬を仲里が突つく。
「うーん。何話すの」
「修学旅行と言えば、恋バナでしょ」
なんとも修学旅行らしい回答だった。
体を反転させ、眼鏡をたぐり寄せる。隣にいると思った仲里は、三人側の中央を陣取っていた。
「日置は彼女いるの?」
机の上にスマホを置いた堀田は、質問を投げながら仲里の隣に寝転がった。個人の時間に没頭していた渡会と守崎も、気になると言わんばかりに布団に吸い寄せられて来る。
「おもしろくなくてごめんだけど、いない」
首を振れば、堀田はなぜか頭にハテナを浮かべた。
「あれ、でも中学の時はいたよね?」
「それ多分誤解」
「え、堀田と日置って中学一緒なん?」
隣の布団に寝転がっていた渡会は、驚いた声を上げて体を起こした。
てっきり堀田から聞いていたと思っていたが、どうやら違うようだ。
「そうだよ、一緒のクラスにはなったことないけど」
「三クラスしかなかったのに、逆に奇跡だよな」
俺の返答に付け加えて堀田が笑う。
「で、誤解ってなに?」
途切れてしまった話題を戻すように、守崎が口を挟んだ。あいにく、期待の眼差しを向けてくる彼が喜ぶような特別な思い出はない。
「仲良かった友達の相談乗ってたら、それを付き合ってると勘違いした人が言いふらしただけ」
「あるあるだね」
仲里がクスッと笑った。
「どうやって誤解といたの」
守崎はこの話の先に、まだ面白い要素があると思っているようだ。さらに質問を重ねた。
「といたっていうか、結局相談乗ってた子が本命とくっついたから、それ以来集合することもなくなって……自然消滅だと思われてるんじゃない?」
「へー、俺もそれ聞くまでは自然消滅だと思ってた」
堀田が納得したように頷いた。
「そんな有名カップルだったんだ」
「勝手に噂が一人歩きしただけだよ。俺の話終わり、てか彼女持ちいないの?」
渡会の探るような視線から顔を逸らし、俺よりも学年の女子全員が気になっているだろう話題に切り替えた。四人を見れば、口を揃えて「いた」と言った。「いる」ではなく「いた」ということは、今はフリーのようだ。
気になった俺は、四人の元カノ談を尋ねてみた。
単純に趣味が合わなかったからと、それらしい理由もあれば、精神的に重い元カノの話もあり、逆に軽薄な元カノの話もあった。
「重さで言ったら、渡会もだいぶ重いけどな」
精神的に重い彼女と付き合っていた過去を持つ守崎は、自身の話の途中でそんなことを言い出した。
「元カノが?」
話の流れで元カノの性格かと思ったが、守崎は首を左右に振った。
「いや、渡会自身が」
「へぇ」
「別に普通だけど」
視線を向けた先の渡会は、心外だと言うように肩をすくめた。
「重いっていうか、嫉妬深いというか」
「隙がなくて逆に怖いらしいよ」
仲里と堀田は、コソコソ話をする素振りで俺にささやきかけてくる。
渡会は尽くしたいタイプの人間らしい。たしかに、思い当たる節は今日を思い返すだけで山ほどある。
「あと、勘違いさせてくるっていう十代女性からの口コミもありました」
「レビューみたいに言うなよ」
ふざけてからかう仲里に、渡会は溜め息をついた。
ちなみに、俺はそのレビューを今日体験していた。さりげなく手を繋いだり、逆に名残惜しそうに手を離したり、気遣いも含めればキリがない。
「俺の話終わり」
ヘソを曲げてしまった渡会は、ポスンと枕に頭を預けた。抗議の声が上がったが、答える気はないらしい。
「えっと、じゃあ、好きなタイプは?」
みんなの意識が逸れるように口を挟む。
もっと舵を切って全然違う話をすれば良かった。でも、好きを語るだけなら誰も傷つかないだろう。
修学旅行の夜は、まだまだ長引きそうだ。