土曜日のよく晴れた朝、僕はフミヤ先輩の家の前に立っていた。
 少し、いやだいぶ胸がバクバクしている。手のひらに汗が(にじ)み、インターホンを押そうとした指が、わずかに震えていた。
 もじゃもじゃか、イケメンか。
 そんな思いが、頭の中を駆け巡る。できればイケメン姿のフミヤ先輩に出迎えてもらいたい。(ごう)(まん)な願望を持ちながら、僕はここに来るまでの経緯を思い返していた。



 すべては先日の雨の日、先輩から借りたハートの傘から始まった。
 その日の夜のこと。お風呂上がりの僕は、いつものルーティンでスキンケアに(はげ)んでいた。その時、突然スマホが鳴り始める。この時間にかけてくるのは、モモだけだ。

「もしもーし」

 ろくに画面も見ずに通話ボタンをフリックし、パックを顔に貼り付ける。モモに話したいことがたくさんある。学校でもじゃもじゃのフミヤ先輩に会ったこと、先輩に膝枕をしたこと、そして電車で一緒に帰ってさらに心を掴まれてしまったこと、カフェで見た先輩の姿はやっぱりかっこよかったこと。()(とう)のように起こった今日の出来事をモモに伝えようと、「ねえ、モモ聞いて」と口にしようとした瞬間。

『さっちゃん、こんばんは』

 聞き慣れた低い声に、心臓が跳ね上がった。明らかにモモじゃない。

「フ、フミヤ先輩!」

 驚きのあまり、声が裏返る。しかもビデオ通話だったようで、画面に先輩の姿が映っている。ハーフアップでもなく、もじゃもじゃでもなく、お風呂上がりなのか、濡れた髪がまっすぐに下りていた。

『あ、さっちゃん、パックしてる』

 先輩の言葉に、急に恥ずかしさが込み上げてくる。普段見せない素の自分を、なんの防御もなく先輩に見られてしまった。

「せ、先輩、待ってください! 今、ビジュ悪すぎる……! メイクするので、あと二時間だけください!」
『なげーよ』

 先輩の屈託のない笑い声が、耳に心地よく響く。フミヤ先輩はスマホを持ち、ベッドに寝転がったようだった。画面越しに見える、無防備な先輩の表情。妙な親密さを感じて、胸がドキドキする。まるで同じベッドの上に乗っているみたいな錯覚を覚え、僕は慌てて言葉を発した。

「えっと、フミヤ先輩、ハートの傘、ありがとうございました。おかげさまで、僕の大事な髪と顔面を濡らさずに帰れました」

 本当は鞄の中に折りたたみ傘があったけれど。

『あーそれそれ』
「え? どれですか?」
『その傘なんだけど……』

 何か言いたげな様子の先輩に、やけに緊張が高まる。

『さっちゃんさ、傘返しに俺んちこない?』
「……え?」

 もちろん、傘は返しにいくつもりだったが……、フミヤ先輩の家? まるで心臓が一拍分、止まったような気がした。

『妹たちに傘貸したって言ったら、会いたい会いたいってうるさくてさ。それに、さっちゃんとした約束のこともあるし、ぜひこの機会に俺のことを、知ってもらおうじゃないかと』

 穏やかで優しい先輩の声を聞きながら、指切りをして交わしたあの言葉が頭の中でよみがえる。

 ――ゆっくりお互いを知っていきましょう。……ね、やくそく。

 僕があんなにも突然にアプローチをして、フミヤ先輩もさぞ困惑したと思う。それでも先輩は、本当に誠実に僕と向き合おうとしてくれているのだ。泣きたくなるほど嬉しいのに、僕は心の奥底で小さな不安にも似た何かが芽吹(めぶ)いていくのを感じていた。




 そして今、僕は先輩の家の前に立っている。インターホンを押そうとした瞬間、突然の自意識に襲われる。慌ててミラーを取り出し、こっそりと顔をチェックした。
 髪は乱れていないか、肌の状態は大丈夫か、ヘアピンは曲がっていないか、服はしわくちゃになっていないか、イヤリングは取れていないか。先輩の前では完璧でありたい。そんな気持ちが胸いっぱいに広がる。
 リップを少しだけ塗り直した。
 大丈夫、今日も僕はかわいい。
 よし、と覚悟を決めて顔を上げた瞬間、空から声が降ってきた。

「とってもかわいいよ、さっちゃん」
「なっ!?」

 驚きの声を上げると同時に、二階の窓から覗く先輩の姿が目に入る。ずっと見られていたらしく、イケメンバージョンのフミヤ先輩がこっちを見下ろし、楽しそうに笑っていた。

「いらっしゃい。場所、すぐわかった――」
「さっきの最低ですからね!」

 玄関を開けてくれた先輩を見るなり、僕はグーパンチを繰り出した。けれど、僕の手は呆気なく、彼の大きな手にすっぽりとおさまってしまう。攻撃はもう意味をなさない。それどころか、フミヤ先輩の手の温もりに、僕のほうがノックアウトされそうだった。

「ごめんね。さっちゃんが家わかるかなって見てたんだけど、かわいくてつい」

 先輩はワッフル素材の白いロンTに、シンプルなブラックのデニムパンツを合わせていた。ハーフアップにセットされた髪と、シルバーの小ぶりなピアス。先輩は自分に似合うものをちゃんと理解しているみたいだ。初めて見る私服姿はあまりに僕のドストライクで、胸が苦しくなってくる。

「……今日はオンモードなんですね」
「そう、午前中シフト入ってたから」

 その言葉を聞いた瞬間、胸がちくりと痛んだ。バイト終わりだったから、イケメン姿のフミヤ先輩だったらしい。僕のためにおしゃれしてくれたわけではなさそうで、少しだけ残念に思う。それに比べて僕はといえば、いつもは自分のためだけにするオシャレだけれど、今日は特別に先輩のためもプラスして、上から下までオシャレをしてきた。意識しているのは僕だけですか、ふーんそうですか。ていうかちょっと()ねましたけど、何か。

「傘、ありがとうございました。それと、お土産です」

 頬を膨らませて、ぐいっと傘とお土産を差し出す。

「手ぶらでいいのに。なんなら別に傘もよかったし。……てか、今日の髪も似合ってんね。ちょっとウェーブ入ってる」

 冗談めかして、先輩が僕の髪にそっと触れる。先輩の言うとおり、せっせとヘアーアイロンで、髪をウェーブ巻きにしてきた。気づいてくれたのは嬉しいけれど、こんなにも張り切っている僕に対し、フミヤ先輩は悲しいくらい自然体だった。しかも、僕のスタイリングが崩れないよう、優しく髪に触れてくる仕草に、胸が勝手にときめいてしまって内心はとても複雑だ。

「お土産、何買ってくれたの?」
「トゥンカロンです。妹さんがいらっしゃるって言ってたから、映える系がいいかなと思って」
「ああ、トゥンカロン! 韓国(かんこく)のやつだよね? あいつらめっちゃ好きだから、喜ぶよ」

 さすがカフェ店員のフミヤ先輩だ。トゥンカロンは先輩の言うように韓国発祥の進化系マカロンで、マカロンよりもボリュームがあり、動物型だったり花型だったり、見た目のレパートリーも多くてとてもかわいい。

「……あ、立ち話もなんですし、上がって上がって」
「お邪魔しまーす」

 靴を揃え、用意してもらったスリッパに履き替えた。先輩のあとを追ってリビングに足を踏み入れると、自分の家の匂いとは違う、どこか懐かしい匂いがした。リビングは僕の家よりこぢんまりとしているけれど、暖かな雰囲気に包まれている。大きな窓から差し込む陽光が、部屋全体を明るく照らしていた。フミヤ先輩みたいに優しい家だ。
 失礼にならないよう気をつけながら、でも好奇心を抑えきれず、僕は部屋を見回した。テレビとソファ。タンスの上にはかわいいヘアゴムが入った透明な容器。

「そういえば、妹さんたちは?」
「今、部活。演劇やってんだけど、あと三十分くらいで帰ってくると思う。ガチでうるせぇから、覚悟してね、さっちゃん」

 フミヤ先輩によく似た『うるさい女の子バージョン』を思い浮かべ、僕はこらえきれず、ふふっとのんきに笑っていた。次の瞬間、先輩が僕の心を揺さぶるような発言をするまでは――。

「さっちゃん、あいつら帰ってくるまで、フミヤ先輩のルームツアーでもする?」




 好奇心には(あらが)えず、僕は『フミヤ先輩のルームツアー』を開催してもらうことにした。
 二階の角部屋。フミヤ先輩の部屋に初めて入った時の率直な感想は、『フミヤ先輩の匂いがする』だった。先輩がいつもしているブランド物の香水の香りを、肺いっぱいに吸い込む。

「なんも楽しいのないけど」

 (かべ)は落ち着いたグレーで塗られ、モダンな雰囲気を醸し出していた。初めて遊びに来た先輩の部屋だけれど、それほど初めてな気がしないのは、以前、ビデオ通話で見たことがあったからだ。
 本棚には、ラテアートの本、それからファッション誌と小説が並んでいる。その中に僕も読んだことがある小説を見つけて、とても嬉しくなった。部屋の隅には、スタイリッシュなハンガーラックが置かれ、先輩のオシャレな私服がかけられている。

「すごくいいと思います、先輩の部屋。清潔感があって、いい匂い。あ! ベッドも大きいですね!」

 先輩の体が悠々入るくらい、大きくて居心地が良さそうだ。シンプルなグレーのベッドカバーが、部屋全体の雰囲気と見事に調和している。僕はベッドに座り、ご機嫌に先輩を見上げた。

「おー、うれしい。さっちゃんに褒められるとマジでうれしいわ」

 先輩は本当に嬉しそうに目を細め、僕の隣に座る。その距離の近さに、少しだけ心臓が高鳴った。

「あれ? さっちゃん、ピアスの穴開いてたっけ? 似合うね」

 先輩の視線が耳に注がれる。突然、僕はどう振る舞っていいかわからなくなってしまった。

「……ピアスじゃなくて、イヤリングです。穴は怖いから、開けたことなくて」

 今は言葉を絞り出すので精一杯だ。

「そっか、痛いもんね。いいよ、さっちゃんは開けなくて」

 何を考えているのか、先輩は静かに僕の耳に手を伸ばした。鮮やかなネオンカラーのイヤリングに触れつつ、僕のことを切れ長の目で射抜(いぬ)く。
 ふたりの視線が絡まる。心臓が熱い。今、先輩と僕は、先輩の部屋にいて、ベッドの上で、ふたりきり……。
 先輩は僕が醸し出す雰囲気を何かしら察したのか、ぱっと手を離し、ベッドから降りて距離をとった。その動きに、少しの寂しさと(あん)()が入り混じる。

「ごめん。あんま深く考えてなかったけど、誰もいない部屋でふたりきりは嫌だったよな……」
「そ、そんなことないです」

 心の内を見透かされたような気がして、恥ずかしさでひどくバツが悪い。

「ほんとになんもする気ないから、安心して。怖がらせてごめんね、さっちゃん」

 先輩の気づかいに、胸が締め付けられる。先輩が謝る必要なんて、これっぽっちもない。

「僕は嫌だったら嫌って言います。それに、空気に流される人間でもないので、気にしないでください」
「だよね、うん」
「……だけど、なんもする気ないって言われるのは、それはそれで嫌です」

 まるで子どもの駄々(だだ)っ子だ。先輩は目を丸くすると、そのあと「ははっ」と噴き出しておかしそうに肩を揺らす。

「なんもする気ないけど、する時はするよ。でも、今はしない」

 先輩は笑っていたけれど、その目にはとても真剣な光が宿っていたように思えた。期待にも緊張にも似た何かが湧き起こる。先輩の真意をもっと探りたい気持ちと、まだこのままの関係を大切にしたい気持ちが交錯(こうさく)していた。

「僕は――」

 その時、

「さっちゃん、来てますかー!」

 妹さんたちの声ではっと我に返った。先輩は声のほうを振り返りながら、やけに力の抜けた声を発する。

「……あ、うるせぇのが帰ってきた」





「おにいから聞いてはいたけど、さっちゃんってめっちゃかわいいですね!」
「髪がいい色~! ほんとに似合ってる!」
「イヤリングもかわいいし、服もかわいい。え、どこで服買ってます?」
「てか、(つめ)もかわいい~! 肌も……うっわ、これが無加工?」
「ドラコス使ってますか、やっぱりデパコス?」
「てか、おにいうざくないですか? うざかったら、うちらぶん殴るんで言ってくださいね」
「さっちゃん、泊まっていきません? うちの服サイズ合うかな?」
「てか、うちらの見分けついてます?」
「うちがユキナで、右目の下にほくろがあって髪が長いほう」
「で、ホクロがなくて、髪が短いほうがカンナでーす!」

 怒濤の勢いで話しかけられ、目を回した。ふたりとも顔も体型も話し方もよく似ている。ユキナちゃんは栗色(くりいろ)のミディアムヘアで、カンナちゃんはユキナちゃんより明るい髪色のボブヘアだ。彼女たちはあまりフミヤ先輩には似ておらず、ぱっちりとした大きな目をしていた。
 フミヤ先輩は〝さっき警告したぞ〟という顔でニヤついていて、僕は想像以上に元気なふたりを柄にもなく苦笑いで見つめている。モモがこの場面を見たら、手を叩きながら笑い転げるに違いない。「借りてきた猫みたい~!」そんな言葉とともに。

「お前ら、さっちゃんを困らすな」

 いつの間に作ってくれたのか、フミヤ先輩は僕の前にマグカップに入った紅茶と、僕が買ってきたトゥンカロンをお皿に載せて差し出してくれた。大きなマグカップには、人生で一度も見たことのないマイナーな猫のキャラクターが描かれている。普段は感じられないフミヤ先輩の生活感に触れられた気がして、自然と口角が上がってしまった。

「ありがとうございます、先輩」
「紅茶熱いから、フーフーして、さっちゃん」

 まるで子どもに言うみたいな先輩の言い方。僕が目だけでからかうような視線を送ると、先輩はなんのことかわからないというように肩をすくめてみせる。

「……キモ、フーフーしてって。おにい、それはない」
「おにいは、自分のキモさよりも、さっちゃんが火傷(やけど)しないことを選んだんだよ? 君たちにわかるかな?」
「ねー待って! もっとキモいんだけどぉ! ()(ちく)してぇ~~!」

 目の前で繰り広げられる妹たちと兄の会話に、僕はもう()(まん)できなくて、声を出して笑ってしまった。
 息もできないくらい笑っている間、妹さんたちは僕の顔をじいっと見つめて、

「さっちゃん笑うと、さらにレベチじゃん……」

 と、双子らしく同時につぶやく。先輩はどこか誇らしげな顔で「だろ」と(そう)(ごう)を崩していた。




「うん……うん……。大丈夫、ごちそうになってくる。うん……うん……お礼はちゃんと言う……。帰る時ラインするから……じゃあね、はーい」

 こそこそとママとの通話を切り、振り向いてみんなにOKのサインをする。フミヤ先輩は優しく微笑み、ユキナちゃんとカンナちゃんは、まるで花が()いたみたいにぱっと嬉しそうに笑った。
 ――まだ帰さないよ、さっちゃん。たこ焼きパーティーするからさ。夕飯食べていきなよ。
 帰り()(たく)をしていたら、フミヤ先輩に言われた言葉。急なお誘いだったけれど、全然重さは感じず、まるでポップコーンみたいに僕の心にふんわりと柔らかに降り積もった。やっぱり先輩はとっても不思議な人だ。ほかの人に言われたら受け入れられない言葉も、先輩からなら許せてしまう。
 フミヤ先輩はエプロンをすると、とても手際よくたこ焼きパーティーの準備に取りかかった。省エネ系男子高校生はどこへやら、まるで仕事をしている時みたいだ。
 イケメンバージョンの先輩は、本当に絵になって困る。テキパキと働く彼をうっとりと見つめつつ、僕は気になっていたことを尋ねた。

「そういえば(おや)()さんは?」

 夜の七時を過ぎたけど、彼らのお父さんもお母さんも帰ってくる気配がない。

「あー、親ね。えーと、俺の父親は天国。で、そっちの妹たちの父親は日本のどこか。母さんは入院してる」
「……へー、って、え!?」

 言葉の意味が理解できなくて、大きなリアクションで聞き返してしまった。フミヤ先輩はカウンターキッチンで、何事もないかのように手際よくキャベツを切っている。

「おにい、いっぺんに情報提供しすぎ」

 と、ユキナちゃん。

詐欺師(さぎし)でも、もっと段階踏むから」

 と、カンナちゃん。

「なんで。ややこしいから先に言っといたほうがいいだろ」

 フミヤ先輩が言うには、先輩のお父さんは、彼が五歳の時に亡くなってしまったらしい。それから、四年後にお母さんが再婚して、妹さんたちが生まれた。そして数年後、離婚して新しいお父さんが家を出ていくことになり、今に至るらしい。
 僕は何も言えなかった。フミヤ先輩の淡々とした語り口に、心がぎゅうぎゅうと締め付けられる。

「母さんが入院してんのは、自損事故で複雑骨折したんだよね。もう少しで退院だし、韓国ドラマめっちゃ見てるし、ぴんぴんしてるから心配いらないよ、さっちゃん」

 フミヤ先輩は入院しているお母さんの代わりに、カンナちゃんたちのご飯や洗濯なども担当しているみたいだ。ちょっとずつ先輩のことを知った気でいたのに、実際はこの瞬間まで彼の苦労とか、生い立ちとか、なんにもわかってなかったのだ。フミヤ先輩の人生は、僕の想像をはるかに超える出来事の連続だ。

「……先輩、あの、僕も何か手伝います」

 カウンターにいる先輩に少しずつ近づき、彼のつけているエプロンの裾を握る。先輩は振り向いて僕を見据(みす)え、意地悪く笑った。

「だめ。さっちゃんは、ソファで妹たちとゲームでもやってて」
「……でも」
「なんで? 俺の隣にいたい?」

 思わせぶりに口角を上げる先輩。僕はそれが優しさからくる冗談だということに気づいていた。けれど、僕の悪い癖で、どうしても悔しい気持ちを抑えられなくなっていた。やられっぱなしは嫌だ。先輩とはいつも対等な関係でいたい。僕は先輩の左肩に両手をつき、精一杯背伸びをして吐息混じりにささやく。

「だってせんぱい……、料理してるところ、かっこいいから」

 突然耳に息を吹きかけられて、ぞくりとしたのかもしれない。先輩は珍しく、少しだけ赤い顔で僕を見やった。

「……あざと」

 呆れたような、困ったような彼のひとことに、ようやく(りゅう)(いん)を下げる。

「あーあ、さっちゃんは困った子だ。フミヤ先輩のもっとかっこいいとこ見せちゃおうかな」

 先輩はそう言うと、軽やかな手つきでエスプレッソマシンを操作し始めた。(ちゅう)(しゅつ)されたエスプレッソの香ばしい匂いが、僕の鼻先まで届く。興味津々になって、先輩の動作を見守った。先輩は冷蔵庫から出した冷たい牛乳を銀のカップに入れ、蒸気が出ている機械をミルクにさして(あわ)()てる。

「こうやってミルクをスチーミングしたら、エスプレッソの下にこのミルクを落とす。片方はミルクを注ぐ動き、もう片方はカップを戻す動き。この連動がすげぇ大事」

 集中している先輩の声が静かに響く。僕は息を呑んで、先輩の手元に釘付けになった。カップを少しずつ傾けながら、ミルクピッチャーの先端をカップの(ふち)に近づける。そして、細い線を描くように、ゆっくりとミルクを注ぎ始めた。
 エスプレッソの表面に、小さな白い円が現れる。先輩の手が少し高くなり、注ぐ速度を上げた。繊細な手の動きを見ているうち、あっという間にきれいなハートのラテアートが浮かび上がる。

「かわいい……!」

 僕は思わず感嘆の声を上げた。以前、聞いた話では、『Cafe Miracle』のバイトが決まった時に、店長から練習用としてこのエスプレッソマシンをもらったらしい。先輩はそれ以上(げん)(きゅう)しなかったけれど、きっとこんな風に上手なラテアートができるようになるまで、たくさんの練習を重ねてきたに違いない。

「どう? かっこよかった?」

 僕が勝手に始めた先輩との勝負は、二対一で僕の負けだった。キュンキュンとときめく心臓を持て余し「……すごく、かっこよかったです」と唇を尖らせる。

「さっちゃん、なんでそんな悔しがってんの」

 先輩がおかしそうに笑っていると、

「さっちゃーん、一緒にマリカやりましょー!」

 ソファの前でゲームの準備をしていたカンナちゃんたちが、元気よく手をこまねいた。

「ほら、さっちゃんはカフェラテをゆっくり飲みながら、あっちでうるせぇ妹たちの相手して」

 フミヤ先輩の言うとおり、ソファで妹さんたちとゲームをすること三十分。結論、僕とユキナちゃんとカンナちゃんは、とても交流を深めた。なんなら話をしてすぐにラインのIDを交換し、グループラインまで作ってしまった。

「おにいって無気力じゃないですか? だから今日とか、あんなに生き生きしてるのマジでビビる」

 と、カンナちゃん。

「そうなの……?」

 と、僕。

「そうですよ。バイトも学校もない時のおにいって『無』って感じだもん」

 と、ユキナちゃん。
 ゲーム機のコントローラーをかちかちと動かしながら、僕たちは内緒話をしていた。
 フミヤ先輩を省エネ系高校生だと感じたことはあるけれど、無気力だとは感じたことがなかった。さっきだって、エスプレッソの苦みと、ミルクのまろやかな甘みが見事に融合(ゆうごう)した、おいしいカフェラテを僕に作ってくれた。僕が率直な感想を述べると、彼女たちは意味ありげに顔を見合わせ、

「それって、ねー?」
「ねー?」

 まるでテレパシーを送るみたいに笑い合う。

「え、怖い。何? どういうこと? ……ああっ!」

 動揺のあまりコースから落ちた僕に、「さっちゃんがんばれー!」と奇跡みたいに同じタイミングで彼女たちが叫ぶ。

「君たち、タコパ始めるよ」

 ユキナちゃんたちの言葉の意味は気になっていたが、現金な僕は、フミヤ先輩に呼ばれたらすぐに忘れてしまった。
 リビングに溢れる香ばしい匂いと賑やかな笑い声。僕たちの初めてのたこ焼きパーティーは、想像以上に楽しい雰囲気に包まれていた。

「君らさぁ、俺が見てない間に、めっちゃ仲良くなってんじゃん」
「ごめんだけど、おにいより全然仲いい。ラインも交換したし」
「おい……会って数時間でそれは傷つくわ」

 僕は彼らの冗談に笑って、炭酸ジュースを飲んだ。フミヤ先輩は()(れい)な手さばきで、たこ焼き機に油を塗ったり、生地を入れたりしている。
 具材を入れた生地がだんだん固まってきたみたいだ。先輩はくっついた生地同士を格子状に切り取り、器用にひっくり返してゆく。

「すごいですね。とってもおいしそう……!」
「俺のほうの親父が関西出身でさ、よく作ってくれたんだよね。まぁもう死んでるし、顔もあんま覚えてねぇんだけど、これだけは体が覚えてんの。ウケるでしょ?」
「そうだったんですか……」

 僕は小さくつぶやき、手持ち無沙汰にジュースを飲んだ。さっきまで平気だった炭酸ジュースが、なんだか小さな痛みを放ちながら喉を通りすぎていく。
 ジュージューという音と香ばしい匂いが立ち込めている。先輩は集中しているのか、黙々《もくもく》と半分くらいたこ焼きを裏返したあとに言った。

「さっちゃんもやってみる?」
「……え、いいんですか? やってみたいです!」

 好奇心いっぱいで、たこ焼き器の前に立つ先輩の隣に並ぶ。彼の腕が僕の腕にかすかに触れた。その温もりに、僕はますます先輩のことを意識してしまう。先輩と出会ってから、こんなことの繰り返しだ。

「ほら、こうやって」

 先輩が僕の手を取って、生地を裏返す。

「あー、おにい、さっちゃんにセクハラしてるー」

 ユキナちゃんとカンナちゃんは、同じタイミングで声を上げた。

「言うなよ。さっちゃんが気づいちゃうだろ」

 くるんと丸まったたこ焼き。熱い。湯気と、たこ焼きと、それに僕の顔も。




 先輩の家を出ると、外はもう暗かった。星が(またた)く静かな夜道を、先輩とふたりきりで歩く。

「たこ焼き、すごく、ほんとにすごーくおいしかったです」

 言葉にしてみたものの、こんな(ちん)()な褒め言葉だけでは僕の気持ちを伝えるのには足りない気がした。先輩の優しさ、家族への愛情、そのすべてが詰まったたこ焼きだったのに。

「さっちゃんに楽しんでもらえて、俺はハッピーだよ」
「先輩って料理上手ですね。包丁さばきも、たこ焼き作ってるのも、とっても様になってましたし、……すごいです、ほんとに。僕はお菓子なら作れるけど、ご飯系は無理です」
「あー、マジで? 逆に俺はそういうちゃんと計るお菓子系は無理だわ。調味料は感覚でぶち込んで作ってるから」
「調味料感覚ニキ……」
「いや、なんそれ。てか今度、さっちゃんにお弁当作ってもいい?」

 僕は先輩の横顔をちらりと見た。街灯に照らされた横顔が、いつも以上に大人びて見える。

「言いましたね? 絶対ですよ?」

 思わずちょっとだけ大きな声になってしまった。興奮を隠せない自分が少し恥ずかしい。先輩は軽く笑って、「やくそくね」と僕の後頭部に触れた。さりげない自然な仕草で、先輩はいとも簡単に僕の心臓をドキドキさせてしまう。
 もうすぐ駅に着く。
 別れの時間が迫っている。そう思うと、今まで言えなかった言葉がようやく口をついて出た。

「……ごめんなさい、先輩」

 先輩は不思議そうな顔で僕を見た。僕は深呼吸をして、心の中で思っていたことを、なんとか先輩に伝えようとする。

「この前の言葉、訂正させてください」
「……ん、訂正?」
「僕ががんばってるって言ったことです。……先輩のほうがよっぽどがんばってます。僕は自分のことしか考えてないし、先輩みたいに優しくもないんです。先輩のがんばりの足元にも及びません」

 ――僕、ほんとに毎日がんばってます……。

 学校の非常階段で、彼に放った無神経な言葉。あの時の自分を力いっぱい殴ってやりたい。
 おそらく自分には、人間として大切な何かが欠けているのだ。昔投げられた(えい)()な言葉で、見た目だけ整えられて、いびつになってしまった僕の心のカタチ。
 先輩は立ち止まり、真剣なまなざしで僕を見つめた。

「さっちゃん、ちゃんとがんばってるでしょ。俺は本気でえらいなって思ってるよ」
「でも……」
「謝んないでよ、さっちゃん。その分、かっこいいって言って。さっちゃんが言ってくれたら、もっとがんばれるよ、俺」

 言葉に詰まる僕を見て、先輩は優しく微笑んだ。僕は嬉しくて、悔しくて、唇を噛む。先輩の優しさと強さが、またひとつ僕の心に刻まれた。先輩は僕の言葉を求めてくれている。僕の存在を必要としてくれている。

「先輩は、かっこいいです。本当にかっこいい……私服姿も、ラテアートしてる時も、たこ焼きを作ってる時だって……ぜんぶ。……今日だって、先輩がかっこいいせいで、ずっとドキドキさせられてました、僕……」

 少しだけ頬を赤らめながら、僕は続けた。

「……でも、学校にいる時はもじゃもじゃです」

 照れ隠しの僕の言葉に、先輩はけらけらと笑ってつぶやく。

「ありがとね、さっちゃん」