玄関先の廊下は両手を伸ばしても当たらないくらいの広さだ。その廊下で一流のアイドルが無防備に寝転がっている。メディアに出ているときのナツは完璧で無敵のアイドルだが、今は隙だらけだった。
まだ昼を少し過ぎたところで、売れてる芸能人が仕事を終えて自宅に帰ってくるような時間ではなかった。疲労困憊しているのか額の上に腕を乗せ、気だるげにしている。黒のデザインシャツの首元からは白い肌がちらりと覗いていた。
一見、兎とかポメラニアンみたいな愛らしく甘えたな瞳に見える。――けれど。
(いや、ダメだ、これを表に出したら、死人が出る)
朔良を見上げる視線からは疲労感より濃密な色気の方が優っていた。朔良の邪な心が瞳を曇らせている可能性もゼロではないが、それくらい危うい空気を放っていた。
(けど、僕が、なんとかしなきゃ……)
床に転がっているのは朔良より年上の芸能人で、立派な大人。ステージ上では、誰よりもノーブルで王子さまに見える。けれど今のナツを見ていると、それ以上に、絶対に自分が彼を守らなければいけないという母性愛のようなものも湧いてきた。
「おいナツ、なに寝てるんだよ」
「だって、七時から現場入ったんだよ、五時起きだし、もー疲れた、昼ごはんもまだだし」
「はぁ、今日から代マネの子ここに住むって聞いてなかったのか。花本朔良くん。てか、お前知り合いなんだろう?」
後ろから声が聞こえて振り返ると、水谷がくわえ煙草をしたままナツを覗き込んでいた。
「え、さくら?」
寝転んでいたナツは上体を起こすと、水谷と朔良を交互に見て目をパチパチと瞬かせる。
「昨日、例の葬儀でお前ら一緒に居ただろう。知り合いだって聞いたから、調べて特別にお前の世話係につけてやったのに」
「知り合い……えっと花本くんは、俺の大学の後輩で、いや留年してるから、もう俺が後輩になっちゃったんだけど。そっか、さくらって名前なんだ。可愛いね、花の桜?」
ナツはふわふわと桜の花びらが舞うように話す。目の前に妖精がいる。このままでは思考がファンタジーに犯されそうだった。
「い、いえ、僕、四月一日生まれだから。朔って漢字で、一日に、良いって、書きます」
「それは良い名前だね」
「あり、がとうございます」
説明のために漢字を伝えたが、改めて朔良なんて本当に分不相応な名前だなと感じた。音も意味も、目の前のアイドルの方がよっぽど似合っている。自分達の名前は逆の方が、それぞれに相応しく感じた。里村夏生、なつお、夏に生まれた。けれど、その素朴な分かりやすい名づけは、今の疲れて、ふにゃふにゃになっている目の前のナツとリンクして不思議と納得感があった。
「昨日は、今後のこととか、色々ドタバタしてて、頭回ってなかった。で、朔良が俺の面倒見てくれるんだ?」
首を少し傾げて微笑みかけられる。せっかく心臓が落ち着いていたのに、視線が合うと簡単に跳ねてしまう。
「さ、里村さんが、嫌、じゃなければ」
「ナツでいいよ。そんな嫌だなんて。広いマンションで、ずっと寂しかったからルームメイトが来て嬉しいなぁ」
芸能人なんて裏表や秘密があって当然なのに、目の前のナツは朔良に全てさらけ出してるように見えた。
「あのなぁ、二十歳過ぎた大人が寂しいとか外で絶対言うなよ、無駄に色気振り撒きやがって、勘違いされる。そんなんだから、メンバーに餓鬼だって言われるんだよ。ちったぁ、しゃきっとしろ」
「仕事のときはしているよ。水谷さん」
そう言いながらナツは床から立ち上がった。
「ねぇ水谷さん。昨日言った通り、俺はこれを機に引退を考えてる。大学だって楽しいし、もっと建築の勉強したいし。芸能界で生きるより、よっぽど向いているし幸せになれる」
「お前なぁ、自分のことばっかりじゃなくて、ちったぁファンの幸せを考えてやれよ、泣くぞ?」
「ファンなんて。水谷さんだって、俺は顔だけって思ってる。ホントいつも嘘ばっかりだね」
さっきまで幼く見えていたナツ表情が、急に年相応の大人の顔に変わっていた。ナツは、そのまま朔良たちに背を向けてリビングへ向かう。
「ナツ、とにかく、今受けてるモデルの仕事は、ちゃんとやれよ。分かったな」
「分かってるよ。でも大学は行くよ、せっかくライブ無くなって、スケジュール空いたんだから」
「あー分かったよ、仕事するなら、そこは勝手にしろ」
「ありがとう、水谷さん」
朔良はリビングへ入るナツの背をその場で水谷と見送った。
子供っぽく見えたと思ったら、すぐに大人の顔になる。一流の演技者みたいなナツの表情に朔良は翻弄されていた。リビングに続く扉が閉まり、ナツの姿が見えなくなったところで水谷に耳打ちされた。
「今ので事情とお前のすることは分かったな」
「はい」
「じゃ俺は帰るから、あとのことは頼む。ナツのスケジュールは、これに送っておくから。とりあえず、今日は、このあとナツはオフだ」
水谷は朔良の手のひらにスマートフォンを置くと、そのまま玄関で靴を履き始める。
「わかり、ました」
「あ、そうだ、大事なこと言い忘れた」
「え、何ですか」
玄関の扉を振り返ると、ニヤリといやらしい顔で歯を出して笑われた。
「――襲うなよ」
「なっ!」
反論する前に、玄関の扉は閉まっていた。
朔良は慎重に呼吸を三度繰り返し、リビングのドアを開ける。意を決して中に入ると、ナツは服を着替えているところだった。慌てて視線を逸らしたが、目にはっきりと透明感のある絹肌の背中が焼きついている。
「あの、今日は、このあとオフだって、里村さん」
「ナツって呼んで良いよ。――うん、だから着替えたら、大学行く。単位、残りゼミの研究だけなんだよね。あー学食の日替わり定食、急げば残ってるかな?」
ゼミだけということは、それ以外の単位は留年しながらも全て取得出来ているのだろうか。大学で神(ナツ)と出会えたら、いいことがあると言われるくらい低い遭遇率なのに、と考え込んでいたら、いつの間にか着替え終わっていたらしく、朔良の目の前にナツが立っていた。ナツは黒のチノパンに灰色のオフショルのトレーナーを着て、赤いセルフレームのメガネをかけている。さっきまでの色気を振りまくような服ではなく、ごく普通の大学生が着るような私服になっていた。
「ん、どうかした? 朔良《さくら》」
初めて名前を読んでもらえた喜びを隠し必死で話を続けた。そう何度もナツの一挙一動に驚いてばかりもいられない。
「芸能活動あんなに忙しいのに、残りゼミだけなんですね」
朔良が意外そうな声で言うと、ナツは得意そうに微笑んだ。
「すごいだろ、俺、結構、真面目な学生だよ。知らなかった?」
「四年前、あの日以来、僕、な、ナツ、に学内で出会えなかったから、もう大学には来てないと思ってて」
頭の中では、いつもナツって呼んでいるのに本人を前にすると、呼び捨てにするのはぎこちない。けれど朔良の呼び方に満足したのかナツは、やりきったような顔をしている。
「会いたかった? けどなぁ、俺、特技があるから、そう簡単に見つけられないよ?」
「特技、ですか」
「見せてあげようか、朔良も今から大学、一緒に行く?」
「一緒に、ですか」
「え、ダメ? 卒業生なんだし、用事あるなら別にキャンパス入ってもいいよね」
「それは、多分、守衛さんに断れば、全然、入っても大丈夫」
「じゃあ、決まり! 行こ!」
一緒に大学へ行こうと言われてから、朔良もスーツから白シャツとデニムパンツに着替えた。その数分後にはアイドルと一緒に路線バスに乗っている。住宅街から山側にあるキャンパス周辺の道路に入ると、窓から視界に入る人が学生ばかりになっていく。
「なに、緊張してるの? 朔良」
隣にいるナツが朔良を揶揄うように微笑んだ。
「だ、だって、ナツ、騒ぎになったら」
「大丈夫、大丈夫。まずは、学食でランチしようか」
「学食、で」
声が引き攣っていた。
「だって、お腹空いてるでしょう? もう一時過ぎてるし」
「それは、うん」
ナツを一人大学へ向かわせるのが心配だったのもあるが、水谷から世話を頼まれているなら、ナツがオフでも自分は仕事中だし、彼の近くにいるべきだと思った。
道中は一緒にいるのが芸能人だと気づかれないよう、SPばりにナツが人の視界に入らないように注意して歩いたし、バスは周囲に人が座っていない、後ろの方にある二人掛けの座席を選んだ。
四年間通学した慣れ親しんだ道なのに、隣にアイドルがいると思うと、気が気でなかった。窓から初夏を思わせる強い日差しが差し込んでいる。昼過ぎで朝と比べれば大学方面へ向かう人数は少なく、席はまばらに埋まっている程度だが、日差しで車内の空気が少しこもっているせいか息苦しく感じた。
「ほんと大丈夫だって、俺、魔法が使えるからね」
「ま、魔法って」
「んーステルス?」
心配しきりだったが、本人が大丈夫と言っていた通り、本当にいつまでたっても黄色い声は聞こえてこなかった。
キャンパス前でバスを降り、朔良が校舎前の警備室で入校手続きをしている間も、誰もナツの存在に気づかなかった。
そうして無事にA校舎の地下食堂に辿り着き、一番端の席に座ったとき、やっと肩の力が抜けた。
「ここまで俺のお守り、お疲れ様。でも、大丈夫だっただろ?」
「そう、ですね」
「存在感を消せるんだよね、俺の特技」
目的の日替わりランチを前に、ナツは唐揚げを口に放りこみながら至極ご満悦の様子だった。大きな口を開けて、揚げたての唐揚げを頬張る仕草は、見ていて気分がいい。実にアイドルらしくない豪快な食べっぷりだった。
(まー当たり前、だよな)
芸能人だって、一般人と変わらない日常生活がある。人気アイドルだった自分の母親だって周囲に騒がれることなく、無事に朔良を育てあげ、今は一般社会に溶け込んで生活している。
母親だけじゃない。彼女の交友関係から、見飽きるほど芸能人と接して来たし、素の芸能人がどういう物か頭では理解していた。なのに、この瞬間までナツだけは特別だと思っていた。
(あーファン心理って、本当、人を盲目にさせるんだなぁ)
変装して、目立たないように学生の格好をしていれば、誰も気に留めたりしないし、良識ある大人なら、一般社会で生活しているアイドルを追いかけ回したりしない。
そんな当たり前のことを忘れていた。
「安心、しました」
「それは良かった。まぁ流石にゼミに行けば、個人として認識されてるけど、大教室とか普通にキャンパス歩いているだけじゃ、全然声かけられたりしないな。ほら、さっき家で寂しいって言ったでしょう? 全然、外で声かけられないから友達だっていない」
「友達、いないんですか」
「うん。だから、今初めて心から学食を楽しんでる。一回くらい、こうやって誰かと外で食べてみたかったんだ」
「そんなの、僕がいくらでも、一緒に、ぁ……」
つい前のめりに言いかけて、気持ち悪いファンの自分を隠そうとしたが、ナツは別段不快に思わなかったらしく、目の前でにこりと微笑んでくれた。
「じゃあ、また一緒に学食で食べてよ。そういえば一緒に住むんだし、今日は夕飯も一緒に食べられるね。何作ろうか、何食べたい? 帰り、スーパー寄らないとなぁ」
「は、はい」
スーパーで買うものを考えているナツの伏し目がちの視線。長いまつ毛が下瞼に影を落としていた。
改めてアイドルと二人暮らしをしているんだと自覚して頭がくらくらする。ナツの美貌を近距離で、余すことなく独り占めしていた。こんな幸福を自分なんかが享受していいはずがない。気を抜けば顔を真っ赤にして感情をぐちゃぐちゃにしてしまいそうだった。そんな幸せの海で揺蕩いそうになったすんでのところで、ナツに呼ばれハッと我に返る。
「ところで、朔良は、ESKプロダクションに新卒で入社したの? 優秀なんだぁ。エンタメ系って倍率すごいんでしょう」
「いえ、僕は」
「ん?」
ピリリと緊張が走った。いつかは訊かれるだろうと、頭の中でシミュレーションしていた質問だった。色々、演技プランを考えた結果、自分がナツの熱狂的ファンなこと以外は、全部、真実を話そうと決めていた。
少しナツと話しただけで無理だと分かった。どんなに役を作り込んで演技したところで、ナツ相手だと本能に振り回され簡単にボロが出る。それなら話せるところは全部、本当を伝えた方がいい。
「僕、バイトなんです。その……今年就職決められなくて、ESKプロダクションは、母親のコネ……みたいなもので」
朔良が面倒な家庭で育ったとか、母親が元アイドルとか。そのせいで父親が出て行ったとか。そんな自分という人間を形作った根っこの部分。今までは友人に隠して違う自分を演じていた。
けれどナツは芸能人だし、家庭の特殊な事情を必死に隠す必要もなかった。
「コネ?」
「母がESKプロダクションで昔アイドルしていたんです。結局、色々あって、もう芸能界にはいないですけど」
「へぇ、そうなんだね。親が有名人の子供だと色々大変だって聞くし、朔良も苦労したんじゃない?」
「苦労」
「うん。ほら、どこ行っても親の話ばっかりされるでしょう」
「……そう、ですね」
下を向いたまま、ぽつりと吐き出していた。
朔良はナツの反応に、生まれて初めて本当の自分のまま人前に立っている気がした。
実際はナツにも嘘をついている。先日の葬儀のときだって演技している偽物の自分をナツに見せていた。
普通で当たり前で、何も特別じゃない、そんな自分になりたい。ずっと違う自分になりたいと願っていた。
いつだって、自分の母が芸能人と知られたあとの、友達の反応は決まっていた。
話は盛り上がる、でも自分じゃなく母の話ばかりになる。芸能人の母は、自分を構成する、たった一要素に過ぎないのに。誰も自分を見なくなる。――それが嫌だった。
「朔良、大丈夫、お腹痛いの?」
箸を握ったまま、急に動かなくなった朔良を心配したのか、ナツは朔良の顔を覗き込む。
「あ、ち、違います。大丈夫です、なんか、嬉しくて。ナツの反応が、普通だし」
「嬉しい?」
「ナツが……僕を見て話してくれたから」
母親じゃない、目の前にいる朔良と話してくれている。
「――うん、分かるよ。目の前に自分がいるのに、他の人の話されるのって、嫌だよね」
他の誰でもないナツに、自分を見つけて貰えた喜びが込み上げていた。