翌朝、指定された時間にESKプロダクションのビルへ向かった。
 水谷からは当面の生活用品を持ってくるように言われたので、大きめのボストンバッグに必要最低限の着替えを詰めて家を出た。
 ――仕事が終わるまで家に帰らず、役に徹して欲しい。
 今日まで色々なサクラのバイトをしていたが、泊まり込みでやる演技の仕事なんて初めてだった。
 社外秘らしく役については現地で話すと言われている。
 家を出るとき、母親から芸能界の闇について切々と語って聞かされた。犯罪に関わるような匂いを感じたら、何を置いてもすぐに逃げるように言われたが、さっきまでは、いまいち自分ごととは捉えていなかった。

(……なんか、早まったかな。流石に出会い頭に監禁、とかはないだろうけど)
 目的地に到着した瞬間、灰色の巨大ビルから得体の知れない威圧感が押し寄せてくる。
 大企業に勤める人だから安心などと思っていたが、吹き上げるビル風も相まって悪の根城へ向かう心境になっていた。それでも大学四年間で培った役者魂と就職活動の経験のお陰か、受付の前に立った頃には、ざわざわしていた心境は不思議と凪いでいた。
 朔良が名前と用件を伝えると、あらかじめ話は伝わっていたらしく、スムーズに打ち合わせスペースへ案内された。名刺に書かれていた、コンテンツ制作部、水谷武蔵の肩書きも事実だった。
 しばらくソファーに腰掛けて待っていると、入り口の扉が突然開き、昨夜クラブで見た男が現れた。立派な会社勤めの人間なのに、入る前のノックはなかった。
 朔良がすかさずソファーから立ち上がると、ドアの前で立ったままの水谷から不躾な視線を向けられた。頭の先から足の先まで、まるでファッションチェックでもしているかのように観察される。

「へぇ、A社に聞いた通りだ。ころころと印象が変わる。その服、自分で準備したの?」
「服、ですか」
「そう、いいスーツだね。もしかして、それも役作り?」
 いつも代行会社で借りている衣装ではなく、家にあった細身のダークグレーのスーツだ。特に深い理由などなかった。
「役というか、企業を訪問するときはスーツだろうなって、それだけです。今日は仕事の依頼を受けて来たので。演じる役については、まだ聞いてないですし」
「あーそうか、分かった。そういえば、君、いいところのお坊ちゃんだったね。忘れそうになるけど」
 朔良が答えると大袈裟に手を叩いてリアクションされる。
 先日のサークルの飲み会と同じ言葉なのに、当人の豪快な性格のせいか水谷の言葉は不快に思わなかった。良くも悪くも言葉に事実以上の含みを感じさせない。
「二十歳そこそこの男なのにブランド物のスーツが板についてると、結構、目立つよね。どこの売れっ子若手俳優かと思った」
「変、でしょうか」
「んー今回の役は、制作部の新人って設定だから、違和感あるかな。吊るしのスーツ渡すから着替えて。最初だけでプライベートは普段通りの服でいいから」
「分かりました」
「じゃ、ついてきて、仕事場に案内する」

 水谷の車に乗って連れてこられたのは、都内にある高級マンションだった。エレベーターで最上階の二十五階で降りると、奥の角部屋に入った。
「あの、ここは」
「んー俺の持ち家だけど。社員寮みたいな扱いにしてて、いまは別の人に貸してる。鍵あるから俺もたまに来るけどね。大家みたいな?」
 玄関を入ってすぐ、覚えのある匂いが微かにした。柑橘系の甘い匂いに誘われるように廊下を進みながら、その匂いにパブロフの犬みたいに反応していた。その香水は朔良が好きなものだった。
 ESKプロダクション所属の人間でタワーマンションに住んでいる人間なんて、大御所を除けば、数えるくらいしかいないだろう。
 一般人が大手芸能プロダクションのプロデューサーに直接仕事を依頼されるなど、ただの幸運だけが理由のはずがなかった。無論、結果だけみれば幸運かも知れない。
 それでも結果には必ず原因がある。
 朔良が元芸能人の母の息子だから、おそらく、それもある。身元が確かな人じゃなければ、極秘の仕事なんて依頼できないから。それが、一つ目の幸運。
 玄関入ってすぐ横には、シューズクロークがあり、たくさんのブーツやスニーカーが並んでいた。若い男性が住んでいる家だ。全面ガラス張りの開放的なリビングダイニングからは都内の景色が一望できる。水谷はリビングに入るとL字型のソファーに寛ぐようにして座った。

「さて、じゃあ仕事の話だ。座って」
「はい」
「昨日さ、君、ASKETのメンバーと一緒にいただろう」
 二つ目の幸運。それは、昨日ASKETのメンバーに会って、おそらくテレビに自分の姿が映っていたこと。モザイクがかかっていても元の映像を見られる立場の人間なら、朔良が誰かくらい分かるだろう。映像でなくても、ASKETのマネージャーを通して状況を聞けば、いくらでも特定可能だし、ASKETの所属事務所はESKプロダクションだ。
 玄関先で香った覚えのある香水の匂い。それは予感、だった。
「昔うちの養成所にいた子の葬儀。昨日、君は、そこに居た。調べたんだよね。君のことを色々」
「色々って、あの、もしかして、母の店に来たのは、僕に用があったからですか」
「んーそれは、接待で、たまたまあの辺りで飲める店探してたし。ついでに君に会えたら手間が省けていいなと思ったけど、ま、偶然にしても運命だよね」
 運命なんて一番信じていなさそうな男に見える。水谷は胸ポケットからシガレットケースを取り出し、タバコに火をつけた。朔良は手を膝の上でぎゅっと握り、意を決して先を促した。

「それで、僕に演じて欲しい役って」
「うん。まだ表に出してないけど、今ね、ASKET解散の危機なんだよ」
「解散、ですか」
「そ、リーダーのアサトがね、今回の件で少し休養が必要で。事務所としても、それは了承したんだが」
 水谷はタバコの灰をローテーブルの灰皿の上に落とす。
「最近は、そういうの厳しくて。昔みたいに、死ぬ気で死んでも頑張れなんて体育会系の時代じゃないし。役員からも厳しく言われてるのよ。商品は大事にしてねって」

「そう、なんですね」
「うん、つらいときは仕事を休ませる。芸能人も普通のサラリーマンと変わらない。ただ、企業としては、その間ASKETのコンテンツを維持していく必要がある。それだけの魅力がリーダーのアサトにあるから、というのもあるが」
 朔良は昨晩見たアサトの憔悴しきった顔を思い出していた。親しい友人を亡くしたのだから、心の整理に時間がかかるのは、外野の自分でも理解できる。母親に散々脅すように聞かされた話より、クリーンな業界のようで少し安心していた。
「もちろん、いつまでもってわけじゃない。彼の復帰がダメならいずれ損切りも考えるが、今はその時じゃない。だからね、プロデューサーの俺は、考えないといけない。一番の収入源であるライブが出来ない状況で、他のメンバーをどう使っていくか」
「どう使う、ですか」
「そ、ASKETのメンバー五人は、それぞれ持ち味があるだろ。リーダーのカリスマは別格として、歌、音楽、演技に特化していたり、バラエティーで重宝されたりとか、皆、個性がある。で、問題はナツなんだよね」

「問題なんて」
「顔がいいだろう。あいつ」
「そうですね」
 朔良が前のめりで即答すると吹き出して笑われた。
「そうそう、顔がいいんだよ、とびきりね。けど元々、家族からの推薦で上京して芸能人になった子だし、動機が弱いんだ。顔を生かすなら、モデルの仕事をもっと入れたらいいんだが、その当人にやる気と自信がないんだよ。顔がいいだけなら、他にもいるって思ってるし」
「そんなこと、ないと思いますけど」
 朔良からすれば、国宝級の造形美だと思っている。もちろん自信満々のナツというのもあまり想像できないが、それでも芸能人としての価値は十分にある。
 あの優しげな瞳とか、極上に甘いマスクが最高にいい。
「口に出さないけど、あいつさ、リーダーが抜けたら、これ幸いとこのままフェードアウトして引退する気でいるんだよ。けど、そうは問屋が卸さない。いままで金かけた分、アサトの休業中は、ナツにも他のメンバー同様にきっちり稼いでもらう。あの顔、でな」
 水谷の表情が急に遊郭のやり手婆のようにいやらしくなった。本人の都合が一番優先されると言いながら、取れるところはきっちりとっていく方針らしい。
「で、もう、君は気づいているよね。ここASKETのナツの部屋だよ」
「そ……そう、なんですね」
 不意打ちに心臓が跳ね上がり、思わず声がうわずってしまった。
「ほんと、分かりやすいな。好きなんだ、ナツのこと。ライブとかイベント、いつも後方彼氏面して見に来てるよね」
「なっ……え」

 確かに、いつも会場では後ろの方でナツを見ていた。女性ファンに混じって前の席を取る勇気はないけれど、どうしてもナツを見たかったから。
 けれど一般人の自分が関係者に存在を把握されているとは思っていなかった。ファンレターやプレゼントだって送ったことがない。握手会なんてもってのほかだ。

「関係者席にいると、色々見えるんだよね。ほらナツのファンって、ほぼ百パーセント女だから、めずらしいなぁって、なんか君の顔覚えてて」
「す、好きとか。ただのファンなだけで」 
「ふーん、別に、俺、ゲイに偏見とかないけど。クローゼットって生きにくくない?」
「ち、違います! 違いますから」
 思わず大声を上げて、ソファーから立ち上がっていた。
「そうなの。ま、どっちでもいいけどさ、そんな怖い顔して……座りなよ」
 一体どこまで自分のことを調べられているのだろう。言われるまま力無く座っていた。
「それでさ、強い心って人を動かすだろ。だから俺は、君を利用しようと決めた。――ナツをその気にさせてよ、そのファン心理ってやつで」
「ファン心理って」
「それが、君のお仕事。ナツに自信をつけさせて、バリバリ芸能界で仕事させて欲しい。――ここでナツと一緒に住んで、あいつのお世話してよ」
 また心拍数が一気に上がった。ナツと一緒に住むなんて、死ぬかもしれない。

「お……お世話って……マネージャーとか、それに自信をつけさせるなら、僕じゃなくて、もっと綺麗な女性とか、他にいくらでも」
 自分で言っていて虚しかった。男の自分がファンだと伝えたところで、ナツは喜ばないし自信をつけたりしない。だから隠れファンを貫いていた。それに朔良のような邪な気持ち百パーセントのファンの存在など、絶対本人に気づかれてはいけない。
「マネージャーは、ASKETのメンバー全員で一人なんだよ。で、明日からは個別に仕事してもらうからナツだけに構ってられない。マネージメント部門は、万年人手不足だし。それで君の扱いとしては、制作部の新人を代マネとして貸し出しているって形になってるから」

「僕が、代マネ……ですか」
「そ、だから、親身になってお世話してあげてよ」
 鬼だと思った。朔良がナツの熱狂的なファンで、彼が困るようなことは絶対にしないと分かっているから、代マネを依頼している。
 推しと二十四時間一緒に暮らすなんて、ある種の拷問だ。
「君がやることは、二つだけ。代マネとしてナツと共に仕事をする。その中で、ナツに自信を付けさせて、どんな形でもいいから彼のやる気を出させる。以上だ、質問は」
「その……どうして、僕がナツと一緒に住んでも大丈夫だって思えるんですか」
 水谷は目を丸くして少し驚いた顔をした。

「何、君、ここでナツを襲う気なの? それは困るなぁ。弊社の大事な商品だし」
「し、しません! そんな……こと、絶対に」
「だよねぇ、推しに幻滅されるのが、一番、ファンとして怖いものね」
 水谷はアイドルのファン心理を知り尽くしていた。
「それにな、あいつに女付けたところで、逆効果だって分かってるから、君が一番適任なんだよ。ナツ、興味ないんだよね、女に」
「興味がないって」
「言葉の通り。ゲイじゃないんだけど、あの見た目で思考回路が、小学生で餓鬼なんだよ」
「餓鬼、ですか」
「顔だけは、誰よりいいのにな、本当、残念なやつでさ。あれは、恋愛映画とかに絶対出したらダメなタイプの男だよ。あーそれも、なんとかしてくれたら助かるんだけど。どうにかならない?」

 ひどい言われようだった。水谷がそう言ったとき、玄関で大きな物音がした。
「あぁ、帰って来た。じゃあ、今から――演技開始だ。ほら、行ってこいよ、玄関」
 待っていれば、すぐにリビングに入ってくるだろうと思っていた。けれど、いつまで経っても部屋に来る気配がない。
 水谷に促されて、玄関先に行くと、そこには仰向けに倒れているナツがいた。

「ぁ、あの里村、さん。大丈夫、ですか」
「あれ……なんで、チョコレートあげた花本くんがここにいるの? また、お腹すいてるの?」

 電池が切れた完全オフモードのアイドルなんて、こんなものだろうなって、ずっと前から分かっていた。驚きもあったが、少し安心していた。

 ――まぁ見た目と本当の中身は、全然違うんだろうけど。

 そこにいたのは、四年前の春に知りたかった、本当の彼だった。