「ナツ、もしかして」
「うん……話、外で全部聞いてた」
いつも春の日差しのように穏やかに笑っているナツが、眉間に皺を寄せ顔をこわばらせていた。ナツは嘘に塗れた芸能界で何度も傷ついてきた。表と裏の顔を便利に使い分け相手をいいように利用する、そんな彼らと朔良は同じことをしていた。軽蔑されて当然だ。
朔良はその場で勢いよく頭を下げた。
「な、ナツ、ごめん、ごめんなさい。僕、嘘つきなんだ」
涙が溢れてきて止まらなかった。ぽたぽたと灰色の絨毯の上に染みができていく。
仕事の成功と引き換えに、劇団へ口を利いてもらう約束をしていたなど知られたくなかった。
「ずっと、本当のこと言えなくて。ナツの代理マネージャーになったのも、僕はっ」
朔良が顔を上げた瞬間、ナツは朔良の口を手で塞ぎ、ゆっくりと首を横に振る。もう、これ以上聞きたくないと言われているみたいだった。
後悔しても遅いし、傷つく資格なんてないと分かっている。それでも、世界一大好きな推しに軽蔑されて、この世から消えてしまいたかった。
「朔良、俺、怒ってるからね。でも、それは、嘘や隠し事をしていたからじゃないよ」
「え……」
「ちょっと、一緒に来てくれる?」
勢いよくナツに手を握られ、朔良が戸惑っている間に再び応接室の中へ入っていく。
水谷の前で見せていた朔良の強気の演技は、すでに崩れ、今は顔が涙でびしょびしょに濡れていた。
ナツの手によって、楽屋裏の情けない顔が水谷の前に晒されてしまう。
これが罰だとでも言われているみたいだった。
ソファーに座っている水谷は、思案するような顔でタバコを吸っていた。朔良たちに気づいた水谷は鬱陶しそうに顔を上げる。
「あ、何だよ、いま俺、目の前の仕事で頭いっぱいなんだよ」
顎を突き出し不遜な態度で顔を顰めた。部屋に入る前から分かっていたが、機嫌が悪い。ナツは朔良の手を握ったまま水谷の前に立った。
ナツは水谷に少しも怯んでいないし、その表情には迷いがなかった。
「先に俺をここに呼び出したの、水谷さんでしょう」
「あーそうだな。お陰で話が一回で済んだだろ。俺と花本くんの話聞いたんなら」
水谷に用があったのは朔良だった。理由は分からないが、水谷は最初から、この応接室にナツを呼んでいたらしい。
訳が分からず朔良が戸惑っていると、ナツは眉を寄せ、困った顔で朔良の顔を見下ろした。そして朔良の泣き顔を水谷から隠すように胸元に抱きしめてきた。
「ぇ、あの、ナツ?」
「ん、朔良は、あとで話しようね。とりあえず、先に俺の問題を片付けるから」
そう言ってナツは朔良を胸に抱いたまま、水谷に向き直る。
「あのなぁ、もう問題は片付いただろ。そこの花本くんのおかげで引退の件も纏まったんだし」
「色々言いたいことありますけど、一番言いたいのは、俺の彼氏を泣かさないでください」
ナツの言い放った言葉に、水谷は眉をへの字にして、呆れたような声を上げた。
「……お前はなぁ、男と付き合う葛藤とか、少しは隠すとかしねーのかよ。それでもアイドルか」
「葛藤はないですね。言いふらす必要もないですけど、でも隠す必要もないでしょ」
「そうかよ。時代は変わったねぇ。アイドルとしては褒められねーけどな」
「はい。それについては、すみません」
戸惑う朔良を置いてけぼりにして二人の話は目の前で進む。その間もナツは朔良の手を握ったまま、決して離そうとはしなかった。
「あと悪いことしちゃダメですよ。水谷さんはASKETのプロデューサーなんだから」
「してねぇよ! 少なくとも、まだ、法には触れてないからな」
「できれば、この先も法に触れるのは、やめて欲しいですけど。俺たちのグループのためにも」
「……この先は分からないな。お前が辞めるんじゃ、なりふり構ってられないし。つか、もう、お前には関係ない話だろ?」
「水谷さん、また、そんな悪ぶったこと言う。そんなんだから誤解されて会社で孤立するんですよ。って三上さんが言ってました」
水谷はナツを脅すような口調だった。けれどナツは水谷の言葉を、少しも大ごとには捉えていないようだった。それどころか、ナツから水谷に対しては、どこか信頼みたいなものを感じる。
「三上も十年後には、出世して俺と同じになってるよ」
ナツは朔良の頭の上で小さくため息をついた。
考えてみればグループ立ち上げから一緒に仕事をしてきたのだ。ASKETのメンバーたちは水谷プロデューサーのことをよく理解しているのかもしれない。彼がどんな人間か、を。
「芸能界で働く人間は自然とこういう顔になんだよ。毎日お前らみたいな、鬼や悪魔と仕事してんだから当然だろう」
「水谷さんは元々怖い顔でしたよ」
「うるせー」
水谷も昔は違う顔をしていたのだろうか。ナツは話を続けた。
「でも、水谷さんは、俺たちを売ることに熱心なだけのプロデューサーですよね。そこは信用しています」
ナツの言葉を聞いた水谷は、それを鼻で笑った。けれど、その笑い方は決して嫌な感じではなかった。
「で、辞めるでいいんだろう。こっちも、やる気がない人間を売るために動きたくねぇし、慈善事業をやってる訳じゃないからな」
「いえ、よくないです」
その言葉に驚いて目を見開いたのは朔良だけじゃなかった。水谷も同じ顔をしていた。アイドルを辞めて新しい夢を追いたいと最初に言ったのは、ナツだった。
しかし思えば、ナツは、もう一つ言っていた。
――アイドルとして、俺に出来ることが全部終わったら、だけどね。
タイミングを見て辞めるけれど、もう少し先の話だと。
ナツのその言葉を朔良は周りに流されているからだと思っていた。
けれど隣にいるナツの目に迷いはなく自信に満ちていた。他人に言われて嫌々続ける状況には見えない。
「はぁ? 何言ってんだよ。お前、アイドル辞めたいんだろ」
「朔良も水谷さんも、俺抜きで勝手に話を進めないでください。ちゃんとメンバーたちとも話し合って決めましたから」
「ナツ、あの」
ナツは朔良を安心させるように微笑んだ。そして水谷に向けてまっすぐに決意を口にした。
「水谷さん。俺、アサトが帰ってくる場所をメンバーと作って待ちます」
夢が一つじゃなきゃいけないなんて。誰が決めたんだろう。
朔良は端から全部叶えるなんて、できないことだと思っていた。朔良自身、器用な人間じゃないし、大学卒業時に、一般企業に就職するか劇団か、そのどちらかしか選べないと考えていた。
そして、結果どちらも選べずに全て失った。
でもナツは違った。
最初から諦めず、全て叶えるつもりだった。
「……言うのは簡単だけどな。人の心なんて分からねーだろ。アサトの先のことなんて」
「でも、水谷さんだって、アサトが芸能界に戻ってくるって信じているから、色々裏で動いてたんですよね。危ない橋渡って」
「――アイツは多分、本物だからな」
水谷は朔良たちから視線を逸らし窓の外を見た。
「はい、俺も、そう思います。だって、メンバーの中で一番、ファンのことを考えて、一番、グループを愛しているから。それに誰よりも一番上を目指して頑張ってたアサトが、ここで全部投げ出すはずない。絶対帰ってきますよ」
最前線にいるアイドルとしての自負、覚悟。仲間への信頼。
マンションの部屋で朔良に甘えたことをいう恋人のナツも本当の彼だ。けれど、それと同時にナツは芸能人なんだとあたらめて思い知らされた。
「俺、夢には責任があるって思うんです。たとえそれが、人に勧められたから選んだものでも。その夢はちゃんと納得できる形で綺麗にして終わらせないと、きっと俺、後悔すると思うんです」
「ちょっと前は、アイドルなんて、もうどうでもいいみたいに言ってたじゃねーか、だから俺はなぁ」
水谷は非難するような声を上げた。
「あの時は、そう思っていたのも事実だし。毎日毎日、どんなに頑張っても、所詮顔だけみたいに言われて落ち込まない人なんていないでしょ。――でもね、朔良に出会って、何も飾っていない自分でも愛してくれる人がいるんだって知って、なんか感動しちゃって、こんなに応援してくれる子がいるんだから、もっと頑張らないとって勇気づけられた」
「現金なやつだなぁ」
「切り替え早くないと、アイドルなんてやってられないよ。傷つくことの方が多いんだから」
「それで? 真実の愛を知って目覚めたなら、俺としてはこのまま落ちぶれるまでアイドルやってくれるとありがたいんだがなぁ」
ナツはそれには首を横に振った。
「それは違うよ。一番の夢じゃなくなった時点で、俺は、もうここにいるべきじゃない。同じ方向を向いていないグループなんて遅かれ早かれ上手くいかなくなる。アサトが帰ってくる場所を守る。この場所での一番の夢が終わったら、俺はアイドルを引退する。そう決めています」
「変わったなぁ、前なら、すぐに俺にころっと騙されて流されてくれたのに」
「水谷さんが、朔良と出会わせてくれたからだよ」
そこには名前の通り、夏の青空みたいな笑顔のナツが立っていた。
「あぁもう勝手にしろ。自分の思う通りの最高の引退の舞台を作りたいなら、せいぜいそれに向けて頑張るんだな」
「はい。そのつもりです。話はそれだけなので、仕事に戻りますね」
朔良は惚けた顔をしたまま、ナツに手を引かれて廊下に出た。
「……あのね、朔良」
応接室の扉が閉まると、ナツは朔良を呼んだ。
何を言われるか、分からなくて。びくびくしていたら。握っていた手をそっと離された。
(……部屋に入る前、怒ってるって言ってたし)
今度こそ怒られる覚悟を決めて顔を上げると、ナツは朔良の両肩に手を置いた。
「下の駐車場で三上さん待たせてるんだ。今から急いで撮影の仕事終わらせてくる」
「え、え? う、うん?」
「だからね、朔良、俺の部屋で待ってて、七時には帰るから」
早口でそう言ったあと、手のひらの上に鍵を落とされた。そして、その手を握って朔良を引き寄せると、耳元で甘く囁かれる。
言われたことの意味が理解できず、意識が飛んでいる間にナツは走って仕事に行ってしまった。
ナツの体温の残った合鍵を朔良の手のひらに残して。