思えば朔良は、いつも演技をしているときの方が、普段の自分より自由だと感じていた。
 なりたい自分になれる。それが演技の世界だった。
 ままならない現実から逃げるために、演劇やサクラのバイトに明け暮れていた。
 けれど、今からするのは逃げるための演技じゃない。
 戦うためだ。
 ナツのためなら、何でもできると思った。


 *


 翌日、朔良は水谷に連絡して会う時間を作ってもらった。
 朔良が仕事を投げ出しナツのマンションから出ているのは、既に三上を通して伝わっているはずだ。
 三上は朔良を叱ったりはしなかった。不義理の謝罪もしたが「あぁ、そう」と返事はあっさりしたものだった。突然連絡もなしに消える人間の方が多いので、電話してくるだけマシだそうだ。一ヶ月ほど前、水谷にナツの部屋に連れてこられて代理マネージャーになったが、事務的なやり取りは全て三上がやっていた。
 朔良が想像している以上に、三上は仕事で苦労しているのかもしれない。
 約束した午後にESKプロダクションの前に着くと、以前と同じ光景が広がっていた。再び灰色の巨大ビルから得体の知れないプレッシャーを感じている。
(本当、悪の根城だよね……)
 外は五月晴れなのに、ビルの反対側に太陽があるせいか、周囲は影になっている。
 気合を入れて整髪料をつけた髪は、ビル風に煽られ早々に崩れた。数時間後の自分の姿が頭をよぎり、髪を撫でつけて気合を入れ直した。気温が高く灰色のスーツのジャケットが蒸し暑く感じたが、ビルに入ったあとも脱ぐ気がしなかった。脱いでしまうと気が抜けて、この戦いに負けてしまいそうだったから。
 受付に要件を伝えて向かったのは、以前と同じ応接室。
 水谷に見せたい偽りの自分があった。廊下を歩きながら、その役柄を頭の中でイメージする。折衝で絶対に負けない人間になりたい。一番に浮かんだのが、父の姿で腹立たしかった。
 父は演技しているときの朔良が、自分に似ていると言っていた。その話を信じるわけじゃないけど、本当にそうなら負ける気がしなかった。
 応接室には朔良より先に水谷が到着していた。
 ビジネスマンとして隙がないのは、父と同じなのに身にまとっている空気が違う。水谷は全身が炎のような男だ。風で吹き飛ばすのが父なら、炎で焼き尽くすのが目の前の男だ。
 扉を開けて入ってきた朔良を見るなり、水谷はくわえタバコのまま片手を上げて挨拶した。
「よぉ、それで? 何で仕事投げ出したの。……まぁ、もう別に花本くんの仕事は終わりでもいいんだけどさ。俺が言ったことは達成しているし」
 すぐに本題に入ってくれて助かった。朔良は部屋の中に進むと、奥のソファーに座っている水谷の対角線上に立った。
「その件ですが、きちんとお話したくて、僕は」
「俺が言った通りに花本くんは演技出来てたんだろう?」
 朔良の言葉を遮るように水谷は話を続けた。
「雑誌の写真は好評で、今SNSでも話題になっている。顔だけのアイドルなんて言われたのにさぁ、人間味が出てきたっていうか。――君のお母さんと一緒だね。さすが羽鳥カメラマンだ、そのうち人間国宝とかになるんじゃないの」
「水谷さん、羽鳥さんの写真の件も含めて、最初から僕を使う気だったんですよね」
 朔良の指摘に水谷はニヤリと歯を見せて笑った。
「そ、お察しの通り。いやぁ俺の描いたシナリオ通りに進んで良かったよ。嫌がっていた仕事もナツは進んでやってるし。花本くんの仕事は百点だね、完璧。ありがとうね報酬を上乗せしてもいいくらいだ」
 水谷は朔良の仕事の出来を讃えるように手を叩いた。
「僕、水谷さんに、お願いがあってきました」
「お願い? 劇団に口を利く件なら、心配しなくても」
「いえ、劇団の件じゃなくて」
「じゃあ何、金か? 実家金持ちなのに、きっちりしてるねぇ、いくらだよ」
「違います」
 水谷に訝しげな目で見つめられる。すっ、と水谷が息を吸う音が聞こえた気がした。この空気を朔良はよく知っている。父も自分に有利な立場で話を進めようとするとき、一瞬だけこんな空気を漂わせる。
 勝ちを意識したときにする、あの、いやらしい父の顔が朔良は大嫌いだった。あの男の場合は好意と悪戯心が根底にあるが、水谷はこのあと会話で朔良を煙に巻くつもりだろう。
「劇団の話を、なかったことにしてください」
「はぁ、何で? じゃあ、何のために花本くんは、この一ヶ月頑張ったんだよ」
 朔良の報酬辞退の申し出は、水谷にとって意外なものだったらしい。水谷は朔良を馬鹿にするように大袈裟に手を広げて見せた。
「僕は、ナツの前で一度も演技が出来なかった。だから、役者として報酬をもらう立場にない」
「ん、どういうこと。ま、聞くから、続けてよ」
「こんな依頼は演技じゃないです。誰かの思惑に合わせて、必要なコマを連れてきて置いただけだ。役者は人形じゃない」
 朔良の吐き出すような訴えは、水谷に届いていないようだった。水谷は少しも表情を変えない。
「若いねぇ、それで役者としてのプライドが傷つけられちゃったの? 何甘えたこと言ってんだよ」
 水谷の凄む声に心を揺らさないように、朔良は必死にその場に立ち続けた。
「芸能界って、元々そういうところだよ。いや、別にこの業界だけの話じゃない。企業で働く行為そのものが、そう。適材適所。誰かに使われるのが嫌なら、一人で会社起こすしかないよね」
 水谷はタバコの火を灰皿で消すと膝の上で手を組み、朔良を値踏みするように見上げる。
「俺にいいように使われていたことが気に入らない、君が言いたいことは、それだけだよ。でもさ、その件に関して、俺は花本くんの頑張りに見合う報酬を用意しただろう。文句を言われる筋合いはない」
「僕は、ナツのファンだから、ナツの一番の夢を応援したい。彼が望んでいない未来に協力はしたくない。それだけです」
「――夢ねぇ。それって、大事?」
「大事ですよ」
「長く生きたおっさんからしたら、そんなもん結果論だよ。辿り着いた場所で、幸せならそれが夢でいいんだ。現に、今ナツは楽しそうにお仕事しているだろ? ファンだって増えて、より大衆から求められている。アイドルとしての成功が夢になったからじゃないの?」
「夢は、自分で選んで掴むものじゃないですか」
「青いなぁ、まぁ、そういうの可愛いけどね」
 水谷は目を細めて、にこりと毒のある笑みを浮かべた。
「おねがいです。ナツが望む形で芸能界を引退できるようにしてください」
 そう言って、なりふり構わずに頭を下げた。すると朔良の頭の上から大きなため息が聞こえてきた。
「ASKETの事務所移籍の話がある」
「……移籍」
「もちろん、すぐにじゃない。そういう計画がある。まぁESKもいいんだけど、彼らの名前を看板にして会社を作りたい、と考えている人たちがいる。俺も、それに噛んでるのよ。今回、ナツに個人で仕事頑張って貰った件も、それが理由だ」
「そういうの勝手に進めたら、ダメなんじゃないですか」
「勝手? ただのプロモーション戦略だろう。別に、嫌なら彼らがハンコついて契約しなければいいだけの話だ」
「そう、かもしれないですけど」
「俺らの仕事は商品を売ること。そして会社に利益をもたらすこと。夢を見て芸能界へ来たのは彼ら、彼女らだ。最終的に去ると決めるのも、そう。俺はASKETがまだ売れる商品だと思っているし、続けて欲しいと思っているから最善を尽す。何か会社員として俺、間違ったこと言ってる?」
 筋は通っている。
 水谷に間違いがあるとすれば、一つだけ。やり方、だ。
 ――朔良、お金で他人を思い通りにするなんて、ろくな人間じゃないよ。
 それは、脅迫で犯罪だから。
 水谷が「金か」と口にしてから、会話を録音しておいて良かった。この件が犯罪にあたらなくても、交渉材料にはなるから。
「水谷さんはナツに芸能人を続けさせるということですね」
「そうだね。彼に、価値がなくなるまで。それが俺の仕事だし」
「――ところで水谷さん、ここでの僕との会話、全部録音してますから」
 朔良はそう言って、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見せた。
「は、なんでよ」
「水谷さん。背任罪ってご存知ですよね。もしそれに当たらないとしても、ここで僕にした話、絶対コンプライアンス違反じゃないって言えますか?」
「あ、何だよ俺をゆする気か?」
「後ろ暗いことがないなら、僕がこれを使って、誰に何を言っても問題ないですよね」
「あ、そ。んーそれにしても花本くん。随分、親身になってナツの気持ち考えてるんだね。……あぁ、分かった。もしかして、ファンの一線越えた? 体でも使ったとか?」
 水谷に軽蔑するような声で言われた瞬間、硬直してしまった。唇が震えて、先の言葉が続かない。
「へぇ、そう、カマかけたんだけど、マジなんだ。ところでお母さんたちは、知ってるのかな、君がゲイって。――君が俺をゆするなら、俺にも手があるのをお忘れなく」
 ニヤリ、と笑われた。急に涙が溢れそうになり、手を握って爪を立てた。
 今まで誰にも男の人が好きだと打ち明けてこなかった。
 けど朔良は、ありのままの自分を受けいれてくれる人に、もう出会えたから、少しも怖くない。そう臆病な自分を騙して、鼓舞する。
 まだ演技をやめるわけにはいかない。幕はあがったままだから。
 朔良は顔を上げた。
「水谷さんには、僕感謝しているんですよ」
「はぁ? なんだよ急に、感謝ぁ?」
 水谷は間の抜けた声を上げる。朔良は、穏やかな笑顔を作って水谷に見せていた。イメージしたのは、ナツの笑顔だ。アイドルの彼はいつだって春の桜が舞うように穏やかに微笑んでいる。
 そんなステージ上の彼を思い出していた。
「だって、短い間だったけどナツと暮らせて楽しかったですから。推しと大学行って、学食でご飯食べたんですよ。あとスーパーで買い物したり。……知らなかったナツの素顔を知って、もっともっと好きになった。本当に夢みたいだった。――僕は、ナツが好きで、ナツを好きになったから、男の人が好きな自分を許せた」
「……ふーん」
「さすが、水谷さんは人に夢を与える会社で働いている人ですね。僕の夢を叶えてくれたんだから」
 にこりと笑ってみせる。
 これは演技だ。自分の秘密を知られるのは、怖いに決まっている。それでも誰よりも幸せになって欲しい、大好きな人がいるから。負けたくない。
「なんだよ面白くない。ゲイ隠すのやめたんだ。いじめがいがない。あー分かったよ、お前の要求のめばいいんだろう。ナツが辞めたいって言ってきたら話聞くし、希望通りに引退させる。これで、いいんだな」
「はい、ありがとうございます」
 水谷は朔良から顔を背けると再びタバコに火をつけ、窓の外を見た。
「……花本くんさ、演技できなかったって、してんじゃん。別に俺が口利かなくても、親のコネがなくても。花本くんなら希望の劇団どこでも受かんだろ」
 水谷は、そう言って手をひらひらと動かして朔良を部屋から追い出した。あと少し、あと少しで、この舞台の幕が下りる。そう、思った次の瞬間だった。
 扉を開けると、そこにはナツが立っていた。
「……朔良」
「ぁ、な、ナツ。なんで、ここに」
「水谷さんに話があるって呼ばれてたから」
 分かっていた。やっぱり、ナツの前でだけ、朔良は思うように演技ができない。