マンションへ帰る道中は二人とも終始無言で、ずっと朔良の右手はナツに握られたままだった。手を繋いでいるところを誰かに見られでもしたら、と心配を口にすることもできなかった。
 扉を開けた途端、朔良は抵抗する間も無く玄関先でナツに押し倒された。
「……ナ、ナツ。ど、どうしたの」
 普段の温厚なナツからは、想像できないような荒々しさだった。
 ナツは被っていたバケットハットとセルフレームの眼鏡を無造作に廊下へ投げる。
「朔良……」
 今にも泣きだしそうな混乱した様子で前髪をかき上げると、小さく息を吐き再び朔良の腕を掴んだ。
 絶対に逃さない、そんなナツの心の声が聞こえた気がした。
「昼間、どうして……俺に電話の内容秘密にしたの?」
 暗く澱んだ瞳が真っ直ぐに朔良を見下ろしている。朔良は怖くて、その場で小刻みに震えていた。
「ナツ、えっと……違う、からね。多分、誤解だよっ、ぅ」
 ナツは朔良の顎に手をかけるとキスで口を塞いだ。
「……朔良は、悪い子だね。俺を騙したの?」
「ッ、ぅ……ぁ、んんっ」
 性急な口づけに朔良は焦りを覚えた。
「ねぇ、朔良。キス、気持ちいい?」
 今すぐに誤解を解かなければと頭では分かっているのに、体は勝手にナツの手と唇に反応してしまう。
「っ、あっ! な、ナツ、本当に、ち、がうから。あの人、は」
「あの人……か。随分、親しいんだね。パパって呼んでたし」
「よ、呼んでないよっ!」
 ナツに必死で反論する朔良の声はうわずっていた。
「嘘、だ」
 やっぱり誤解していると分かった。父親のことをパパなんて呼んだことがない。
(いや、言った……。一回、だけ)
 おそらくナツは昼間、トイレで朔良と父の電話を聞いていたのだろう。スタジオを出てからは終始上の空で、ナツに跡をつけられていたなんて気づいていなかった。
「呼んでたよ。パパとホテルで会う約束してたじゃん。さっき、俺が行かなかったら、あの人とホテルで寝てた? そんなに上手なの? セックス」
「ないないない! 絶対!」
 あの父親と仲良く、なんて死んでも想像したくない。胸元にあったナツの手は下腹へと移動する。朔良は戸惑いながらもこくりと喉を鳴らしてしまった。
「ほ、本当、誤解だよ! ナツ、ぁああ」
「何が誤解? ねぇ、いつから、俺……騙されてたのかな」
 一際、敏感な場所を指先で撫でられ、朔良は甘やかな声をあげた。その声を聞いたナツは寂しげな表情を浮かべた。こんな傷ついた顔をさせたくないのに。
 最初のエッチが特別に幸せだったから。身体がナツの指の動きを想像して勝手に欲していた。
「朔良はえっちだね。玄関先で、とか無理やりされるのが好きなの?」
 責め立てる言葉で煽られて頬が朱に染まる。
 ナツと付き合う前の、以前の自分だったら喜んでいたかもしれない。推しで、大好きなナツに無理やり抱かれるなんて夢みたいなシチュエーションだ。
 けれど今は違う。こんなふうに誤解したまま抱かれるなんて絶対に嫌だった。
「昨日……途中までで物足りなかった? ごめんね。やっぱり……朔良も俺のこと、顔だけって思ってたんだね」
「ち、違うよ、もう、ナツ、手、止めてっ」
 朔良は自分の股間の上を動くナツの手を押さえた。けれどナツの手淫は止まらない。
「どうして? 気持ちよさそうなのに、下、こんなに熱くなってる」
「な、ナツが触るからっ! だよっ」
 ナツとした初めてのエッチは、お互いの体を触り合うだけで、それでも二人にとって特別で幸せな時間だった。今の行為は朔良を追い詰めるためのものだ。ナツの手は無理やり朔良の性感を高めるように動いている。
 心とは裏腹に素直に反応する身体に情けない気持ちになった。
「ねぇ、パパって、何。……朔良にまで、嘘つかれたら。俺、もう何を信じたらいいか分からないよ」
「ぁ、ナツ、いま、話すから! 待って!」
「俺の、セックス、下手だったから? だからパパに電話したの?」
「下手じゃないよ! そもそも、僕ナツしか知らないんだから! 比べられないっ」
「俺も朔良しか、知らないよっ!」
「それも知ってるよ! 昨日教えてくれたじゃん」
「ぅ、朔良、どこにも行かないで」
 どこにも行かないでほしいってセリフは朔良がナツに言いたい言葉だった。胸がぎゅっと締め付けられる。
「もっ、もう」
 甘えたな寂しい兎の瞳が、朔良を捕らえて離さない。朔良は必死の思いでナツに抱きつき、その勢いでナツを玄関の床に押し倒し返した。呆気に取られたナツは、きょとんとした丸い目で朔良を見上げている。
 朔良は下半身を晒したまま、ぐちゃぐちゃの格好でナツを見下ろしている。とにかく、なりふり構っていられなかった。
「ナツ! あのね! 本当に、違うから! あの人は、僕の父さんだから! うち親が離婚してて」
「え、父さん……? でも、全然、似てなかった、よ」
「それは……僕も、そう思う。実際、今日まで、本当の父親じゃないと思ってたし。その誤解は……今日解けたんだけど」
 ナツの表情がたちまち焦りに変わっていく。
「ぇ、あ……じゃあ、もしかして、俺、親子の感動の再会の邪魔を」
「それはない。絶対ないから! 年に一回は会ってたし」
「俺……父親から息子を突然連れ去った不審者じゃん」
「それも、多分大丈夫、お友達って言ってたし。ナツが芸能人なのも……父さん分かってると思う」
 少なくとも十年くらいは芸能人の母と一緒にいたし、恐ろしく頭の回転が早い人だ。本当にナツを危ない人だと思っていたら、その場で朔良がナツと帰るのを止めていただろう。父親のことが苦手でも、その程度の信頼はしていた。
(いや、信頼、じゃないな。信頼はしていない。理解とか、把握?)
 手放しに信頼できるほど長い時間を、父と一緒に過ごしていない。朔良が父に抱いていた心は、ずっと不信感だった。そのせいで、今日まで誤解を続けていたのだから。
 朔良は自分が、崎田が母親と不倫して出来た子供だと思っていた。
「朔良、えっと」
「だからね、僕、パパ活とか絶対してないから!」
 さっきとは逆の体勢で、今はナツが自分の体の下にいる。ナツは可哀想なくらい動揺してた。
「ご、ごめん、ごめんなさい! 朔良、俺、一人で暴走して、酷いこと言った」
「ううん。僕も、はっきり父さんと会ってくるって言えば良かった。……色々思うところがあって、昼間は余裕がなくて」
「何か……あったの?」
 心配そうなナツの表情に、心のなかの重石がふっと軽くなる。もっと、ナツと話したいと思った。まだ、彼のことを何も知らない。
「……うん。仕事中なのに、個人的なことでナツに心配かけて、こっちこそ……ごめんなさい」
「俺、てっきり、朔良に飽きられたんだとばかり」
「それだけは、絶対ないよ。どれだけ長い間、僕がナツのファンだったと思ってるの? ガチオタだよ」
「絶対……ない?」
「絶対!」
 さっきまで不安な顔をしていたナツは、目に涙を浮かべて、目をキラキラさせている。
「ナツ、あのね、僕の話、聞いてくれる?」
 ナツは朔良に向けて手を伸ばし、床の上で、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「そういえば、俺たち付き合ったばかりだったね。……俺も、もっと、朔良と話したい」
 ナツは目を細め、ねだるように少し唇を尖らせた。その愛らしさに胸がきゅんとなる。
 お互い磁石で吸い寄せられるよう近づき額がこつりと当たった。
「朔良、ちゅーする?」
「……うん」
 微笑み合ったあと、玄関先で長いキスをしていた。