朔良は子供の頃から五月が苦手だった。
 ゴールデンウィーク明けの学校が憂鬱だから、みたいな理由ではない。
 毎年、五月は宇宙人のような男に会わなければいけなかったからだ。

 十八歳になるまで年に一度、父親の誕生日に食事に呼び出されていた。成人してからは、その一年に一度の交流も断って疎遠にしていたが、それでも一方的にラインで連絡は来ていた。
 ――ねぇ、そろそろ、パパの誕生日だけどさ。
 猫とプレゼントのスタンプ。離婚したくせに、いつも自信過剰で、息子に少しの遠慮もない。面倒な父親。
 苦手なのは五月じゃなくて、父親、だったかもしれない。

 *

 坂野上写真事務所でナツの撮影が終わり、ESKプロダクションのビルに雑誌の取材に来ていた。
 事務所の五階、編集者が待っている打ち合わせスペースのドアの前で朔良は足を止めた。
 スーツの内ポケットに入れていたスマホのバイブ音が鳴っている。水谷からの仕事の電話だったらいけないと思い、確認しようとして誤って通話ボタンを押してしまった。
「朔良、どうかした?」
「あ、えっ……と、大丈夫です」
 スマホから顔を上げると、朔良の顔をナツが心配そうな目をして覗き込んでいた。ディスプレイには、父親の名前が表示されている。
「電話でしょう」
 スマホの向こうからテンションの高い声が聞こえた気がしたが、慌てて通話を切った。そのタイミングで、父親の誕生日を忘れていたことに気づいた。
 朔良からの折り返しを待ってくれるだろうと思ったが、間髪入れずに再びバイブ音がする。
「急用じゃないかな。取材だし、俺なら、一人で大丈夫だよ」
「ううん、ごめんナツ、大丈夫だから、部屋入ろう編集さん待ってる」
「……そう」
 そのまま片手でスマホの電源を落とし部屋の中に入った。
 ナツの隣の席で取材が終わるのを待っている間、父親のことを思い出し、終始うわの空だった。最近は誕生日に会わない代わりに、適当なプレゼントとメッセージだけ送っていたが、今年は完全に忘れていた。
 今は父親のことなんて考えている余裕がない。そもそも成人しているのだから、もう縁を切ってしまってもいいと思っている。
 切ったところで、血のつながりはあると言われるかもしれない。でも朔良は、あの男との血の繋がりを疑っていた。――地味でうだつが上がらない、いつも母親のそばにいる崎田の方が、朔良の本当の父親なんじゃないか、と。
 どんなに考えないようにしても、年に一度、父親が律儀に連絡してくるせいで嫌でも思い出してしまう。思い出したところで訊けやしないのに。
 これ以上、苦手な父親のことで頭を占められたくないし、こんなくだらない悩みなど、早く片付けてしまいたかった。
(今は、ナツのことを一番に考えたい)
 このまま、あの写真が雑誌に載れば、おそらくナツは、もう朔良の手の届かないところに行ってしまう。売れないアイドルだった母の運命を変えた、例の写真。それと同じことが、この先起こるだろう。
 朔良は、ナツが思う一番の夢を応援したかった。その結果、自分がナツの目の前から去ることになっても、後悔はしない。
 ――しない、と思うんだけど、な。
 あまりにも、ナツと一緒にいるのが幸せで、夢みたいで。胸の奥のチクリとした痛みに気付きたくなかった。

 取材が終わったあと、ナツに断ってトイレに行き、そこで父親に電話を掛け直した。
『あぁ、やっと繋がった。無視しないでよ。パパ悲しいだろう、誕生日も忘れて、ひどい息子だなぁ』
「パパって……。何か用事ですか。僕、いま仕事で忙しいから、手短にお願いします」
『つれないなぁ。ちょっと、今日時間作ってくれないか』
 いつも人を小馬鹿にするような声をしている父親が、電話の向こうで珍しく「父親」の声をしていた。
「急だなぁ」
『今、君がしている仕事について、だよ。ミカさんさ、君のこと、すごく心配していたよ。パパにもちゃんと説明しなさい』
「なん、で、そんなこと……別に」
 思わず言い淀んでいた。犯罪に手は染めていないが、演技で他人を思惑通りに動かすなんて、褒められたことじゃない。既にそれに気付いていたので強く出られなかった。
『いいから、仕事で新宿まで来てるから。夜なら少しくらい時間作れるだろう。まさか、労働時間も守られてない仕事じゃないだろうね。そんな仕事、パパ許さないからね』
「そんなことないけど……」
『じゃあ別に、食事くらいいいだろう』
「分かりましたっ、行きますよ。今の仕事場から近いんで、XXホテルでいい?」
「いいよ。予約しておくから、七時に来なさい」
 通話を切ったあと、なんだか気力と体力をごっそりと奪われた心地がした。

 *

 一日のスケジュールが滞りなく終わりマンションに着いたとき、ナツに「今日は知り合いと食事する」と伝えて外に出た。
 ナツが住んでいるマンションから歩いて行ける距離にあるXXホテルに着くと、ロビーで、いけすかない顔をした父親が待っていた。
 朔良の姿を見つけると、キリリとした表情が一変して相好を崩し手を振ってくる。なんだか、そういうところは少し崎田と似ている気がした。
 父はベンチャー系企業で社長をしている男を絵に描いたような格好をしている。実際そうだ。
 白髪は綺麗に黒く染めて、後ろに流すように、きちんとセットしているし、ダークグレーのスーツには皺もない。
 離婚して一人で生活しているはずなのに、少しもくたびれた様子がなかった。
(若作りした元気なおじさん……だなぁ)
 なんだか痛々しく感じて思わず目を細めて見てしまった。
 老舗ホテルの一階にあるレストラン。通された席は窓側で、全面ガラス張りの窓からはライトアップされた英国風の庭が見える。金曜日の夜で、周囲は男女のカップルが多く、半分以上席は埋まっていた。
 オーソドックスなコース料理だったので、父親と仲良く注文を決めるなんて、面倒な交流をせずに済んで良かった。
「スーツ、似合ってる。いやぁ、大きくなったなぁ。七五三が、つい昨日のことのように感じるけど。スーツ着て仕事するような年になったんだね」
 感慨深い声で言われて、背中がぞわっとした。
「大きくって、会ったの三年前。そんな変わってないよ」
「機嫌悪いねぇ。急に呼び出して悪かったよ。それで、ミカさんに聞いたよ。芸能関係の仕事だって? パパに言えないような危ないことはしていないだろうね」
 両親揃って子供扱いだった。彼らにとって朔良は、いつまでたっても金持ちの家に生まれた世間知らずの息子なのかもしれない。
(世間一般の普通の父と子って、どういう感じなんだろう)
 思春期の多感な頃に、この面倒な父親と本音でぶつかっていたら、何か分かったのだろうか。本質的なところで、父親というものがよく分からない。分かりたいと思ったこともあるが、そもそも分かり合う前に出て行ってしまった。
 そのせいか父親に対して苦手意識ばかりが残っている。
 近い将来、父親の役をする機会があれば、困る気がした。――そこまで考えて頭を振った。
(いや、役者は、もう、僕には向いてないって分かってるよ。未練なんてないし!)
 父はワイングラスを傾けると、にこりと微笑んでくる。どれほど好意的に話しかけられても、やっぱり嫌いだった。何も知らないのに、朔良のことを全部分かったような目をするところが、馬鹿にされているように感じる。
「どうかした?」
「なんでもないよ。仕事は守秘義務があるから、話せない」
「守秘義務ねぇ。本当、芸能界は秘密と嘘ばっかりで、嫌になるよ。ミカさんも何にも話してくれなかったからなぁ」
「会社ならどこでも、守秘義務あるじゃん」
「少なくとも、僕は嘘を吐かないからなぁ、そこは芸能界と違うところだよ。あと僕は隠し事が苦手だし」
 昔を思い出しているようで、父は少し遠くを見つめていた。
「母さんにも言ったけど、危ないことはしてないから、心配いらない」
「そ、まぁ、仕事相手に監禁されてないって分かったから、安心したよ」
「監禁なんて、あり得ないよ」
「でも物騒な世の中だからね。親なんだから大事な息子の心配して当然だろう。――それにしても、僕の子だし、てっきり君は会社経営の道に進むと思ったんだけどなぁ。結局、芸能界かぁ、残念だよ」
 そう言って父は大袈裟に肩を落とした。
「経営ってなんで、僕、そんなの全然興味ないし」
「えーだって朔良、大学は経営学部受験したでしょう? 僕、すっごい嬉しかったんだけどなぁ。父の背中を見て育ってくれた! って」
「……出て行ったくせに。父の背中って」
「それは、それ。これはこれ。ミカさんのことも朔良のことも、今でも愛しているよ。ただねぇ、離婚については、人生に対するお互いの方向性の違い? かなぁ」
 社長だし世間一般的に見れば、常識のある大人のはずだ。それなのにバンドマンの解散理由みたいなことを言う。まったく理解できない宇宙人だった。
 嘘をつかないと言いながら、結局、父も嘘と秘密ばっかりだ。
 適当なことを言って、朔良には離婚の本当の理由を言わない。
 一度は、夫婦だった。けれど母が芸能界に戻って、しばらくして離婚した。朔良が知っているのは、それだけだ。――あの羽鳥が撮影した写真がきっかけで再ブレイクして、気持ちが離れなければ、二人は今も普通に夫婦だったんじゃないかって思う。もちろん写真のせいで不幸になったわけじゃない。むしろ父と母は離婚してからの方が、自分らしく生きて幸せそうにしている。
(じゃあ、僕は)
 身勝手な両親のせいで、二十歳を過ぎた大人なのに、いつまでも子供みたいな心の欠片が残っていて情けなかった。
 ――ずっと訊きたかったことがある。
 いい加減、大人になりたかった。
 いつまでも、もやもやしているのも嫌で、もう、これで最後という思いで伝えた。
「ねぇ、ずっと聞きたかったんだけど。僕の本当の父親って、崎田さんなの? 離婚理由もそれでしょう」
 やっと、言ってやった、と胸がすっとする思いがした。父はグラスを持ったまま、目を丸くしている。そして、赤ワインが入ったグラスをテーブルの上に置くと、両手をテーブルの下に下ろし、難しい顔をして朔良の目を見つめた。
 深刻にするつもりはなかったのに、少し後悔した。
「崎田って、ミカさんのマネージャーだった、あの崎田くん? 違うよ。え……そんなこと思ってたの朔良」
「だ、だって!」
「あのね、正真正銘、君は僕とミカさんの愛の結晶です。レストランじゃなかったら、抱きしめてあげるんだけど、え、どうする。場所変えてやり直す?」
「き、気持ち悪いな」
「なんで、そんな勘違いするのかなぁ。第一さ、君、僕に、すごい似てるじゃん顔」
「に、似てないよ。さ……崎田さんの方が……あの人料理上手いし、地味なこと好きだし、僕に似てて」
「それは知らないけど」
「知らないのかよ」
「だって、僕。崎田くん嫌いだもん。同級生だったんだけどさぁ、あいつ、昔から才能あるのに、全然努力しないし。そのくせ、ちょっと不良ぶってるから、あれでモテるんだよね。女の人ってどうして、ちょっと影のある男にコロっていくんだろうねぇ、僕の方が誠実なのに。昔から、おモテになって」
 完全に僻みだろう。なんだか、急に父が人間に見えた。さっきまで宇宙人だったのに。
「それに、崎田くんはゲイだからなぁ。彼は、今も昔も、僕とミカさんの友達だよ」
「は……?」
 突然の父の告白に頭が真っ白になった。
 本人の同意なしにアウティングするなんて、絶対に許されない行為だろう。
 けれど父は崎田を嫌いと言いながら、友人だとも言った。少しも悪意があるようには見えない。
 思えば、確かに崎田の近くで母以外の女の人を見たことがなかった。だからこそ朔良は、二人の仲を疑っていた。
 ただ崎田は、朔良の家によく顔を出していたが、それでも泊まってるのは見たことがない。――言うまでもなく、母親の部屋から出てきたこともなかった。
「これで安心したかい? 君が僕とミカさんの子だって」
「でも、さ、そういうの、人の秘密、勝手に言うのは駄目だと思うよ、僕。絶対……駄目だ」
 朔良がそう言うと、父は目を細めて笑った。
「僕は崎田くんより、朔良の方が大事だからね。それに彼だって、朔良がそんなことで深刻に悩んでいるって知ったら、言っていいって言うよ。碌でもない社会不適合者だけど、崎田くん、君のことずっと大事にして色々面倒みてくれただろう?」
「それは……うん」
「それに、朔良は誰かに秘密を言いふらしたりしないだろう。僕は、息子のこと信用しているからね」
 父はメリットとデメリットだけで生きているし、頭が良く回る男だ。衝動的に言ったように見えたが、ちゃんと考えていた。
 でも、父親の、そういう白黒思考で、すぐに決断するところが嫌いだった。自分は、父と違い、いつもぐずぐずと迷ってばかりで、同じところで足踏みしているから。
「しかしねぇ、いつから、そんな勘違いしてたの。あぁ、もっと早く言ってよ。普通に僕と似てるでしょ、顔とか、性格とか」
「全然似てない」
「似てるよ? 顔は若い時の僕そっくりだし。負けず嫌いで、努力家で猪突猛進なとことか」
「え? 僕、そんなとこないけど」
 父が言う性格は、自分で思っている性格と正反対に思えた。
「うーん正確には、演劇しているときの君の顔が、昔の僕に似ている、かな。……こっそり、よく見に行ったなぁ、朔良は演技上手だよね。そこはミカさんに、そっくり」
「僕、一回も父さん公演に呼んでないけど」
「ん、君の近くには、優秀なスパイがいるからね」
「スパイって……」
 父はニヤリと笑った。
 そう言えば公演のチケットを捌くのに苦労していたとき、何回か崎田に欲しいと言われたことがあった。
 朔良は父親にそんなふうに見られていたとは全然知らなかった。

 *

 食事が終わり、レストランを出ると、ホテルのロビーで父に手を握られた。
「なに……急に」
「何って握手だろ。さっき抱きしめてあげられなかったから」
「いらないよ、そんなの」
「そ? 朔良、芸能界の仕事がもし嫌になったら。僕のところにおいで」
「いい、です。絶対、嫌。親族経営なんてデメリットしかないよ」
「まぁ、それは確かにね。よく勉強しているね。とにかく、困ったことがあったら、いつでもいいなさい。といっても、お金……は君は困っていないだろうしねぇ、他に欲しい物ある?」
 父がそう言ったときだった、急に耳の横で風を切るような音が聞こえた。
 気付いたときには、父と朔良の間に人が割り込んでいる。
 ――そこにいたのは、朔良のよく知っている男だった。
「朔良、お金で他人を思い通りにするなんて、ろくな人間じゃないよ」
「な……ナツ。なんで、ここに」
「俺、朔良が心配だったから、ずっと外で見てた。昼から……様子変だったし」
「え、えぇ、見て、見てたの、ナツ。どこで」
 朔良の動揺をよそに、父は気にした様子はなかった。
「朔良のお友達かな? 僕も同意見だ。それは、脅迫で犯罪だからね。芸能界に限らず、お金で人を思い通りにする人間には、気をつけないといけないよ」
 ナツは、そう言った父を睨みつけると、朔良の腕を引いた。
「朔良、うちに帰ろう。その人と一緒に行っちゃ駄目」
「あ、う……うん、行かないけど」
 そのまま反論する間も無く、手首を掴まれて、ナツとホテルのエントランスを出た。

 ――多分、すごい勘違いをされている気がした。