そんな馬鹿な事もしながら一か月が経ち、ついに私が再び大楠山に登る日になった。もちろん出来ないんじゃないかという不安は消えない。それでも一か月間でやれるだけのトレーニングは積んだ。足にぴったりのトレッキングシューズも買った。可愛い登山用リュックも買った。ちなみに登山道具は神本くんに助言をもらいながら決めて、お金はお父さんにおねだりして出してもらった。思えばこれが半年以上ぶりにお父さんとまともにした会話だった。それはともかく出来る限りの準備はしてきたのだ。自信を持とう。
「さて、準備はいいか?」
 舗装されたコンクリートの道から、本格的な山道に入る境目で神本くんは私の方を見た。神本くんは上パーカーに下ジャージという組み合わせで、忍び装束を比べればいくらかまともな格好をしていた。ちなみに「自分一人ならば忍者服のまま登るところだった」と後から本人に聞いたときは開いた口が塞がらなかった。そして私はというと……、ここまで登り坂だったため既に息切れしていた。
「……止めておくか」
 神本くんは私の肩に手を置いて言った。
「勝手に諦めないでよ! 私だって一か月トレーニングしてきたんだもん。登れるよ」
「だが無理はするなよ」
「分かってる」
 言いながら私は土の地面へと足を踏み入れた。
その瞬間、まるで全く別の部屋にでも入ったかのように空気が変わるのが分かった。普段吸っている家の空気とはまるで違い、澄み切っていて張りがある。吸うたびに自分の意識が明瞭になっていくような感覚さえある。これが……山なんだ。私はこの時点で疲れていることも忘れてどこかハイになっていた。山頂で見た光景ほどインパクトは無いものの、半年以上ぶりに見た自然の景色は鮮やかで、心が洗われるような美しさだ。少し歩くと道端にアヤメに似た花が群生しているのを見つけた。
「わあ可愛い、あれ何の花だろう」
「あれはシャガだ。アヤメ科の花で普通は4月から5月に咲く花だが、最近温かかったから咲いたんだろう」
 嬉々としてスマホで写真を撮る私の横で神本くんが早口に解説してくれた。
「……詳しいんだね」
 すると神本くんはふんす、と息を漏らし、森のあちらこちらを指さし始めた。
「あれはオオシマザクラ、伊豆諸島に多く生えていて今が花盛りだ。そこに生えているのはクスノキ。この山には多く群生している。あと今鳴いて飛んで行った鳥はモズだな。可愛い顔をしているが獲物を串刺しにする習性を持ったえげつない奴。そして俺は忍者だ」
 最後のは言わないといけない決まりでもあるんだろうか。
「っていうか何でそんなに詳しいの? もしかして山オタ?」
「実は中一の頃、山籠もりをしたことがある」
 おっと、さらっと衝撃の過去を告白してきよった。そんな空手バカ一代みたいなことを現代にする奴なんて、うん、神本くんならやりかねないな。
「合計で二回やったんだが、一回目は間違って毒キノコを食べてしまってな。危うく死ぬところだったんだ」
「何か笑えそうだけど一切笑い事じゃない話だね」
「その経験から俺は山の植物や動物について調べに調べて詳しくなったというわけだ。死にたくなかったからな」
 この人の人生体験を聞いていたらもっと面白い話がたくさん出てくるんだろうなあ。石の橋を渡ってしばらく行くと、傾斜がきつくて幅の狭い階段が現れた。私は一度水分補給をして階段の上を見据えた。行くしか、ない。意を決した私は勢いよく足を踏みこんだ。……一段につき二度足を着きながら。それでも苦しくてちょっと進んだところで立ち止まってしまう。
「大丈夫か」
 後ろからぴったり着いてきていた神本くんがひょいと私のリュックを取り上げた。
「俺が持ってやる」
 トレーニング中はずっと鬼だと思っていたけど、こんな時に優しいのは何だか神本くんらしい。
「ありがとう」
 お礼を言って、深呼吸して、また一歩ずつ私は進んでいった。だけど、またしばらく進んだところで私は足に限界を感じ始めた。未だかつて感じたことのない疲労がふくらはぎ周辺を覆い、心臓はまるでネズミの走る足音のように早く脈打っている。でも、前に進まなきゃ。私は絶対にもう一度あの景色を見るんだ。
「座ろう」
 神本くんはまるで先ほどのリュックを担ぐように軽々と私を担ぎ上げ、その場の階段に座らせた。小鳥のさえずりと葉のかすれる音が光の降り注ぐ森を覆っている。
「今日は帰ろう」
「……」
 何か言葉を返したかったが息切れしすぎてそれも出来なかった。
「山登りで大事な事は山頂まで登りきることじゃない。無事に下山すること。生きて降りることだ」
「そんなこと、分かってる」
 本当はもっとやんわり返したかったんだけど、体力が限界だったせいで棘のある言葉になってしまった。しかし神本くんは意に介していないようだ。
「生きて帰ってもう一度チェスをしよう」
「一回もしたことないんだけど」
 あとその死亡フラグみたいな台詞言うのやめて欲しい。
「まあ今回登れなくても気にするな。次に登り切ればいいだけだ」
 そう言って私の肩をぽんぽんと叩いた。私は「まだ登りたい」とも「じゃあ降りよう」と言うでもなく、ただただ黙っていた。まだ結論を出したくなかったのだ。神本くんの言う理屈も分かるけどせっかくここまで来たんだ。そう簡単に諦められない。
「登ろう。休みながらならもう少し行けそうな気がするんだ。本当に駄目だと思ったら神本くんが止めてくれて構わないから」
 私はゆっくりと立ち上がり、言った。神本くんはしばらく座ったまま私の顔を見ていたが、やがて
「分かった」
 と短く言った。

 それから私たちは途中で何度も休憩を挟みながら登って行った。本来は山頂で食べる予定だったお弁当も途中で広げることになった。足はパンパンで、息切れは激しく、もう景色を楽しむ余裕なんて一切ない。それでも私は前進を止めなかった。後になって思うとどうしてあそこまで意地になっていたのか分からない。でも私だって一か月間トレーニングを積んできたんだ。絶対にできるはずだ。という根拠のない自信が私を動かしていたんじゃないかと思う。本当に無理だ、帰りたいと思っていた時唐突に神本くんの声が聞こえた。
「着いたぞ」
 俯きながらゆっくり登っていた私は勢いよく顔を上げる。

初めに目に飛び込んできたのは空だった。今まで森の木々で覆われていた頭上が開けたことで、一気に解放感のある青が広がった。視線のずっと先には街があるみたいだけど、以前のようにうまく見渡すことが出来ない。
「そうだ、展望台に登ればいいんだ」
 私は疲れているのも忘れて、近くにあった展望台へ向かった。
「お前、まだそんな力を隠し持っていたのか」
 まるでラスボスの第二形態に驚く子供みたいな反応をしている神本くんに気にせず、私は力を振り絞り、息を切らして展望台の一番上まで登り切った。あの時と同じように空は澄み切っている。視線の遠くに私の住む街と海は、まるで絵画を切り取ったみたいに現実感のない美しさだった。自然と涙が頬を伝っていく。何故だろう、以前見た景色と同じ場所のはずなのに、自分の足で登り切った山頂からの景色は何よりも別格に見えた。
「私、登り切ったんだ」