海に到着する頃には既に雲はまばらに散っていて、太陽は西に傾いていた。

「ここ、どこなの?」

「とある岬だ。ここだと本当は朝日の方が綺麗に見えるが、夕日も中々綺麗だぞ」

 海の方からは静かに波の音が響いてくる。広大な水を湛える水面は黒ずんだ夕焼けに染まって穏やかに揺れている。その上を海鳥が数羽鳴きながら飛んで行き、紫色の空には星が一つ光っている。その美しい光景に、私はただただ目を見張った。先ほどまで追手に追いつかれるのではないかという焦燥感を感じていたのが嘘のようだ。

 今はただ寄せて返す波のように私の心は凪いでいた。私は神本くんと話しながら波打ち際まで歩いて行った。



「神本くんは逃げないの? このまま捕まったら多分東京湾辺りに沈められることになるよ?」

 しかし神本くんには怯えたり動揺する素振りは一切見せない。

「何を今更。俺はヤクザに追われることは慣れている」

 慣れているのもどうかと思うけど。そういえば最初に彼と会った時もヤクザに追われていたっけ。ふかふかした砂を一歩一歩進んでいき、波打ち際までたどり着いた。やっとここまで来た。静かに揺蕩う水面を見ていると今まで抑えつけていた思いが次々にあふれ出してきた。



 幼稚園の頃、宇宙飛行士になりたいと言ったら叱られ、お前にはできないと言われた事。反発したけれど、結局諦めてしまった事。一緒に遊ぶ友達も、習いごとも、そして結婚相手まで全て親に決められて、私からやりたいと言ってやらせてくれたものはほとんど一つもない事。「おしとやかになりなさい」「一条家の娘として恥ずかしくない女になりなさい」「本音は隠して建前で生きなさい」と言われ続け、ついに建前で塗り固められた自分になってしまった事。

 本当はそれが嫌で嫌で仕方なかった事。たまに反発すると怒られて辛くて泣いたこと。そして徐々に自分の本当の心さえ分からなくなっていた事。自分が空っぽになっていくような感覚を感じていた事。そんな時、私の閉そく感をぶち壊してくれた人がいる。神本くんといるとアホすぎて怒ったりすることもあるし、笑っちゃうこともあるけれど、自然と素の私を出せる気がした。

 どんどん本当の私の気持ちを偽れなくなっていった。彼は本当に不思議な人。本当に忍者なのかも。



「居たぞ!」

「忍者野郎も一緒にいるぞ!」

 後ろから物々しい声が聞こえた。振り返ると黒服の男たちの他に久保さん、そしてお父さんの顔も確認できる。神本くんはお父さんたちから私を隠すように立ち、構えた。それに警戒したのか男たちは一定以上の距離からは近づいてこない。

「清花、早くしろ。叫びたい言葉があるんだろう」

 私は海の方に向き直る。そうだ、ずっと叫びたかった事がある。声に出して言いたかった事がある。言いたかったけれど遠慮して言えなかったことがある。気を遣って出来なかった事がある。本当は嫌だけど、我慢して言わなかった事がある。他の人に迷惑だからと耐えていた事がある。



 私は叫ぶために来たんだ。今まで溜まっていた怒りを、悲しみを、この言葉に乗せて叫ぶために。自分の中で自由を宣言するために。

 私は肺が痛くなるほど大きく息を吸い込み、一気に叫んだ。せーのっ!
















「ウンコオオオオオオオオオオオ!!!!!」
















 私たち以外誰も居ない海岸で私の†ウンコ†は地鳴りのように響いた。つい先ほどまで殺気立っていた男たちは急に沈黙する。私の叫び(ウンコ)よ、地平の果てまで届け。これが私の、自由の叫びなんだ。私が砂浜の方に振り向くとみんなキョトンとしていた。久保さんだけが閻魔様から地獄行きを告げられた死人のような顔をしていたけれど。



「えっ、お前の叫びたい事ってそれだったのか」

 やや間を置いて神本くんが私の方を振り返って言った。

「神本くんも一緒に叫びましょう?」

「止めろ。俺を道連れにしようとするな」

 その時、動きを止めていた男たちがじわじわとこちらに近づいて来た。神本くんは腰を低くして臨戦態勢に入る。私はそんな彼の横に立ち、言った。

「下がりなさい」

 自分でも驚くほど低い声が出た。本当の声量を抑えているようで、膨大な声量を抑えきれていないような、そんな威圧的な声だった。



「はい」

 その証左であるかのように何故か敬語になる神本くん。

「神本くん、そのまま逃げて」

「だが」

「貴方のお陰でもう大丈夫。心配しないで」

 私は神本くんを安心させようと満面の笑みで微笑みかけた。私の表情をまじまじと見ていた彼は、やがて何かを悟ったように頷いた。

「心得た」

 その言葉とともに神本くんは砂浜を一直線に走り去っていった。男たちもそれを追っているけれど、彼に追いつくことは不可能だろう。今立っているのは私とお父さんと久保さんの三人だけになった。



「清花、どういうつもりだ」

 お父さんが私の方に進んできて言った。その顔は厳しく張りつめていて、今にも怒りで爆発しそうだ。さっきまでの私だったら、どうにかその怒りを収めようと謝っただろう。けれど今は違う。大丈夫。ウンコと叫んだ私は無敵。今なら本当の気持ちを伝えられる。私はキッとお父さんを見据えた。するとお父さんは目を見開き、何かに気付いたように口を開いた。そして何故か少し笑ったようにも見えたけれど直ぐに険しい表情に戻った。

「お前は自分が何をしたか分かっているのか」

 お父さんはもう一度厳しく追及するように言った。私は息を大きく吸い込み、お腹から声を噴き上げるように、毅然として言った。

「婚約を破棄させてください」