私が会場に足を踏み入れた途端、参加者たちから「おおっ」という歓声が聞こえた。私の姿を褒めてくれているつもりなのだろうけれど、それも今は嬉しくない。
会場を見渡すとかなりの数の人がいる。百人以上、いや二百人近くはいるかもしれない。嫌だな、この人たち全員に私の婚約を発表することになるのか。
「清花ちゃん綺麗になったなあ」
「婚約おめでとう」
「羨ましいわ」
見知った人たちが次々に祝福の言葉を掛けてくれる。
けれど私は「ありがとうございます」と引きつった愛想笑いで返すのが精いっぱいだった。もっと上手に愛想笑い出来ていたはずなのに。自分の心を偽りづらくなったのは神本くんのせいだ。そうだ、神本くん。彼ならどこかに潜んでいるのではないかとあらぬ期待をしてしまうけれど、もちろん居ない。むしろ居たら殺されてしまうのだから居ては困る。先ほども会場の外でも黒いスーツを着込んだガタイの良い男たちが何人も立っているのを見た。もし神本くんが忍び込んできたら立ちどころに捕まってしまうだろう。
「一条さん」
呼ばれた方を見ると金山がいた。しかしどういうわけだろうか。その声はいつもの耳障りな甲高いそれとは違って、低く掠れるようなトーンだ。表情はとてもバツが悪そうである。
「どうされましたの?」
「あの、神本さんの件なのですけれど、ごめんなさい。私が一条さんのお父様に話してしまったばかりに、その、お叱りを受けたのでしょう?」
金山は申し訳なさそうに頭を下げた。あら、この子謝れる人なんだ。心底意外である。そもそも悪意があったのではないのは分かっているので、そもそも金山に対して怒りの感情は無い。
「いいの。元から気にしていませんわ」
金山の表情がパッと明るくなる。そして私の手を握り
「また食事会に行きましょうね」
と言った。もしかしたら金山は根から腐った女ではないのかもしれない。しかしそれが分かったところで今まで通り彼女との関係を続けられるかどうかは不確かだ。あんなに鬱陶しかった金山との予定だったけれど、今はそれさえ悲しいと感じる。
「えー、みなさん」
ステージの方からスピーカーを通した男の声がした。見ると蝶ネクタイを付けた男性がマイクを持って立っている。どうやら司会進行役の方らしい。
「本日はお忙しい中、久保、一条両家の親睦会にお集まりいただきましてありがとうございます」
何気なく聞いていた私はここでとてつもなく不穏な物を発見した。台車に乗せられた巨大な、人の身長を超えるようなケーキが舞台の方に向かって運ばれて行っているのだ。あれは……もしかして……。
「なお、この式では久保健斗様並びに一条清花様の婚約をお披露目する意味もございます。そこで! お二人には結婚式より一足先にケーキ入刀の予行演習をしてもらいましょう」
回りから笑い声の混じった歓声と拍手が起こる。え? 何それ私聞いてない。聞いていたら流石に絶対に「嫌だ」と意見くらいはしたかもしれない。
「それではご両名にはステージ上に来ていただきましょう。皆さん、盛大な拍手でお迎えください」
周りから起こる拍手の音がひと際大きくなる。人々の期待が大きすぎる。逃げられない。それに追い打ちをかけるように久保さんが私の手を握った。
「さ、一緒に行こう」
私たちの手が繋がれたことでひと際歓声が大きくなる。
「二人ともお似合いだよ!」
「綺麗!」
「幸せになるんだよー!」
もう完全に結婚式の雰囲気だ。久保さんに手を引かれながら進んでいく。私は意志を持たぬ人形のように後をついて行くだけだ。ステージに上がる。私は自分の心が抜け殻のように空っぽになっていくように感じた。自然と涙が頬を伝う。
「さあ清花ちゃんもウェディングケーキナイフを握って」
久保さんは私と並ぶように立ち、ナイフの柄を私にも持つよう促した。みんなから期待されている。スマホで写真撮影している人たちがたくさんいる。祝福の笑顔を送ってくれる人もたくさんいる。私にもらい泣きしている人だっている。違う、私は嬉しくて泣いているんじゃない。このケーキにナイフを入れた時が、私の自由が終わるときだと分かっているからだ。
「それではケーキ入刀いってみましょう!」
司会の声がして、私たちがナイフを振り上げたその時だった。何かが爆発したような音が入り口から響いた。
同時に会場の扉が弾かれたように開く。開いた扉から警備の男たちが勢いよく転がってくる。まるで力士の突進を食らったかのようだ。
後ろから、にわかに黒い影が進み出た。こちらへ駆けてくる。全身を黒で覆われた何かが低い体勢で一直線に。まるで吹き付ける突風のように、暴力的で速やかに。それはギラリと光る眼で私を捕捉した。
「か、神本くん!?」
忍び装束を着ているので顔は分からない。けれどこんなところに忍者のコスプレをして、尚且つ強行突破してくるような奴は世界広しと言えど彼しかいない。何で彼がこの会場の位置を知っているんだろう、というのは考えるまでもなく答えが出ていた。幸枝だ。彼女がこの場所を教えない限り神本くんがここに来ることは出来ない。私は会場の端にいた幸枝を半ば睨みつけた。彼女はパンケーキを頬張り、口元からボロボロこぼしながら私を見て笑っている。あのサイコパンケーキ女め!
「絶対に捕まえろぉ!」
お父さんの声で意識が神本くんに戻る。会場内に居た警備員たちも彼を捕えようと掴みかかっていく。しかしただでさえ獰猛に突進する上、俊敏に飛び跳ねては方向を変える神本くんを誰も捕まえられない。まるで忍者のようだ。会場内は大混乱に陥った。
「く、来るなぁ!」
掠れた声で言う久保さんの腰は引けまくっている。うわぁ、さっき控室であんなにイキってたのに、なっさけな。……おや、この展開デジャヴじゃない? と思っていると突然、彼は持っていたウェディングケーキナイフを投げつけた。他の人に当たったらどうするんだ! この馬鹿!
しかし飛んできたナイフを平然と鷲掴みにする神本くん。
う、うわああああああ! と悲鳴を上げてチキンはその場に腰を抜かして倒れてしまった。私はこんな男と結婚する予定だったのか。忍者の顔が確認できるまでに近づいたその時、気づく。彼は一切スピードを緩める気配が無い。このままだとステージの壁に猛スピードで衝突してしまう。
「清花」
神本くんが短く叫んだ。
「な、何!?」
「止めてくれ」
「無理に決まってるでしょ!」
この展開もデジャヴだ。その時、神本くんが何かにつまづいた。転げまいとバタバタ走っていた彼はステージの段でもう一度つまづいた。たっぷりスピードの乗っていた彼の頭は地面に、足は跳ね上がって彼の身体は宙に浮いた。
そして鬼のような運動エネルギーを持った忍者はウエディングケーキにぶっ刺さり、入刀された彼はケーキもろとも勢いよくすっ転がった。
……ウエディングケーキに忍者が入刀されよった。
食器棚に収まっていた皿が一気に割れたかのような甲高い音が響く。悲鳴と怒号が飛び交っていた会場が一瞬静まり返った。しばらくしても神本くんは起き上がってくる気配が無い。冷静に考えればあのスピードで転んで無事でいられるわけがない。それに私の視界からはぐちゃぐちゃになったケーキしか見えない。
「だ、大丈夫?」
返事は無い。ただの屍のようだ……と思いきや、突然ケーキの中から白い物体が飛び出してきた。忍者というよりケーキのバケモノみたいだ。それは襲い掛かるような勢いで向かってきて、私を抱き上げた。
「ちょっと神本くん! どうする気なの!?」
「約束を果たしに来た」
……え? 約束? 私が何の約束なのかを思い出す間もなく、彼は開いていた窓へと猛然と走り出し、そのまま会場の外へ私を抱えたまま飛び出したのだった。
会場を見渡すとかなりの数の人がいる。百人以上、いや二百人近くはいるかもしれない。嫌だな、この人たち全員に私の婚約を発表することになるのか。
「清花ちゃん綺麗になったなあ」
「婚約おめでとう」
「羨ましいわ」
見知った人たちが次々に祝福の言葉を掛けてくれる。
けれど私は「ありがとうございます」と引きつった愛想笑いで返すのが精いっぱいだった。もっと上手に愛想笑い出来ていたはずなのに。自分の心を偽りづらくなったのは神本くんのせいだ。そうだ、神本くん。彼ならどこかに潜んでいるのではないかとあらぬ期待をしてしまうけれど、もちろん居ない。むしろ居たら殺されてしまうのだから居ては困る。先ほども会場の外でも黒いスーツを着込んだガタイの良い男たちが何人も立っているのを見た。もし神本くんが忍び込んできたら立ちどころに捕まってしまうだろう。
「一条さん」
呼ばれた方を見ると金山がいた。しかしどういうわけだろうか。その声はいつもの耳障りな甲高いそれとは違って、低く掠れるようなトーンだ。表情はとてもバツが悪そうである。
「どうされましたの?」
「あの、神本さんの件なのですけれど、ごめんなさい。私が一条さんのお父様に話してしまったばかりに、その、お叱りを受けたのでしょう?」
金山は申し訳なさそうに頭を下げた。あら、この子謝れる人なんだ。心底意外である。そもそも悪意があったのではないのは分かっているので、そもそも金山に対して怒りの感情は無い。
「いいの。元から気にしていませんわ」
金山の表情がパッと明るくなる。そして私の手を握り
「また食事会に行きましょうね」
と言った。もしかしたら金山は根から腐った女ではないのかもしれない。しかしそれが分かったところで今まで通り彼女との関係を続けられるかどうかは不確かだ。あんなに鬱陶しかった金山との予定だったけれど、今はそれさえ悲しいと感じる。
「えー、みなさん」
ステージの方からスピーカーを通した男の声がした。見ると蝶ネクタイを付けた男性がマイクを持って立っている。どうやら司会進行役の方らしい。
「本日はお忙しい中、久保、一条両家の親睦会にお集まりいただきましてありがとうございます」
何気なく聞いていた私はここでとてつもなく不穏な物を発見した。台車に乗せられた巨大な、人の身長を超えるようなケーキが舞台の方に向かって運ばれて行っているのだ。あれは……もしかして……。
「なお、この式では久保健斗様並びに一条清花様の婚約をお披露目する意味もございます。そこで! お二人には結婚式より一足先にケーキ入刀の予行演習をしてもらいましょう」
回りから笑い声の混じった歓声と拍手が起こる。え? 何それ私聞いてない。聞いていたら流石に絶対に「嫌だ」と意見くらいはしたかもしれない。
「それではご両名にはステージ上に来ていただきましょう。皆さん、盛大な拍手でお迎えください」
周りから起こる拍手の音がひと際大きくなる。人々の期待が大きすぎる。逃げられない。それに追い打ちをかけるように久保さんが私の手を握った。
「さ、一緒に行こう」
私たちの手が繋がれたことでひと際歓声が大きくなる。
「二人ともお似合いだよ!」
「綺麗!」
「幸せになるんだよー!」
もう完全に結婚式の雰囲気だ。久保さんに手を引かれながら進んでいく。私は意志を持たぬ人形のように後をついて行くだけだ。ステージに上がる。私は自分の心が抜け殻のように空っぽになっていくように感じた。自然と涙が頬を伝う。
「さあ清花ちゃんもウェディングケーキナイフを握って」
久保さんは私と並ぶように立ち、ナイフの柄を私にも持つよう促した。みんなから期待されている。スマホで写真撮影している人たちがたくさんいる。祝福の笑顔を送ってくれる人もたくさんいる。私にもらい泣きしている人だっている。違う、私は嬉しくて泣いているんじゃない。このケーキにナイフを入れた時が、私の自由が終わるときだと分かっているからだ。
「それではケーキ入刀いってみましょう!」
司会の声がして、私たちがナイフを振り上げたその時だった。何かが爆発したような音が入り口から響いた。
同時に会場の扉が弾かれたように開く。開いた扉から警備の男たちが勢いよく転がってくる。まるで力士の突進を食らったかのようだ。
後ろから、にわかに黒い影が進み出た。こちらへ駆けてくる。全身を黒で覆われた何かが低い体勢で一直線に。まるで吹き付ける突風のように、暴力的で速やかに。それはギラリと光る眼で私を捕捉した。
「か、神本くん!?」
忍び装束を着ているので顔は分からない。けれどこんなところに忍者のコスプレをして、尚且つ強行突破してくるような奴は世界広しと言えど彼しかいない。何で彼がこの会場の位置を知っているんだろう、というのは考えるまでもなく答えが出ていた。幸枝だ。彼女がこの場所を教えない限り神本くんがここに来ることは出来ない。私は会場の端にいた幸枝を半ば睨みつけた。彼女はパンケーキを頬張り、口元からボロボロこぼしながら私を見て笑っている。あのサイコパンケーキ女め!
「絶対に捕まえろぉ!」
お父さんの声で意識が神本くんに戻る。会場内に居た警備員たちも彼を捕えようと掴みかかっていく。しかしただでさえ獰猛に突進する上、俊敏に飛び跳ねては方向を変える神本くんを誰も捕まえられない。まるで忍者のようだ。会場内は大混乱に陥った。
「く、来るなぁ!」
掠れた声で言う久保さんの腰は引けまくっている。うわぁ、さっき控室であんなにイキってたのに、なっさけな。……おや、この展開デジャヴじゃない? と思っていると突然、彼は持っていたウェディングケーキナイフを投げつけた。他の人に当たったらどうするんだ! この馬鹿!
しかし飛んできたナイフを平然と鷲掴みにする神本くん。
う、うわああああああ! と悲鳴を上げてチキンはその場に腰を抜かして倒れてしまった。私はこんな男と結婚する予定だったのか。忍者の顔が確認できるまでに近づいたその時、気づく。彼は一切スピードを緩める気配が無い。このままだとステージの壁に猛スピードで衝突してしまう。
「清花」
神本くんが短く叫んだ。
「な、何!?」
「止めてくれ」
「無理に決まってるでしょ!」
この展開もデジャヴだ。その時、神本くんが何かにつまづいた。転げまいとバタバタ走っていた彼はステージの段でもう一度つまづいた。たっぷりスピードの乗っていた彼の頭は地面に、足は跳ね上がって彼の身体は宙に浮いた。
そして鬼のような運動エネルギーを持った忍者はウエディングケーキにぶっ刺さり、入刀された彼はケーキもろとも勢いよくすっ転がった。
……ウエディングケーキに忍者が入刀されよった。
食器棚に収まっていた皿が一気に割れたかのような甲高い音が響く。悲鳴と怒号が飛び交っていた会場が一瞬静まり返った。しばらくしても神本くんは起き上がってくる気配が無い。冷静に考えればあのスピードで転んで無事でいられるわけがない。それに私の視界からはぐちゃぐちゃになったケーキしか見えない。
「だ、大丈夫?」
返事は無い。ただの屍のようだ……と思いきや、突然ケーキの中から白い物体が飛び出してきた。忍者というよりケーキのバケモノみたいだ。それは襲い掛かるような勢いで向かってきて、私を抱き上げた。
「ちょっと神本くん! どうする気なの!?」
「約束を果たしに来た」
……え? 約束? 私が何の約束なのかを思い出す間もなく、彼は開いていた窓へと猛然と走り出し、そのまま会場の外へ私を抱えたまま飛び出したのだった。