私はどうしたらいいのか分からず、茫然としたまま自室に戻った。

「お嬢様……」

 部屋の中には幸枝がいて、駆け寄って私を抱きしめてくれた。私の中で堰が切れたように涙が溢れてきた。お父さんに聞こえないように、声を立てないように、幸枝の肩に顔を押し当てて泣き続けた。

「どうしよう、幸枝……このままだと結婚が確定してしまう。それに、神本くんが……」

「ええ、ええ」

 私の背中をさすりながら幸枝も泣いていた。私が落ち込んでいるときはいつでも幸枝は励ましてくれた。愚痴を聞いてくれた。そして、こんな風に一緒に泣いてくれた。この存在がもうすぐいなくなってしまう事実が余計に私の涙の量を増やしていた。

「お嬢様……私、悲しいです。だって……」

 幸枝は暫く嗚咽をこらえていたが、やがて喋り始めた。

「ハクに覚えさせる言葉を失敗してしまいました!」

 あれ!? この人私の思ってたのと全然違う理由で泣いてる! こんな時にめっちゃどうでもいい失敗のせいで泣いてる! 私から離れた幸枝はハクのところへ行って鳥かごを縋るように持った。

「私が居なくてもお嬢様が寂しくないよう『お嬢様、元気を出してください』と『お嬢様なら大丈夫です』の二語を覚えさせようとしたのです。ところが……」

 ハクがバサバサと翼を羽ばたかせ始めた。

「オジョウサマ ニンゲン タベテクダサイ!」

 どうしてこうなった! 励ますどころか私に食人鬼への道を歩ませようとしているじゃない。と思っているとまた喋った。

「ニンジンサマ ナラ カボチャ デス!」

 どっちなのよ! しかし私のしらけた反応とは正反対に幸枝はその場に泣き崩れた。

「もう悲しくて悲しくて!」

 どうでもいいわ! 

「そんな事より聞いて。このままだと神本くんが……!」

「その前に私の悲しんでいる原因をもう一つ聞いてください」

「まだあるの!?」

「饅頭の話なんですけど」

「却下! そんな事より聞いて、幸枝。再来週の土曜日、私は神本くんと海に行く約束をしたの」

「あら、素敵じゃないですか」

「そうじゃないの!」

 私は幸枝に事情を話した。再来週の土曜日、久保家との親睦会があること。そこには両家の知り合い、有力者が集い、事実上の婚約お披露目会であること。そしてもし今後少しでも神本くんが私に近づいたら消される可能性が高いこと。

「だから幸枝。神本くんに連絡してほしいの。『再来週の土曜日は外せない予定があるので海に行けなくなりました。ごめんなさい。それから貴方とはもう会えなくなりました。今後私に近づくようなことがあったら身に危険が及びます。絶対に近づかないでください』と」

「んー、でもそんなメッセージを送ったら鉄ちゃんに嫌われちゃうんじゃないですか?」

「嫌われていいの! 神本くんが殺されるよりマシよ」

 そう言いながらも私の心はチクチクと痛んでいた。せっかく仲良くなったのに。せっかく素で話せる友達ができたと思ったのに。せっかく、もっともっと一緒に遊びたいと思ったのに。幸枝は何故かいつものようにすぐ了承せず、ずっと私の目を見つめていた。けれど最後には頭を下げ

「かしこまりました」

 と言った。

「しかしお嬢様。その親睦会というかパーティーには出席なさるんですか? このままだと、あの好きでもない、むしろ遠慮したい感じの久保の坊やと一緒になることが決定づけられてしまいますよ?」

「仕方ないじゃない。他にどうしろって言うのよ」

 私は語気を強めていった。少し八つ当たりするような言い方になってしまった。けれど、今の私は色んなものを一気に諦めなければならなくなっていて、他人に気を遣う余裕なんて無かった。神本くんも、幸枝も、そして自由も、かけがえのない全ての物が私の手から零れ落ちていく気がした。

「諦めないでください、お嬢様。まだ結婚が決まったわけじゃありませんよ。だってお嬢様には無限の可能性があるんですから」

 私は溜息を付いた。

「またその話? 貴女の言う通り私にカリスマ性があったとしてもこればかりは覆せない。無理なのよ」

「いいえ、清花お嬢様。貴女には計り知れない力があります」

 幸枝は鳥かごの中のヨウムを見つめながら続ける。

「そう、お嬢様を例えるならば鳥かごに囚われたダチョウ」

「そこヨウムじゃないのね」

「私はお嬢様のお父さん、当主様を尊敬いたしております。私のお見合い相手も当主様が紹介してくださいました……。ですが、当主様はお嬢様というダチョウを鳥かごで飼おうとしていらっしゃる」

「頑なに私をダチョウ扱いするの止めてくれない?」

「そう、鳥かごでダチョウを飼う事など出来ないのです」

「何に対しての『そう』なの?」

「お嬢様はいずれ自分の力で鳥かごをこじ開け、大空へ飛び立って行かれることを信じているのです」

「ダチョウ、飛べないわよ?」

 幸枝と話して気持ちが少しづつ落ち着いて来た。その私の心を、今度はじんわりと一つの感情が覆い始めた。諦めである。この大きな企業同士が決めた大きな流れに私が逆らえるはずがないじゃない。神本くんとの出会いは強烈で新鮮だったけれど、やがて色あせていくことになるだろう。そう、諦めるしかないのだ。

「とにかく、神本くんにはちゃんとキャンセルしておいてね」