ガソリンスタンドや飲食店が一瞬で過ぎ去っていく。道端の街灯も近づいては視界から消え、また近づいては目の先から消えていく。街の景色は車に乗って見ていても同じ景色だけれど、バイクは車みたいに視界が遮られていないおかげで凄い臨場感がある。私には生身で車道の真ん中に居るという事実がとても不思議なことに感じられた。右を見ても左を見ても、そして神本くんの背中から顔を出して前を見ても、視界は全方位に開けている。こんな爽快感を今まで味わったことがあるだろうか。

 赤信号でバイクが止まる。好奇心に駆られていた私は落ち着きなく見回した。こんな夜でも笑いながら歩道を歩く人たちや泥酔して大声を上げる人も目に入る。こんな時間まで起きていて眠くならないんだろうか。私みたいに家出したのかな、なんてね。



 一本の光の線となって消えていくネオン街の光、夜風を浴びて冷たく凍えそうな手の感触、ごうごうと吹き付けるバイクの風切り音。今見えている物や景色、そして今感じている全ての感覚が新鮮に映った。この体験を幸枝にもさせてあげたいな。バイクの後ろに乗れと命じたら彼女は何と言うかしら。最初は怖がるかもしれない。だけどきっと喜ぶわ。だって彼女はクレイジーだもの。そうやって幸枝の事を考えているとまた涙がぶり返してきた。まだ別れているわけでもないのに、どうしてこんなに辛いんだろう。

 しばらく走ると車の通りもすくなくなってきた。私は少し不安になる。暗いせいもあって今どのあたりを走っているのか分からない。一度鼻水を啜ってから神本くんに聞いてみた。

「ねえ、どこに行くの」

 私はバイクの音に負けないように、やや声を張って言った。しかし神本くんは答えない。

「ねえ、どこに行くのよ」

 今度はそれなりに大声で聞いてみた。

「何だって」

 声自体は届いているけれど、神本くんには何と言っているかは聞き取れなかったらみたいだ。私は目いっぱい息を吸い込んで叫んだ。

「これからどこに行くの!」

「ミネソタ味噌汁?」

「そんな事言ってないわよ! 何よそれ!」

「すまん、もっと大きな声で言ってくれないと音がうるさくて聞こえない」

 そんな事を言われても、私はちゃんと大声を出している。こんな大声を出してもコミュニケーションが取れないなんてバイクは不便な乗り物だ。

「例えるならこれくらい大きな声で叫べ」

 そう言って神本くんは大きく息を吸い込んだ。何故分かったかと言うと、私が手をまわしている神本くんのお腹がにわかに膨らんだからだ。

「I am a pen !」

 彼は大声とともに謎の台詞を吐き出した。それは対向車線の車の中にいても聞き取れそうなほど、よく通る声だった。いやそれよりも私はペンですって何よ。忍者じゃなかったのか。不意打ちを食らった私はおかしくて吹き出してしまった。神本くんは構わず叫び続ける。

「私の親戚はアブラゼミです」

「足の裏から頻繁にキノコが生えます」

「トーマスはタクアンの里に帰りました」

 何か英語の例文みたいだけど一切意味が分からない。それが私のツボにはまってしまったらしくて、笑いが止まらなくなった。本当に久しぶりに私は声を上げて笑った。腹筋が痛くなるくらいだった。静かに笑いなさいと言われ続けてきて、もう大声で笑う事の出来ない身体になってしまっているんだと思っていたので自分の身体の変化は驚きだった。

「お前も叫んでみろ」

「やだよ」

 私は笑いながらどうにか返答した。

「いいから。お前の今叫びたい事を叫んでみろ。スッキリするぞ」

「恥ずかしいよ」

「バイクの上だから大丈夫だ。どうせ誰にも聞こえない。聞こえてもお前はフルフェイスを被っているから、誰なのかも分からない」

 ああこのヘルメット、フルフェイスっていう名前なのか。家を出るまでの私だったら絶対に叫んだりしなかっただろう。けれど今は違う。叫びたい。私の中に渦巻いている負の感情をぶちまけたい。私はゆっくり、大きく肺に息をため込んで、叫んだ。

「幸枝のバカ!」

「その調子だ」

 神本くんが愉快そう(当社比)な声で言った。

「幸枝の人でなし!」

「私を一人にしないでよ!」

「貴方がいなくなったら寂しいんだから!」

「もう私と一緒に泣いてくれないの?」

「行かないでよ! ずっと一緒に居てよ!」

「どうして今なの? せめて私が卒業するまで待ってくれたっていいじゃないの!」

 そしてもう一度大きく息を吸い込んで、もう一度叫ぶ。

「幸せにならないと許さないんだから!!」

 自分でもびっくりするくらい大きな声で泣き叫んだ。私、こんな大声が出せたんだ。そう思うのと同時に心の中がとてもスッキリした気がした。心の底に溜まったドロドロしたものを吐き出したような気分だった。

「もっと叫べ」

 神本くんが催促する。次は、そうだな……。

「お父さんのバカ!」

「はい、父の主食はテニスボールです」

 今度は神本くんも一緒に叫んできた。合いの手みたいに意味不明な事を叫ぶのはやめて欲しいけれど、私も負けないように大声を出す。

「私、もっと遊びたいの!」

「私の彼氏は一年間ガラス戸に挟まりっぱなしです」

「自由になりたーい!」

「昨日噛みついていたイソギンチャクが取れました」

 何これ。本当に何これ。私はまたツボに入って笑いが止まらなくなってしまった。そして私の大きな笑い声を乗せて、神本くんのバイクは夜道を疾走していくのだった。