乗馬クラブに来た私たちは、乗馬用の装備に着替え、馬舎の前で神本くんが来るのを待っていた。そう。「馬と心を通わせることができる」という彼のパフォーマンスを見せてもらうためである。本当は百貨店でそのまま神本くんと別れようとも思った。何せ神本くんが超の付くポンコツだと分かってしまったからだ。あんなミスは耳にチクワを仕込んだ幼児にも真似出来ないだろう。

 だけどせっかく貴重な休日を使って神本くんを雇ったのだ。やれることはやってもらわないと気が済まない。……まあ、やるだけ無駄なような気もしているけれど。自然と溜息が出てくる。すると幸枝がクスクス笑い始めた。

「何がおかしいの?」

「いえ、ちょっと先ほどの鉄ちゃんの件で」

「何?」

「お嬢様が人前で声を張り上げることなんて幼稚園以来無かったことですから。とても懐かしい気持ちになってしまいまして」

 言われてみれば確かにそうだ。

 幼稚園の頃は保育士さんたちを困らせるようなやんちゃさを発揮していた私。その頃から身体が大きかったというのもあって、同級生たちの先頭に立って悪さをしていることが多かった。だけど悪さをするたびにお父さんに叱られて叩かれて、「お前は一条家の娘として相応しい行動を身につけなさい」と言われ続けて……小学校に上がる頃にはすっかり大人しい子どもへとジョブチェンジしていた。自分の生い立ちや置かれている立場を理解した結果かもしれない。

「もう人前で『素』のお嬢様を見る機会なんて無いかもしれないと思っていましたが、鉄ちゃんが引っ張り出してくれたみたいですね」

 いや、まるで神本くんのおかげみたいな言い方は止めてくれないだろうか。彼があまりにも非常識な行動を取ったから我慢できずに大声を出しただけだ。みんなの注目の的になっていて本当に恥ずかしかったんだから。……けれど大声を出して少しスッキリしたのは事実だ。だって大声を出すことなんて普段無いんだもの。

「待たせたな」

 私が物思いにふけっていると神本くんが大股でこちらに歩いて来た。

「もう一度聞くのだけれど、貴方は本当に馬と心を通わせることが出来るのかしら」

「もちろんだ」

 神本くんは即答する。

「俺は小学生のとき、牧場の仕事をしたことがある」

 そう言って彼は思い出を語り始めた。



 小学三年生の夏休み、神本くんは忍者ならば馬に乗れなければならないと師匠から言われた。そこで近くの馬術クラブに泊まり込みで乗馬の練習兼馬の世話をしに行っていたのだそうだ。初めは馬から噛まれることもあって挫けそうだったらしいが、朝昼晩、寝る時でさえ馬と一緒に過ごし、どんどん馬との信頼関係が築かれていったという。来る日も来る日も馬と向かい合う毎日。そしてついに夏休みの終わりごろに馬の気持ちを読み取ることが出来るようになったという。



「精神を研ぎ澄ませろ。馬と一体になる感覚を感じろ。こちらから心を開けば必ず向こうからも心を開いてくれる。そう、人馬一体なんだ」

 神本くんはそう語った。そこまで力説されると期待しないではいられない。ひょっとしたらお座りやお手をする馬を見ることが出来るかもしれない。

「お嬢様、係の方からお馬さんを出してもらって来ました」

 私が神本くんの話を聞いている間に幸枝が黒い馬を引いて来た。激しく首を上下に振りながらこちらに向かってくる。心なしか足回りも太くて身体も大きいような……。

「ねえ幸枝、この馬は……」

「ばん馬です」

 ばん馬といえば農耕用の重種馬だ。今はレースに使用されていると聞くけれど、役目を終えて引き取られてきたのだろうか。

「この馬大丈夫なの? 中々気が荒そうだけれど」

「確かに多少気は荒いみたいですけど、鉄ちゃんなら手懐けられると思って」

「大丈夫だ。さっき言ったように俺は馬と心を通わせることが出来る。そう、気性の荒い奴だったとしても」

 そう言って馬の首を撫でていた神本くんの手にがっぷり馬が噛みついた。タッチアンドゴーである。

「あ、あの、神本くん?」

 しかし神本くんは動じず言った。

「ほらな」

 何が!? 思いっきり噛まれてるよ!

 一切表情を変えない神本くんだが、あのサイズの馬に噛まれたら相当痛いはずだ。「馬と心を通わせることが出来る」とかドヤ顔で言った直後に噛まれて恥ずかしいからやせ我慢しているだけに違いない。

「ちょっ、神本くん! 大丈夫なの?」

「大丈夫だ。この馬は少し人のことを怖がっているだけ。すぐに俺の気持ちが通じる」

 すると本当に馬の口が神本くんの手から離れた。が、まるで捕食者のように目を血走らせて今度は神本くんの頭にかぶり付く。ヘルメットを被っていなかった神本くんの頭はスッポリ馬の口に覆われてしまった。

「神本くん! 神本くん!! 今度は頭齧られてるわよ!?」

「平気平気」

 いや嘘つけ!!! 半ばパニックに陥っている私とは対照的に幸枝はまるで遠くの山でも眺めているかのように落ち着いている。

「大丈夫ですよ、お嬢様。馬は草食動物ですから食べられたりしません」

「いやそういう問題じゃないわよ!」

「そうだぞ落ち着け」

 齧られっぱなしの神本くんも私をなだめようとする。私じゃなくて先ず馬をなだめたらどうだ? と思っていると今度は神本くんの身体が宙に浮き始めた。

「神本くん! 神本くん! 浮いてる! キャトルミューティレーションみたいになってる!」

「気のせいだろう」

「馬鹿なの!?」

 状況は悪化していく。神本くんを持ち上げた馬は首を左右に振り始めた。神本くんの身体はまるで水にぬれたタオルのようにぐわんぐわんとしなりまくっている。

「清花」

 割と大きめの声で私を呼ぶ。

「助けてくれ」

「今!?」

 こうなってしまってはもう私の力ではどうすることも出来ない。その時、馬が神本くんの頭を放した。遠心力を最大限に受け取った彼は5mほど先まで滑空した後、ファウルを受けたサッカー選手のようにコロコロ転がった。

「大丈夫?!」

 私が慌てて駆け寄ると神本くんはすぐに起き上がった。髪の毛は馬のヨダレでぐっちゃぐちゃだけど幸い怪我もしていないようだ。……よく怪我しなかったね。彼は私の顔を確認するや否や言った。

「これぞ人馬一体」

「分離してんじゃないの!!」

 最後まで意地を張り続けた神本くんだった。