私の生まれた一条家は古くから莫大な資産を保有していた名家だ。主に不動産業を生業としていたのだけれど、お父さんの代で一気に規模を拡大させ、今では総資産二千億と言われる大企業に上り詰めてしまった。そんなに利益を出していてもお父さんは満足出来ないみたいで、今度はサプリメント事業への進出を目論んでいる。その足掛かりとして目を付けたのが『久保製薬』という会社の買収だ。そう、私が嫌々お付き合いさせられて……いえ、お付き合いさせていただいている久保さんの家が経営する会社である。久保製薬は明治から続く老舗の製薬会社で、漢方系の良質な薬を取り扱っている。
どうしても久保製薬を買収したかった父は、関係を良好に保つため子供同士の縁談を持ちかけた。その子供というのが娘(私)と久保製薬の息子(久保さん)である。こうして話しているとまるで昭和の昔話みたいだな、と思う。
そんなことで上手くいくのかと思っていたけれど、非常に残念なことに私は久保さんから一目ぼれされ、とても気に入られてしまった。本当、非常に残念なことに。
それからというもの、二年以上私の意志とは無関係に結婚前提のお付き合いが続いている。久保さんはもっと会う頻度を上げたいらしいけれど、全力で拒否している。冗談はよしてくれ。私は年に一回だったとしても貴方と会いたくないの。ましてや結婚生活の事なんか考えるとゾッとする。ベッドの上まで自慢話を持ち込んできそうな勢いなんだもの。
でもその反面、付き合いを重ねていくうちに私の心には諦めの気持ちが育ってきているのだった。私の家は代々政略結婚。お父さんとお母さんも、そしておじいちゃんとおばあちゃんも、遺影でしか見たことのないひいおじいちゃんとひいおばあちゃんもそう。私だけ勘弁してくださいと言うのはただのわがままなのかもしれない。何よりお父さんの決定には逆らえない。お母さんは「それが貴女の幸せのためなの」と本気で言っている。そう言われるたびに諦めの心はどんどん育っていく。どうせ逃げられないんだ。諦めてお嬢様らしく振る舞うしかない。と、そんな矢先に乱入してきた輩がいる。あの破天荒な(自称)忍者、神本くんだ。
「ただいま」
自室へのドアを開けた私は鳥かごの方に向かって言った。
「オカエリ! オカエリ!」
バサバサと白い翼を羽ばたかせたヨウムが甲高い声を上げる。この子の名前はハク。私が生まれた時からこの家に居て、兄妹に近い存在だ。
疲労感を感じていた私はベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
「ああ、疲れた……。あのアホ自慢話長すぎ」
「アホ! アホ!」
ハクはまるで私との会話を成り立たせるかのように言葉を発する。彼は昔っから私の愚痴を聞く相手を務めていたせいで「バカ・アホ・ちんちん」など非常に汚い言葉を積極的に使ってくる。なお、このことは一条家のトップシークレットだ。
「そう、本当にアホなのよ」
私は額に手をのせ、大きく溜息を付いた。
「ごはん! ごはん! ニンジン! タベタイ!」
再びヨウムがけたたましく鳴く。確かにそろそろエサの時間だ。
「もうすぐ幸枝が来るから待っていなさい」
幸枝というのは私専属のメイドの名前である。やや癖のある性格をしているがとても働き者だ。
「ワタシはトリ! ワタシはトリ!」
またハクが別の言葉をしゃべり始めた。最近覚えたこの台詞は幸枝が教えた言葉のようだ。
「イヤ チガウ、ワタシ ホントウ ハ ニンゲン」
……何故幸枝はこの言葉を覚えさせようと思ったのか。
「オジョウサマ! キョウ モ ウツクシイデス!」
これは普段メイドが私に言っていて覚えた言葉だ。言われて悪い気はしない。
「俺 オマエ 食ウ」
と思ったら死ぬほど物騒な事言い始めよった!
「ニンゲン食ッテ ニンゲン ニ ナル」
いや怖い怖い怖い!
「オジョウサマ! キョウモ 美味シソウデス!」
ちょっと本気で怖いんですけど! フレーズを組み合わせてすごく物騒な事をしゃべりだしたんですけど! その時部屋の外からノックの音が響いて来た。
「お嬢様、お入りしてもよろしいでしょうか?」
「幸枝! またハクに変な言葉を覚えさせたわね?」
入って来たメイドに私は非難の言葉を浴びせた。女はすらりと細い体をこちらに向け、化粧っ気のない顔をきょとんとさせてる。
「いえいえ。私は言葉など教えていませんよ」
「嘘おっしゃい。この子さっき『ニンゲンタベタイ』とか『ニンゲン食ッテ ニンゲン 二 ナル』とか死ぬほどサイコな事を叫んだわよ」
すると幸枝は何か心当たりがあったようで、パチンと胸の前で手を合わせた。
「ああ、そういえば私が部屋の掃除をしていた時、そういう歌詞の歌を口ずさんでいたかもしれません」
いや、人間食べたいってどんな歌詞だよ。
「『グッバイ人類・ハローおぼん星人』とか『イカれたイカの炙り焼き』とか」
「イカれているのは貴女の脳みそよ」
幸枝は毎日こんな感じだけれど、生まれた時からお世話をしてくれていて、私が心を許しているただ一人の人間だ。
「ああそうだ、要件が二件ございます」
幸枝が言った。
「何かしら」
「一件目は金山様とのお食事会の日程の確認でございます。予定通り二週間後の土曜日、 浜東ホテル二階のフレンチレストランで12時より行われる予定ですが、よろしかったでしょうか」
金山と言えばあの見栄っ張りちゃんか。会うたび私と張り合おうとしてくるから鬱陶しくてしょうがないのだけれど、親の付き合いもあるし仕方ない。
「ええ、結構よ。もう一件は?」
「健斗様から手紙が届いております」
「健斗……ああ、久保さん?」
「左様でございます」
手紙が来るたびに毎回下の名前も聞いているはずなのに、私は一向に覚えられない。心底興味が無いのだと思う。
「お読みになりますか?」
「いいえ、いつものように貴女が読んで当たり障りのない返事を書いておいて」
何故このご時世に手紙のやり取りをしているかと言えば私が携帯電話を持つことを許されていないからだ。私が持っていないのだから会う時まで待っていればいいものを、あの青年は手紙を出してまで私と連絡を取ろうとするのだ。読んでないけど。
「かしこまりました。ではいつものように焼却処分するということでよろしいでしょうか?」
「そうしてちょうだい」
私は視線の先で燃える手紙を眺めながら(……というかここで燃やすのね)今日あったことを回想していた。久保さんと言えば、ヤクザが通った後のあの怯えた顔には幻滅したわ。本当にあんなのと……結婚しないといけないのよね。はあ。
「そういえばお嬢様、今日のお茶会にヤクザが乱入したのは災難でしたね」
「ええ、まあ」
「その時しばらくお姿が見えなかったとお母さまが仰っておられましたが、どこにいらっしゃったんですか?」
そうだ、あの忍者。神本鉄人くん。「俺を雇え」と何故か上から目線で言ってきた彼。
「雇えってどういうことですの? 何が目的なの?」
「俺は基本的にどんな依頼でも受ける。何か困ったことかやりたいことがあったらここに連絡しろ」
そう言って彼は濡れた名刺を差し出し、直ぐに出て行ってしまった。
具体的にどんな依頼をすればいいのかとか、彼を雇う事と服の弁償がどう繋がるのかの説明も一切無いままだ。私は財布に入れておいた名刺を取り出してみた。携帯電話の番号が書かれている。
「それは?」
幸枝が興味津々に覗き込んでくる。彼女なら信じてくれるかしら。
「ねえ幸枝。私ね、忍者に会ったの」
「頭を打ったんですか?」
「違うわよ! 本当にいたの! 忍者が!」
私は忍者が茶室に乱入してから倉庫で別れるまでの経緯をかい摘んで説明した。幸枝は半信半疑で聞いていたようだが、最終的には信じてくれた。
「へえ、そんなにイケメンの忍者くんなら私も見てみたかったですね」
食いつくポイントはそこなのか。
「それで、その依頼をお受けになるのですか?」
神本くんの依頼を受けるかどうかは決めかねていた。理由はただ一つ。神本くんが怪しすぎるからだ。雇えば何か面白そうなことが起こりそうな気はするけれど、無駄なリスクは負いたくない。私はふう、と溜息を付いた。
不意にドアをノックする音が響く。
「清花、いるか」
その低い声に私も幸枝も身体を硬直させ、背筋をピンと張る。
「は、はい。お父さん。ここにおります」
「ちょっと話がある。お父さんの部屋まで来なさい」
何かとても嫌な予感がした。
どうしても久保製薬を買収したかった父は、関係を良好に保つため子供同士の縁談を持ちかけた。その子供というのが娘(私)と久保製薬の息子(久保さん)である。こうして話しているとまるで昭和の昔話みたいだな、と思う。
そんなことで上手くいくのかと思っていたけれど、非常に残念なことに私は久保さんから一目ぼれされ、とても気に入られてしまった。本当、非常に残念なことに。
それからというもの、二年以上私の意志とは無関係に結婚前提のお付き合いが続いている。久保さんはもっと会う頻度を上げたいらしいけれど、全力で拒否している。冗談はよしてくれ。私は年に一回だったとしても貴方と会いたくないの。ましてや結婚生活の事なんか考えるとゾッとする。ベッドの上まで自慢話を持ち込んできそうな勢いなんだもの。
でもその反面、付き合いを重ねていくうちに私の心には諦めの気持ちが育ってきているのだった。私の家は代々政略結婚。お父さんとお母さんも、そしておじいちゃんとおばあちゃんも、遺影でしか見たことのないひいおじいちゃんとひいおばあちゃんもそう。私だけ勘弁してくださいと言うのはただのわがままなのかもしれない。何よりお父さんの決定には逆らえない。お母さんは「それが貴女の幸せのためなの」と本気で言っている。そう言われるたびに諦めの心はどんどん育っていく。どうせ逃げられないんだ。諦めてお嬢様らしく振る舞うしかない。と、そんな矢先に乱入してきた輩がいる。あの破天荒な(自称)忍者、神本くんだ。
「ただいま」
自室へのドアを開けた私は鳥かごの方に向かって言った。
「オカエリ! オカエリ!」
バサバサと白い翼を羽ばたかせたヨウムが甲高い声を上げる。この子の名前はハク。私が生まれた時からこの家に居て、兄妹に近い存在だ。
疲労感を感じていた私はベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
「ああ、疲れた……。あのアホ自慢話長すぎ」
「アホ! アホ!」
ハクはまるで私との会話を成り立たせるかのように言葉を発する。彼は昔っから私の愚痴を聞く相手を務めていたせいで「バカ・アホ・ちんちん」など非常に汚い言葉を積極的に使ってくる。なお、このことは一条家のトップシークレットだ。
「そう、本当にアホなのよ」
私は額に手をのせ、大きく溜息を付いた。
「ごはん! ごはん! ニンジン! タベタイ!」
再びヨウムがけたたましく鳴く。確かにそろそろエサの時間だ。
「もうすぐ幸枝が来るから待っていなさい」
幸枝というのは私専属のメイドの名前である。やや癖のある性格をしているがとても働き者だ。
「ワタシはトリ! ワタシはトリ!」
またハクが別の言葉をしゃべり始めた。最近覚えたこの台詞は幸枝が教えた言葉のようだ。
「イヤ チガウ、ワタシ ホントウ ハ ニンゲン」
……何故幸枝はこの言葉を覚えさせようと思ったのか。
「オジョウサマ! キョウ モ ウツクシイデス!」
これは普段メイドが私に言っていて覚えた言葉だ。言われて悪い気はしない。
「俺 オマエ 食ウ」
と思ったら死ぬほど物騒な事言い始めよった!
「ニンゲン食ッテ ニンゲン ニ ナル」
いや怖い怖い怖い!
「オジョウサマ! キョウモ 美味シソウデス!」
ちょっと本気で怖いんですけど! フレーズを組み合わせてすごく物騒な事をしゃべりだしたんですけど! その時部屋の外からノックの音が響いて来た。
「お嬢様、お入りしてもよろしいでしょうか?」
「幸枝! またハクに変な言葉を覚えさせたわね?」
入って来たメイドに私は非難の言葉を浴びせた。女はすらりと細い体をこちらに向け、化粧っ気のない顔をきょとんとさせてる。
「いえいえ。私は言葉など教えていませんよ」
「嘘おっしゃい。この子さっき『ニンゲンタベタイ』とか『ニンゲン食ッテ ニンゲン 二 ナル』とか死ぬほどサイコな事を叫んだわよ」
すると幸枝は何か心当たりがあったようで、パチンと胸の前で手を合わせた。
「ああ、そういえば私が部屋の掃除をしていた時、そういう歌詞の歌を口ずさんでいたかもしれません」
いや、人間食べたいってどんな歌詞だよ。
「『グッバイ人類・ハローおぼん星人』とか『イカれたイカの炙り焼き』とか」
「イカれているのは貴女の脳みそよ」
幸枝は毎日こんな感じだけれど、生まれた時からお世話をしてくれていて、私が心を許しているただ一人の人間だ。
「ああそうだ、要件が二件ございます」
幸枝が言った。
「何かしら」
「一件目は金山様とのお食事会の日程の確認でございます。予定通り二週間後の土曜日、 浜東ホテル二階のフレンチレストランで12時より行われる予定ですが、よろしかったでしょうか」
金山と言えばあの見栄っ張りちゃんか。会うたび私と張り合おうとしてくるから鬱陶しくてしょうがないのだけれど、親の付き合いもあるし仕方ない。
「ええ、結構よ。もう一件は?」
「健斗様から手紙が届いております」
「健斗……ああ、久保さん?」
「左様でございます」
手紙が来るたびに毎回下の名前も聞いているはずなのに、私は一向に覚えられない。心底興味が無いのだと思う。
「お読みになりますか?」
「いいえ、いつものように貴女が読んで当たり障りのない返事を書いておいて」
何故このご時世に手紙のやり取りをしているかと言えば私が携帯電話を持つことを許されていないからだ。私が持っていないのだから会う時まで待っていればいいものを、あの青年は手紙を出してまで私と連絡を取ろうとするのだ。読んでないけど。
「かしこまりました。ではいつものように焼却処分するということでよろしいでしょうか?」
「そうしてちょうだい」
私は視線の先で燃える手紙を眺めながら(……というかここで燃やすのね)今日あったことを回想していた。久保さんと言えば、ヤクザが通った後のあの怯えた顔には幻滅したわ。本当にあんなのと……結婚しないといけないのよね。はあ。
「そういえばお嬢様、今日のお茶会にヤクザが乱入したのは災難でしたね」
「ええ、まあ」
「その時しばらくお姿が見えなかったとお母さまが仰っておられましたが、どこにいらっしゃったんですか?」
そうだ、あの忍者。神本鉄人くん。「俺を雇え」と何故か上から目線で言ってきた彼。
「雇えってどういうことですの? 何が目的なの?」
「俺は基本的にどんな依頼でも受ける。何か困ったことかやりたいことがあったらここに連絡しろ」
そう言って彼は濡れた名刺を差し出し、直ぐに出て行ってしまった。
具体的にどんな依頼をすればいいのかとか、彼を雇う事と服の弁償がどう繋がるのかの説明も一切無いままだ。私は財布に入れておいた名刺を取り出してみた。携帯電話の番号が書かれている。
「それは?」
幸枝が興味津々に覗き込んでくる。彼女なら信じてくれるかしら。
「ねえ幸枝。私ね、忍者に会ったの」
「頭を打ったんですか?」
「違うわよ! 本当にいたの! 忍者が!」
私は忍者が茶室に乱入してから倉庫で別れるまでの経緯をかい摘んで説明した。幸枝は半信半疑で聞いていたようだが、最終的には信じてくれた。
「へえ、そんなにイケメンの忍者くんなら私も見てみたかったですね」
食いつくポイントはそこなのか。
「それで、その依頼をお受けになるのですか?」
神本くんの依頼を受けるかどうかは決めかねていた。理由はただ一つ。神本くんが怪しすぎるからだ。雇えば何か面白そうなことが起こりそうな気はするけれど、無駄なリスクは負いたくない。私はふう、と溜息を付いた。
不意にドアをノックする音が響く。
「清花、いるか」
その低い声に私も幸枝も身体を硬直させ、背筋をピンと張る。
「は、はい。お父さん。ここにおります」
「ちょっと話がある。お父さんの部屋まで来なさい」
何かとても嫌な予感がした。