私は息を切らしながら庭園を見渡した。忍者はいない。右を見ても左を見ても、美しく静かな日本庭園の景色とは不似合いなヤクザたちばかりだ。目を血走らせて駆け回る彼らの姿はさながら抗争でも起きたかのよう。物騒な光景ですこと。しかしこれだけの人数に探されながら見つからないということは、あの忍者は既にこの旅館の敷地内にはいないのかしら。そうだとしたら私は完全に走り損だ。
 枯山水を通り過ぎて人工池の傍に着いた時、私はへたり込んでしまった。息が切れる。そこで今更自分が走りづらい着物を着て、尚且つ足袋のまま出て来たことを思い出す。

「やっぱり、もう居ないのかしら……」

 私は忍者を諦めて池の鯉を眺めることにした。赤と白の明るい色合いの錦鯉たちは悠然と広い池の中を泳いでいく。いいなあ。私も誰にも邪魔されず自由に泳ぎ回る生活がしてみたい。その鯉たちが池にかかる赤い橋に差し掛かった時だった。
 一本の竹筒が池の中から伸びているのを発見した。一見庭の雰囲気とも「マッチしている感」を醸しているその竹筒。でもこの格式ある旅館の日本庭園に竹がお刺さりなさっている光景はよくよく考えると不自然な気がする。

 私は近づいて行ってよーく眺めてみた。筒は微動だにせずそこにある。目を凝らしてみたけれど、濁っているため水面より下はよく見えない。うぅん、やっぱりただの竹なのかな。あるいは誰かの何かしらの美意識によってあそこにぶち込まれたのだろうか。私は何の気なしに、本当に息をするのと変わらない感覚で、その筒の先端を手で塞いでみた。
 ピクン、と動いたような気がした。気のせいだろうか。と思っていると今度は明確に動く。というか暴れた。まるで釣りたての魚のようにピチピチ動く竹筒。私は恐怖のあまりその手を放すことを忘れていた。すると今度はごぼごぼと水面下に大量の泡が立ち始める。
 嘘っ! もしかしてこの竹は池の詮になっていて、それを私が抜いてしまったのでは!? これはいけないわ。早く元通りに刺し直さないと。私は力の限り竹筒を池の底に向かって押し込んだ。何か柔らかい物に当たる感覚があった。泥かな? 

 私がなおも容赦なく竹筒を押し込んでいると先ほどとはくらべものにならないほど大きな泡が立ち、巨大な何かが浮上してきた。ここで私はやっと竹筒から手を放した。ほぼ同時に浮上してきた何かが現れる。水しぶきを上げながら私の前に出てきたのは、果たしてあの忍者だった。まるで鯉のように口を大きく開けて酸素を大きく取り込んでいる。彼はへたり込んだ私の姿を確認するや否や

「殺す気か」

 と息も絶え絶えに言い放った。その言葉にハッとする。もしかして先ほどの竹筒は忍者さんが呼吸をするための物だったのでは? それを私が塞いだり塞ぎ続けたり力いっぱい押し込んでしまったのでは?

「ご、ごめんなさい! 人だとは思わなくって、その、お怪我はありませんこと?」

 私は慌てて謝罪の弁を述べた。

「いや明確な殺意を感じたぞ。筒の穴を塞いだり押し込んできたり、ピンポイントに俺の息の根を止めにかかっているじゃないか」

 言われてみれば確かにそうだ。もう少しで人殺しになってもおかしくないところだったとの思いが私の背筋を冷たくした。

「あの、私、その何と謝ったらいいか……この埋め合わせは必ず致しますわ。本当にごめんなさい」

 私が深々と頭を下げたのを見て忍者は少し黙っていた。そのうちに呼吸と落ち着きを取り戻したようだ。

「いや、怪我はしていない。気にするな」

 彼はそう言って一度顔をぬぐった。話の通じそうな人で良かった。改めて彼の顔を見てみると意外にも目鼻立ちの整った男前だ。体格もガッシリしているし、女子から人気がありそうなタイプに見える。忍者のコスプレをして池の中に潜伏していなければ、だけれど。

「えっと、忍者さん。もしかして貴方は今追われていらっしゃるのかしら?」

「そうだ」

 私が「それはどうして」と言いかけた時、靴の音がした。革靴を鳴らす音がどんどん近づいてくる。このままだといけない。私のせいで忍者さんが見つかってしまう。

「忍者さん隠れて!」

 焦った私は忍者さんの頭をガッと掴み、フルパワーで池の中に押し込んだ。手の下からは激しく抵抗する動きを感じたが私は決して手を緩めなかった。これは忍者さんのためなんだ。

「姉ちゃん姉ちゃん、この辺で忍者の恰好した変質者を見んかったか」

 靴の音の主は、先ほど茶室に忍者を追って来たスキンヘッドの男だった。意外にも私に話しかけるその表情は柔らかい。

「いえ、見かけませんでしたわよ。ホホホホホ」

 私は左手で口に手を当てて笑ってみせた。忍者は私の右手が掴んでいるわけですけど。

「ああそうそう、さっきは邪魔して済まんかったな」

 そう言うと男は財布から一万円札を取り出して私の前に持ってきた。

「い、いえ、いいんですよ。お気になさらないでくださいませ」

 私は左手をブンブン振ってやんわり断った。

「まあまあ。邪魔したお詫びじゃけえ、受け取ってえや」

 男は両手で包み込むように万札を握らせた。こんなの要らないから早くどこかへ行ってほしい。

「あの、本当にありがとうございます。こんなに貰っちゃって申し訳ないですわ」

「気にすんなや。ところでお嬢ちゃん一人なん? 連れの兄ちゃんは?」

 はよどっか行けハゲ。

「ホホホ! 彼は今お手洗いに行ってらっしゃるの! ほら、早くしないと忍者が遠くへ逃げてしまいますわよ!」

「そうだった、じゃあ忍者見つけたら教えてな」

 そう言ってようやくスキンヘッドの男は私の傍から離れていった。ほっと胸をなでおろした私は大切な事を忘れていた。主に右手の下にある存在についてである。

「忍者さん! もう大丈夫ですよ」

 私は右手を放して呼びかけた。ところが一切反応がない。えっ、嘘!?

「忍者さん! 返事をしてください、忍者さん!」

 私は汚れるのも忘れて右手を池の中に突っ込んだ。すると私の手の横の方から大きな泡が立ち、クジラが飛ぶような勢いで忍者さんが現れた。

「殺す気かっ」

 彼はゼーゼー息をしながら池の縁に手を掛けた。三分ぶり二度目のセリフである。

「生きてらしたんですね、良かった……」

 私は今の今まで自分が殺しかけていたことも忘れていたが、忍者は根に持っていたらしい。

「良いわけがあるか。お前のせいで完全に走馬燈が見えたぞ。保育所の頃アリを食べて死にかけたこととか小学生の頃壁の間に挟まって死にかけたこととか中学生の頃マンションの屋上から落ちて死にかけたこととか」

 なんてよく死にかける人生なんだろう。一度息を付いた後彼は脇に浮いている竹筒を掴んだ。

「まあいい、俺はもう少し池の中で身を潜めておく」

「お待ちになってください」

 忍者が再び池の中に沈もうとした忍者を私はとどめた。