彼女がお風呂に入っている間、マリ子は洗い物をしながらふと昔の自分を振り返る。
モラハラ夫の顔色を伺い、怒らせないよう息を詰めながら生きていた毎日。子どもは結局出来なかったけれど、もし子どもがいたら、もしこの家をもらえていなかったら、マリ子は今も束縛された生活を送っていたかもしれない。
ため息貯金も、雨降る前貯金も、ささやかではあるけれどマリ子の日々を支えてくれている。そんな中出会った彼女。マリ子には何となくの予感がした。彼女と友達になれるんじゃないかしら、と。
「お風呂ありがとうございます。気持ち良かったです」
ほかほかと湯気を立てながら、ホームレス女子が風呂場から戻ってきた。いや、ホームレス女子はもう違うから失礼か。
「ごめんなさい、あなたの名前聞いてなかったわ」
すると彼女は少し言い渋る様子を見せ、けれど名乗らないのは失礼だと決心したのか口を開いた。
「自分、遠藤……遠藤愛咲と言います。愛咲は……気に入っていないので、遠藤でいいです」
「あいさちゃん、可愛いじゃない。だめ?」
彼女──遠藤は、ダイニングテーブルの椅子を引き、ゆっくりと座った。マリ子もそれに合わせて腰を下ろす。
「えっとどこから話したらいいかな……両親はいわゆるネグレクトってやつで。家で親の作ったご飯を食べた思い出はありません」
「学校には行けたの?」
「小学校と中学校は、おばあちゃんの家から通いました。おばあちゃんは優しかった。料理を教わったのもその頃です。小中は給食があったし、学校に行ってる間は友達もいるから楽しかった。だけど、体育の時間は嫌いでした。着替えるのが嫌だった。愛咲という名前も、ランドセルの赤も、制服のスカートも、私という呼び方も。自分が嫌いだったんです」
「あ、うちのスーパーにも似たような子がいるわ、ユカちゃんて言うの」
「トランスジェンダーかもしれませんね」
「ユカちゃんから聞いたことあるわ」
「高校の時におばあちゃんが亡くなったんで、高校へ行くの辞めて、友達のところを転々としていたんです。コンビニとかカラオケとかでバイトしながら。そのまま正社員になれたらラッキーだな、と思ってたんですけど、高校卒業していない人間が正社員になるのは難しくて」
「ああ、そうなっちゃうわよね」
「本当に好きなのかも分からないまま、バイト先で彼氏が出来たんですけど、関係を迫られて怖くなって逃げちゃったんです」
「それは怖かったわね」
「でもなぜか逃げる先々にやって来るから、どうしてだろうと思ったらスマホにGPS入れられてたみたいで」
「監視されてたってこと?」