不本意ながら太田マリ子は歩く速度を上げた。仕事を終えてきて、さらに買い物したものが入っているエコバッグもパンパンだというのに、これ以上運動するのはきついものがあるのだけれど。
 赤信号停止のタイミングでマリ子は空を見上げた。月も完全に隠してしまうくらい、夜の雨雲は黒々と空を覆っている。もうすぐ降ってくる。雨が降る前に何とか。

 ──よかった、帰って来られた。親から遺産でもらった小さな一軒家。トートから鍵を取り出すと、マリ子はガラガラと引き戸を開け、急いで閉めた。ふう。

 サァ――ザアアアアアアッ……雨は、マリ子が家に入るのを待っていたかのように降ってきた。
 だいぶ疲れたけれど無事に帰って来られたし、社割のお惣菜も無事。マリ子は下駄箱の上に置いてある豚の貯金箱に500円玉を1枚落とした。
(雨降る前貯金、今日もありがとう、っと)
 マリ子は、ぐうと空腹を知らせるお腹をなだめるため、ひとり分の食事を準備するべく台所へと向かった。気楽さには変えられないけれど、ひとり分の食事作りが億劫なお年頃、太田マリ子52歳。

 マリ子はスーパーで副店長の仕事をしている。遅番の時は15時からシフトに入り、閉店後の作業をして9時半まで。店長と交代でシフトに入るのだけれど、この店長がなかなかのくせ者だ。 
 悪い人ではないのだけれど、ちょくちょく嫌味なことを言うから、特に若いアルバイトの子からは嫌われている。昨日もそれが原因で、ひとりアルバイトの女の子が辞めてしまった。

「マリ子さーん、これじゃあアルバイト募集してもおっつきませんよ。あの嫌味おやじ何とかなりませんかね」
 今日のシフトで一緒になったパート男性の都筑から泣きつかれて、またしばらく連勤かぁとマリ子も思わずため息をついてしまった。
 都筑は理由ありで財産と家族を失っていて、店長は気に入らないがパートを辞めるわけにいかないとマリ子は聞いている。

「嫌味おやじってだれのことかい? いやね、僕も言いたくて言っているわけじゃあないんですよ。セロテープの補充、ポップの貼り替え、ちょっと気をつければ気づくこ」
「その通りです、店長。ほら、私どんくさいから、真っ先に気づける店長みたいにはなかなかいかないんですよ。これからも、店長が真っ先に気づいてくれたら勉強になります」
「太田さんにも、早く僕のようになってほしいもんだよ」
「頑張ります、店長」

 マリ子の機転の良さは、他の従業員仲間からも一目置かれている。店長だけでなくクレーム客にもこんな感じで上手くとりなせるからだ。さすがの店長も、マリ子にはあまり大きく出ることが出来ない。