週刊文秋の記事により、当然のことながら秋吉と榎川は大炎上することになった。

【秋吉征直、鬼畜だった】
【二股かけたうえに、後輩に何させてたわけ?】
【さゆぐらし、ゆるふわ癒し系に見えて実はえぐいいじめしてたんだ……】
【F市の市議会議員って誰のこと?】
【F市在住です。忠村(ただむら)親子のことだと思います。忠村一郎の婿が秘書やってて、今回から出馬することになっていました】
【忠村親子で確定。三年二組に忠村千尋いる。忠村一郎の娘は千尋って名前。ソースは過去の地元の記事→http://】
【てか文秋なんて信じていいわけ? どれもインタビューなだけで証拠があるわけじゃないよね】

 最初のレビューから、ここまで広がることを誰が予想できただろうか。
 雑誌発売の翌日、秋吉から何度も着信が入っている。電話に出ないでいると何通もメッセージが届いた。
 『まだ芳賀穂乃花はわからないのか?』『葉空ヨリは誰なんだ?』『葉空ヨリは亜美じゃないか?』
 秋吉のいうことは私も気になるし、世間も同じだ。野次馬もヨリ先生の正体は気になっているはずだが、世間の関心は秋吉たちに集中している。
 誰なのか依然わからないままのヨリ先生よりも、既に顔も名前も判明している人たちを炎上させることにネットは忙しい。
 彼らはヨリ先生だから叩きたいわけではない、誰でもよかったのだ。その強い正義感はどこから湧いてくるのだろうか。
 芳賀穂乃花のことなど、誰も人生の中で一度も考えたことはないだろう。それなのにまるで自分の身内かのように、秋吉や榎川に怒っている。
 何が彼らを突き動かすのだろう。私はそれをぼんやり眺めながら静かな土曜日を過ごした。

【いじめ確定の証拠見つけた。十五年前の涌田(わくた)亜美のアカウント→ http://】

 正義感に支配された彼らは証拠を見つけてきた。 
 リンク先に飛んでみると、とあるSNSに繋がった。
 私には馴染みのないSNSで、調べてみると十五年前に大流行したSNSらしい。日記とフォト、つぶやきが投稿できるブログサービスに近いもので、今もサービス自体はあるが廃れていて利用者は少ない。
 晒されていたアカウントは涌田亜美のものに間違いなかった。
 プロフィール写真には涌田のプリクラが設定されていて、アカウント名は『ぁみ』。プロフィール文章には『市古高校三年二組』と書いてある。一番新しい日記の記事は十四年前。
 涌田のアカウントの友人欄には、秋吉や榎川、忠村といった今回の件の関係者らしき名前がある。
 はたして十五年前のメールアドレスとパスワードを覚えている人はいるのだろうか。
 彼女たちにとっては過去に忘れてきたものであり、この件があるまで思いだせるものではなかったに違いない。アカウントが晒されてから何時間経っても、それが削除されることはなかった。
 彼らのアカウントは生々しいイジメの記録でもあった。
 涌田の日記に【蛾♡観察日記】というタイトルがいくつも並んでいた。それをわざわざ公開した理由は、芳賀さんに対する嫌がらせだったに違いないが、今こうして全世界に公開されることを十五年前、誰が予想できただろう。

【今日も蛾はしつこい。嫌われてるの気づかないのかな?
 毎日近く飛び回ってぶんぶんしつこい。近寄ってきたら叩くしかないじゃんね】

 どうやら〝蛾〟というのは芳賀穂乃花のことらしい。芳賀の〝が〟をかけて、あだ名をつけているのだろう。いじめっこのやりがちなことだ。
 そして涌田の日記には、秋吉、榎川、忠村。それから今まで名前の上がっていなかった人からも面白がるコメントが集まっていた。その中に〝小田切明日葉〟を連想させる名前はなく安堵する。
 
【マサ:蛾の駆除依頼した! 蛾のことが好きな物好きがいる】
【ちぴちゃん:早く死なないかなーもう秋ですよw 虫は死ぬ時期だよ。冬までには死のうね】
【さゆ:殺虫剤かけてあげた♪】

 〝さゆ〟が添付している写真には芳賀さんらしき人物の後ろ姿がうつっていた。黒板消しをぶつけられた後なのか、髪にも背中にも白い粉を大量に被っている。
 いくつかの記事を読んで、私は口元を手で抑えた。そのままベッドに倒れ込みスマホを手放した。
 これ以上読んでいられそうにない。
 手はじっとりと汗ばんでいて、自然と鼓動が早くなっている。
 ……どの時代でも、どこの学校でも、どうしていじめは似通うのだろうか。なぜ……今もなくならないのだろうか。
 十七歳の自分が、身体の内に現れた。身体の中から過去の自分が主張して吐き出しそうになる。
 私はのろのろと立ち上がり、キッチンへ向かうと蛇口を思い切りひねった。コップに水を注ぎ一気に飲み干す。
 それでも喉はひどく乾いていた。

 
 「大変なことになったね」
 この数週間、そんな言葉ばかり聞いている。私と根津編集長は昼休憩中に会議室にあるテレビを見つめていた。
 一連の事件は週刊文秋だけでなく、ワイドショーでも取り上げられることになった。そこまで大きな扱いではないが、秋吉がドラマの主演を降板したことや、忠村の夫が市議会議員選の出馬を取り下げたことが報じられている。
「なんだか想像していないところまで広がっちゃいましたね」
 私の呟きに、編集長はため息をつきながらテレビを消した。
「山吹出版はさゆぐらしの刊行を中止するそうです」
 今朝、山本さんからメールが届いていた。簡素なメールだったが彼女の無念を感じられる文面だった。
「ここまで騒ぎが大きくなればね」
「ヨリ先生のコラムをどうするかは検討中だそうです」
「まだヨリ先生については証拠も具体的なエピソードも出ていないものね」
「まだってなんですか。ヨリ先生は無関係なんですよ」
 私はできるだけまろやかな声を出してみるが、編集長に心中は伝わってしまったらしく苦笑いで返された。
「そう信じたいわね。でも明日のラジオはお休みしてもらうことになった」
「それは賛成です」
 秋吉や榎川がここまで話題になれば、ヨリ先生にもメディアの目が向くのは当然だ。どんなゴシップ記事でも取り扱う週刊文秋と違いワイドショーはいくらかは慎重である。
 秋吉の降板など、現在の彼らに起きた事実だけを報じて、憶測の域を出ないものや過去については濁して報道している。まだ彼らはヨリ先生を報じるまでに至っていない。
 ラジオ局まで駆けつけたメディアは週刊文秋だけだったが、ここまで騒ぎが大きくなれば様々なメディアがヨリ先生に話を聞こうとラジオ局につめかけてもおかしくなかった。
「今週は羽木先生にお願いしてるの。初回ということもあるし、担当編集として立ち会ってくれる?」
「……わかりました」
 秦央社の田中編集長のたぬきのような顔を思い出すと苛立ちが募った。
 翌日、コーヒーラジオの代役を羽木は楽しそうに務めた。
「羽木先生、お疲れさまでした。すごくお上手でしたけど、ラジオの経験があるのですか?」
「お疲れ様です。初めてなので、緊張しちゃいましたよ」
 羽木は笑みを浮かべると、周りのスタッフにも挨拶をはじめた。コミュニケーション能力が高い羽木は、二十代半ばの若手女性作家だ。私からすれば、ヨリ先生の模倣に過ぎない作風だが、ヨリ先生の模倣をしているだけあって人気がある。
 私もスタッフに挨拶をすませ、羽木と共にブースを出る。
「来週はどうします? 私、来週も予定空けておきましょうか?」
 羽木は私の隣に並ぶと、くりくりした瞳を私に向けた。
「明日、根津と相談してまたご連絡しますね」
「わかりました。――ちょっといいですか」
 羽木は廊下に喫煙室のマークを見つけて指さした。私に付き合えということだろうか。付き合いたくはないが、これも仕事だと彼女のあとをついていく。
 電子タバコを口に持っていくと、羽木は「葉空先生、大変ですね」と呟く。
「あれだけ炎上しちゃったら、私筆折りそう。一日エゴサして過ごしちゃうかもです」
「ヨリ先生は、エゴサとかしないみたいですよ」
「えー、そんな人いるんですか。絶対葉空先生もしてますって」
 田中編集長が言うように、羽木はピュアに見える。作風もヨリ先生を意識して爽やかで、男性人気も高いらしい。目の前で興味津々といった様子で聞いてくる彼女はピュアにも爽やかにも思えない。年齢が近い槇原さんには何でも言いやすいんですよね、と私の前では猫を被らない。見下されているのかもしれないが。
「葉空先生って、どうなっちゃうんですか?」
 羽木は軽く、直接的に訊ねてくる。
「どうなるもなにも、葉空先生はいじめに関与していないんですから」
「えー? でも、三年二組にヨリ先生いるんですよね。田中さんが言ってましたよ。あ、さすがに本名は聞いてないですよ」
「……ですが、いじめには無関係です」
「そうかなぁ。自殺するほどひどいいじめのクラスメイトってだけで、関与してると思いますけどね。私今度そういう小説出すんですよ。実行犯だけじゃなくて、傍観者も罪だよ、っていう」
 ふう、と息を吐きながら羽木は私を見た。
「私も槇原さんと一緒で、葉空信者なんで、いじめっこだったら嫌なんですけどねー」
 黙っている私に羽木は笑いかける。
「ヨリ先生を信じているのに、いじめはしていると思うんですか?」
「信じてるかあ。そういう意味ではあんまり幻想は抱いてないかも。そりゃ葉空先生は、中身も品行方正ですけど。他の作家はそうじゃないって、槇原さんもいろんな人担当して知ってるでしょ。私だってこんなだし」
 羽木はふぁあ、とあくびをした。言われればヨリ先生のこういった無防備な姿は見たことがないなと、ふと思う。
「私、葉空先生みたいに作家売りしたいと思ってるんですよ。ファンがつくとありがたいし。だからもしラジオ降板するなら、私後釜やるんでいつでも声かけてくださいね」
 そう言うと羽木は吸い殻を捨てて、喫煙室を出た。なるほど、彼女の言いたかったことはこれらしい。
 私も喫煙室を出ると、もう一度あくびをして羽木は呟いた。
「だけど葉空先生の話が読めなくなるのは嫌だなぁ。別名義とかで、続けてくれるといいんですけど」
「別名義ですか」
「そう。だって、物書きはやめられないから」
 私を見る羽木の瞳が光る。
「書く場所がなくなっちゃっても、書くことはやめられないと思いますよ」
 羽木の言葉の意味を考えていると「そうだ、こないだの改稿案ですけど」と別の話題を差し込まれて、思考は中断された。


 制裁が進めば同情心が湧いてくるのは日本人特有のものだろうか。あれだけ批判一色だった秋吉たちに同情的な声も集まるようになっていた。

【本当にいじめてたか確定じゃないでしょ。あの日記だって誰かが陥れるために作ったものかもしれない。デマに踊らされたらダメ】
【出た、盲目ファンの無理な擁護】
【十五年前から秋吉たちを陥れようとして計画練ってたっていうのか? 秋吉が俳優を目指すかもわからないのに?】
【秋吉さんのファンじゃないけど、最近はちょっとやりすぎに思える。だって十五年前のことでしょ。それを今さらになってここまで掘り返すなんて】
【あの小説って結局誰が投稿してるの? 芳賀以外の人生終わらせようとしてるのえぐい】
【てか芳賀穂乃花は訴えられないわけ? 名誉棄損でしょ、こんなの】
【名誉棄損も何も事実だし……】
【事実でも名誉棄損は名誉棄損!】
【ここまでやるのはやりすぎ。秋吉や榎川が死んだらどうすんの?】

 いまだに批判が圧倒的に多い。けれど、同情的な意見も少なくない数が集まっている。
 ……あの日記の文章を読んでも、そう思うのか。あんなにひどいことをしているのに。

【いじめに時効なんてないでしょ。芳賀の人生は終わってしまったんだよ】

 一人の投稿に私は大きく頷いた。秋吉や榎川が忘れても、何を今さらだと思っても、そう思わない人間だっている。ふつふつと怒りがこみあげてきて、私は感情そのままにSNSに打ち込んだ。

【時効なんてない。こうして十五年経ってからでも復讐しようとする人がいる。それってこの十五年間、そのひとはずっと苦しんできたからだよね。
 秋吉や榎川は十五年間ずっと忘れたまま、楽しく生きてきたかもしれないけど、芳賀は死んでしまったし、ずっと十五年苦しい想いをしてきた人がいるんだよ!】
 
 自分のアカウントから投稿すると、それは拡散されいくつもの同意を得た。ここまで拡散されるのは、この話題の関心が高い故だろう。
 フォロワーから【ハナさんもヨリ先生疑ってるんですか】と返信がついた。……自分と芳賀を重ねて、つい我を忘れてしまった。
 心臓を落ち着かせながら【いいえ、ヨリ先生はいじめに無関係だと思っています。ヨリ先生があんないじめするわけないでしょう】と手早く返信を返す。
 ヨリ先生はいじめに関わっていない、絶対に。
 だって、私の命を救ってくれたのはヨリ先生なんだから。


 ◇


 教室で私は常に溺れていた。
 間違っていることは指摘をしてしまう。お世辞を言えない。面白いと思えなければ笑えない。
 端的に言えば、私は空気が読めないやつだったのだと思う。
 教室を泳ぐためには、この〝空気を読む〟というのは何よりも大切なことで、私は絶望的に泳ぎが下手だった。
 今となっては、私は頑固すぎたのだと思う。空気を読むということは、自分が欠けてしまいそうな気がして。誰かの意見に染まることを頑なに拒否をしていたのだと思う。
 青かったな、若かったな。そんな風に過去の自分を微笑ましく思えるのは、あの頃より大人になったからで。
 十七歳の私は、私を確立することに必死だった。
 群れの中で泳げない私を周りの人間が排除するのは当然と言えるのかもしれない。

 
 いつも通りの朝のはずだった。
 教室に一歩踏み入れた瞬間、別の世界に転移しまったような不思議な感覚に陥った。
 私が踏んでいるのは間違いなくいつもの教室の床で、私の視界にうつる人々は昨日も会ったクラスメイトだ。
 窓際の席に陣取る三人がこちらを見た。雑談が一時停止され、目配せのあと何事もなかったように会話に戻る。
「おはよー」
 その違和感に気づかないふりをして、私は彼女たちのもとに向かう。不自然なほどに誰もこちらに目を向けず雑談は続いている。
「お、おはよう!」
 もう少しボリュームをあげて、彼女たちが座る机までたどり着いた。
 彼女たちはチラリと私を見上げた。私という生物を初めて見るような目つきで。昨日までのクラスと今ここにあるクラスは別物なのではないかと錯覚する。
 一秒の空白のち、彼女たちは雑談を再開した。内容は昨日見ていたドラマの話などで重要な話ではない。
 私は幽霊のように、認知されないものとなった。
 そのまま幽霊でいられたら、どれだけ良かっただろうか。
 存在しないものとして扱ってくれていれば。
「ハナが」
 教室のどこかで聞こえる声に肩がびくりと揺れる。〝ハナ〟のイントネーションは〝羽菜〟ではなく〝鼻〟だ。
 黒板近くにいる男子が鼻をすすりながら「鼻詰まってて鼻水がやばい」と話しているだけだったことに気づき、どきどきと動き始めた心臓を落ち着かせる。
 彼女たちは私の名前を呼ばなくなった。存在しないものだから。
 私が彼女たちの近くにいれば、彼女たちは自分の鼻の叩きながら目と目で会話をする。
 私は名前から〝鼻〟と名付けられたのだとすぐにわかった。
 あだ名で呼ぶのは、私に悪口をばれないようにするためじゃない。むしろ私に届くように、だ。
 ダメージを与えながら、「あなたの話なんてしていません。鼻の話です」と言い訳が出来る。
 私は怒る気力もなかったが、彼女たちは私を怒らせたかったのかもしれない。完全に解放してくれればいいのに。私という玩具を放さないために時々は優しく話しかけてくる。
 私は胸中では怒りに震えているのに、話しかけられると嬉しくて、媚びへつらうようにへらへら笑みを浮かべた。彼女たちからは何も返してもらえないのに。笑顔を続ければそれが返ってくると信じて。
 まだ六月を迎えたばかりで、地獄は少なくとも来年の春まで続くのだ。
 どうして大人が勝手にぶち込んだ水槽のなかで必死に泳ぎ続けなければならないんだろう。
 今まではうまく泳げない自分を個性だと思っていた。だけどこうして攻撃されれば、それは嫌われる種でしかなかったと知る。
 群れからはぐれて、溺れて、もう私の酸素は残り少なくなっていた。


 その日、私は図書館にいた。クラスの冴えない女子が今日の図書委員を変わってくれないかと言ったからだ。
 今までの私ならそのような依頼はされなかったはずだ。そして今までの私なら確実に断っていた。
 だけど何の反応もされない幽霊の日々を送っていた私にとって、誰かの依頼を断るのは死も同然だった。
 依頼されていた作業を終え、帰宅しようとして……図書館の扉は開かなった。外から鍵をかける式になっていて内鍵はない。
 これはいじめの一環だ。
 私に依頼をしてきたあの子は、彼女たちに指示をされたのだ。
 がちゃがちゃとゆすってもびくともしない扉を見て、頭は冷静になっていた。
 どうしようか。これはただのいたずらだ。ポケットにスマホだってある。学校に連絡して先生に開けてもらえばいいだけのことだ。
 彼女たちも私を一晩閉じ込めようなど考えたわけがない。スマホさえあればどうにかなることをわかってやっている。
 だけど、私は職員室に電話をかけることができなかった。
 ここに閉じ込められていることを先生はどう思うだろうか。いじめだと思うだろうか。
 いじめられっこと思われたくないというちっぽけなプライドと、先生がいじめだと気づいても何も対応してくれないかもしれないという小さな恐怖。
 その二つが、私の手を動かさない。
「どうしよう……」
 乾いた唇から、渇いた言葉が出た。
 そろそろ日が沈む。図書館の窓から今日最後の太陽が照らしてくる。あの日が落ちれば先生は帰宅し、助けてもらえなくなり一晩を過ごすことになるのだろうか。
 ――ああ、死にたいな。
 初めて思った。
 明日が来てほしくなかった。このまま図書室から出たくもなかった。
 助けを読んで、図書室から出たところで何があるのだろうか。何も変わらない日々が続いていくだけだ。
 私は窓を見た。図書室は三階にある。飛び降りれば死ねるだろうか。
 死ねなかったとしても、あの三人に報復はできるのではないだろうか。一生消えない傷をつけてやりたい。
 自分たちが閉じ込めた籠から飛び降りれば、さすがに罪悪感くらいは出るのではないかな。
 私はふらふらと導かれるように窓に向かっていく。
 そのとき、一冊の本がカウンターから落ちた。私の身体が触れて一冊を落としたのだ。
 私は本をカウンターに戻そうとしたが、表紙の美しさに吸い寄せられた。
 それは青い本だった。一人の少女が涙を浮かべながら笑っている。青を基調とした美しい本。 
 私は窓に向かっていたことなど忘れてページをめくることに没頭した。途中で日が落ちて、図書室には闇が訪れた。
 私は誰にも気づかれないように、スマホの光で照らしながらそれを読んだ。
 普段あまり小説など読まないから、読み終えるまでに五時間はかかっただろう。
 泣いて、泣いて、泣きながら読んだ。あまりにも泣いて読み終えた後は、心地よい瞼の重さに引きずり込まれるように眠りに落ちた。
 

 朝日で目が覚めた。図書室に神々しいと思えるほどの眩しい光が入り込んでいて、天国に来てしまったのかと思うほどだった。
 この美しい朝を、私は生涯忘れることは出来ないだろう。
「わたし、生きててもいいんだ」
 あの本を拾うまでは、朝が来ることが怖くてこのまま終わらせてしまおうと思った。
 それなのに。こんなに美しい朝が私に訪れた。
 涙が止まらず、ただ呆然と窓の外の光を見ていた。青い本を抱きしめたまま。
 

 葉空ヨリの小説に出会ったからといって、目の前の絶望がなくなるわけはない。それでもあの日葉空ヨリは「あなたはあなたのままでいていい」「今をがんばるのではなく、踏ん張ろう」と教えてくれた。
 何より、あのとき偶然落ちた本は何かの導きに思えた。
 私は生きていないとだめだ。死んだらだめ。今は苦しくても、踏ん張って、耐えていこうと。
 私は葉空ヨリに救われた。葉空ヨリに救ってもらった命での楽しみは、葉空ヨリの新作を待つことだった。
 私のことを大切に扱わないあいつらに、笑顔を見せる必要なんてない。
 私のことを大切にしないあいつらを、好きでい続ける必要なんてないんだ。
 彼女たちへの希望がなくなれば、いじめはそこまでつらいものではなかった。
 私には葉空ヨリがついている。
 文庫本をカバンに忍ばせておけば、守られている気がした。


 ヨリ先生は、誰にも踏み入れられない心の基地だった。