ファンレターを読むたびに、酷い吐き気に襲われるようになったのはいつからだろうか。

【ヨリさんは私の希望です】
【ヨリ先生は私を救ってくれました!】
【葉空先生の文章は澄み切っていて、先生のお人柄を表しているようです】

 文章と私を重ねて、私を光だと、美しい人間だと。そう評されるたびに、私は便器に顔を突っ込んだ。
 吐いて、吐いて、吐いた。汚い自分が出て行くようで少し安堵する。胃の中のものをすべて吐き出せば、醜いものが少しは消えてくれる気がして。
 私は綺麗なんかじゃない。
 私は、醜い。何もかも。
 ――私が、穂乃花を殺した。

 
 私より半年前に穂乃花は生まれた。穂乃花の母は、穂乃花を抱いて新生児の私に会いに来たのだという。
 私が生まれて初めて瞳の中に入れた友達は穂乃花だった。
 親同士が友人ということもあり、物心をついたときからそばにいた。私が初めて呼んだ友達の名前は「ほーちゃん」だったし、穂乃花が初めて呼んだ友達の名前も「はーちゃん」だった。
 学区が同じ私たちは当たり前のように、同じ幼稚園に通い、休日には親と共に遊び、同じ小学校に通うことになった。私は穂乃花が好きで、ずっと仲良しでいられると思っていた。
 だけど、現実は甘くない。
 穂乃花はかわいかった。私はかわいくなかった。たったそれだけのことだ。
 穂乃花はくりっとした目にいつも楽しそうに口角のあがった唇。誰からも愛される少女だったのに対して、私は上からプレスされたような顔だちをしていた。上から潰されてしまったから目はこんなに細く、鼻は潰れ、口角は下がっているのかもしれない。
 そして見た目だけではない。誰ともうまく喋ることが出来ずどもってしまう私と、誰とでも親しくなれて朗らかな笑顔を向ける穂乃花はまるで違った。
 園児の頃と違って小学生にもなれば、無意識に他人の評価を始め、自分がどう見られるかを認識し始める。私が穂乃花と釣り合わないことは自分が一番わかっていた。
 穂乃花はわかっているのかいないのか、変わらず私と親しくしてくれた。
 小学校は二クラスしかないこともあり、五年間穂乃花と同じクラスで、帰宅後はどちらかの家でまったり過ごし、常に穂乃花といた。穂乃花は私の家で漫画を読みながら「明日葉といるときが一番のんびりできる」と心からの笑顔を向けてくれる。
 小学生までは私も穂乃花のことを心から好きでいられたのだと思う。皆が親しくなりたがる穂乃花の一番の親友ということが誇らしかった。
 私たちの小学校は今思えば素朴で純真な生徒が多かったのだと思う。穂乃花と親しいことについて、私は誰からもからかわれることがなく、穂乃花の親友のままでいられたのだから。
 中学になれば別の小学校が合流し、私たちはランク付けを余儀なくされた。新しい友人関係が形成されるなかで「私と友達になるべき相手はこの子だろう」という暗黙の空気が漂うのだ。
 穂乃花と別のクラスになった私は、クラスの真ん中からはじき出される形となった。穂乃花の親友だと認識されない状態の私の価値はこれが適正で、今までが過大評価されていただけに過ぎない。
 それでも穂乃花は、価値が下がった私とずっと一緒にいてくれた。
 それが心から嬉しくて、心から憎かった。
 穂乃花といると楽しくて自分の価値まで上がる気がした。だけど同じくらい不安で苦しい。穂乃花と友達だという優越感に浸る日もあれば、穂乃花の隣に並ぶことで無遠慮に値踏みされる居心地の悪さ。楽しくて嬉しくて、苦しくて憎い。友情とは似つかわしくないどろりとした感情に支配されることが恐ろしくて、私は穂乃花から離れたかった。離れることでこの気持ちを全て切り捨てたかった。
 だから高校だって穂乃花と別の高校を選び、常に一緒でどこか依存している関係を打ち切りたかった。
 けれど穂乃花は希望の高校に落ちて、私たちは三年間一緒にいる事を余儀なくされた。
 私は入学式の前の日に、穂乃花に宣言した。
「明日から高校生活が始まるけど。私たち一緒に登下校するのやめよう」
「え? なんで? なんかバイトとかするの?」
 穂乃花は私との関係を疑ったことがない。私はこんなにも苦しいのに穂乃花は私たちの関係に一度も悩んだことはないのだろう。
「だってほら、私たち釣り合ってないから」
 私はなんにも気にしていないように、さらりとした声音を出す。
「釣り合うってなに? 意味わかんないんだけど。私と一緒にいたくないってこと?」
「……穂乃花だって気づいてるでしょ。私たちは同じグループの人間じゃないんだよ。私だって、自分でも気づいているからそういうの」
 言いたいことだけ言って私は穂乃花に背を向ける。穂乃花がどういう表情を浮かべているのか見たくなかった。そのまま穂乃花は私に声をかけなかった。彼女の気遣いに思えてそれもまた私を苛立たせた。
 穂乃花と登下校を共にせずクラスも離れれば、私たちが元々の友達だと思う者はいなかった。私たちは他人から見てそれほど明確な差があったのだから。
 同じ中学の人もほとんどいないこの学校で、私はこのまま穂乃花から離れた場所でひっそりと生きていけばいいと思った。もう穂乃花への嫉妬で胸をちりつかせることもない。
 穂乃花はクラスの中心人物となり、同じ雰囲気の子たちとグループを作った。私が可愛ければ、せめてもっと明るければあの中にいることができたのだろうか。ひっそりと憧れていた男の子と穂乃花が付き合ったことを知ったとき、隣にいなくてよかったと心からほっとした。
 穂乃花と私は釣り合っていない。そう思える自分を客観視できる人間だと思っていた。だけど違った。 
 小田切明日葉という存在は、穂乃花のおかげでギリギリ人間の生活を送れていたのだ。マイナスの人間だということまで私は知らなかった。 
 中学までは穂乃花という存在が、私の盾になっていた。
 地味でブスな私でも、周りからそこまで悪く言われない。それはみんなの人気な穂乃花の親友だったから。だから影口はあっても表立って酷いことをされたことがなかった。
 穂乃花という加護のなくなった私は、なんの価値もないどころか、人々に不快な印象しか与えないらしい。高校にもなって馬鹿馬鹿しいと思うが、忠村千尋という悪魔に出会ってしまった私は彼女に「玩具」と呼ばれる存在になった。
 二年間のことは思い出すだけで、いまだに手が震える。ほんのすこし何かがズレれば、ホームから飛んでいたのは私だっただろう。
 私はひどく臆病で飛ぶ勇気すらなかったのだから。だけど今になって思う。
 私があの時死んでいれば、穂乃花は死ななかったかもしれない。あそこで死ぬべきは私だったのだ。 
 私が死ななかったばかりに、私は穂乃花と同じクラスになり、それがいじめに繋がった。
 最初は榎川が二股の腹いせに穂乃花を悪く言い、忠村が私のいじめをとめた腹いせに始まった小さないじめだった。
 だけど彼女たちは気づいてしまったのだろう。
 元から道端のゴミのような私を蹴るよりも、今まで人気者として頂点にいた穂乃花を落とすことの楽しさに。
 私はいじめを止められるはずがなかった。私の価値など、彼女たちにとっては何の意味もないものだ。私がとめたところで、何もかわらないことは明白だった。だからいじめを止められないのは仕方ない。私は自分にそう言い聞かせる。再度いじめられるのが怖かったからじゃない、と。
 私は穂乃花と再び登下校を共にするようになった。
「ごめんね、穂乃花。私のせいで」
「全然。こうして一緒にいてくれるだけで嬉しいんだよ」
 穂乃花は傷ついた口もとで微笑んでくれた。
 そのとき、思ってしまっのだ。
 今の穂乃花となら、隣に歩いていても苦しくない。
 穂乃花の価値が下がり、私の場所までおりてきた。穂乃花はここにいてくれる。
 夏休み、榎川たちから解放された私たちは子供の頃のように遊んだ。
 私の胸にあったわだかまりは消えていて、穂乃花と一緒に遊べるようになったことの喜びが勝っていた。穂乃花への嫉妬も黒い感情もすべて消えて。
 ――それはどれほど穂乃花にとって屈辱的だったことだろうか。
 ぎりぎりの穂乃花の一押しをしたのは、私なのだろう。
 夏休みが終わり学校に戻れば、地獄が戻ってきた。穂乃花が徐々にやつれていることを知っていた。だから、私だけは穂乃花から離れてはいけなかったのに。
 少し頭が痛かった。親が家にいなかった。体育がある。そんなどうだっていい理由を並べて、私はあの日学校に行かなかった。
 その日、穂乃花は空を飛んだのだ。


 私は自分のために、いじめを止めなかった。
 穂乃花を失ってみれば、それがどれだけ馬鹿馬鹿しいことだったかわかる。
 穂乃花は輝いているひとだった。私の隣にいてはいけない人だった。
 私の隣にいなくてもいい。穂乃花に笑っていて欲しかっただけだった。そう後悔をしてももう遅かった。
 穂乃花のいじめは簡単に隠蔽され、榎川たちは当たり前の青春を送っている。さすがに新たなターゲットを作る気にはなれなかったのか、彼女たちが表だったいじめを行うことはなかった。
 三年二組から穂乃花だけが消えたまま、皆青春を卒業していった。
 穂乃花を忘れたくない。いじめをなかったことにしたくない。高校を卒業して大学に入り、贖罪のために小説を書き始めた。文章を打ち込んでそれを公開した。まさかそれが受賞してベストセラーになるとは思わなかったけれど。
 受賞し、担当となった根津さんに「ペンネームはどうしましょうか」と聞かれた私は、”葉空ヨリ”と答えた。
 私は当時投稿サイトは「より」という名前で投稿していた。これは小学生のときに私と穂乃花がはまっていたアニメの主人公の名前。
 ……そうだ、これを機に小田切明日葉を捨てよう。
『私、明日葉って名前好きなんだ。私が穂乃花でしょ。花と葉って親友って感じがする』
『なにそれ』
『明日葉って葉っぽいんだよね。爽やかで、穏やかで』
 そのときは少しふてくされたことを覚えている。華やかな花は穂乃花にぴったりで、自分は地味な引き立て役と思った。
 だけど、穂乃花のいう爽やかで穏やかな人になれたら。 
 これからは〝葉空ヨリ〟として生きる。
 醜い自分も過去もすべて捨ててしまおう。そう決めて賞金をすべてつぎ込んで整形を行った。穂乃花の写真を執刀医に見せたが、あまりにも顔のタイプが違い断られた。
「なにか理想の顔はありませんか」
「それなら、すっきりした美人にしようかな」
 いつかの穂乃花との会話が蘇る。
『私も穂乃花みたいに可愛くなりたい』
『明日葉はクールビューティーだよね、すっきり美人系ってやつ。私はそっちが憧れだよ』
 それは明らかなお世辞ではあった。くりくりの目にはどうやってもなれない、細い一重を見て穂乃花は『クール、すっきり』と評してくれたのだろう。それがいいのなら、今すぐにでも顔を交換してくれよと言いたくなったっけ。
 あの日、穂乃花が褒めてくれた私をもとに、私は自分の顔を考えることにした。
 小田切明日葉を捨てて、葉空ヨリになろうとしても、最初はどうすればよいのかわからなかった。ろくに人との交流をとってきていなかった私が、理想の人物になるためにはどうすればいいのか。
 そうだ、穂乃花になろう。誰にでも朗らかで優しくて、本来ならまだ生きていないといけなかった穂乃花に。
 穂乃花ならどんなふうに話すのだろうか。穂乃花ならどんな対応をするのだろうか。
 顔はきれいになり、ダイエットも成功した。今の私なら穂乃花にになることができる……!

 
 小説はヒットを連発した。一度当てれば、様々な出版社が私に声をかけてくれて、仕事は尽きない。穂乃花への贖罪と追悼は次々と売られていき、私自身にもスポットがあたるようになった。
 最初は純粋に嬉しかった。穂乃花への想いが認められた気がして。穂乃花も少し許してくれる気がして。
 それにこんなになにかの中心に自分がいることができるのは初めてだった。いつもクラスの隅にいて、穂乃花の隣しか居場所がなかった小田切明日葉。
 誰もが私の才能を褒め、性格を褒め、見た目を褒めてくれた。穂乃花ならどうするだろうと考えれば、言動は正解に繋がった。
 嬉しかったのは最初の半年間だけで、虚しかった。どうしようもなく虚しかった。
 あなたたちが救われたという話は、私が救えなかった女の子の話なのに。
 あなたたちがきれいだと言ってくれる葉空ヨリはまがいものだ。
 あなたたちが優しいと褒めてくれた言動は、すべて穂乃花のものだ。
 ――葉空ヨリの中に小田切明日葉はいない。
 葉空ヨリを作るのは、穂乃花で。そこに小田切明日葉はいなかった。
 ファンレターを読むたびに、責められている気がした。私を見透かされている気がした。そんなときはSNSで葉空ヨリを検索して、批判を見ては許された気持ちになって安心した。
 本当の私は浅くて、なにもなくて、作り物で、穂乃花という存在が私をプラスにしてくれているだけだ。
 穂乃花はもういないのに、もう会えないのに。私はまだ穂乃花に怯えていた。
 ファンレターを読むたびに吐いた。あなたたちの希望は偽物だよ。それは穂乃花の幻影だよ、と。
 誰かに偽物だと気づいてい欲しいのに、偽物だと気づかれることが恐ろしかった。

 
 槇原羽菜は私のファンを濃縮したような人間だった。 
 須田出版の編集担当が槇原羽菜になってから、吐く頻度は急速に増えた。
 須田出版はどこよりも付き合いが深い。槇原の前任の塚原は仕事は出来るが、ドライなところがあり私自身に対してあまり興味はなさそうだった。作品のことも込められたメッセージよりも、売れるか・売れないかで判断してくれるさっぱりした部分がちょうどよかった。
 槇原は業務以外にも気軽にメッセージを送ってくる。私を絶賛する声がみつければ、いてもたってもいられないらしい。
 作品を愛し、大切にし、嬉しいことは逐一報告してくれる。他社の作品もすべて読み、私の作品すべてを愛する。それはきっと作家にとっていい編集者なのだろう。
 だけど彼女が見ているのは〝葉空ヨリ〟で小田切明日葉ではない。
 編集者にとってはそれは当たり前で、私の人間性を見てほしいなどなんて幼稚な考え方なのか。頭では理解していても、突然書けなくなった。
 私の中にある文字までも全部偽物に思えて気味が悪かった。
 なんとか書き上げた小説は、まがいものの小説は、たくさん刷られて、飛ぶように売れていく。

 
「すみません」
 ラジオ局の廊下で男性とぶつかって目線が絡む。廊下には私たち以外の姿はなく、彼とは通り過ぎるだけのはずだった。
 だけど、私の足は止まってしまった。そこにいたのは秋吉だったから。十五年前に憧れていた初恋の人。そして穂乃花を殺した一人。
 なぜここに秋吉がいるのだろう? ラジオ局で勤めているのだろうか。訝し気に彼を見てしまったのかもしれない。私の視線に気づいた秋吉は笑みを浮かべた。
「そうか。レギュラーラジオ、この局でしたね。僕は今日はゲストで」
 まるで旧知の友人かのように話しかけてきてどきりとする。彼は小田切明日葉を覚えていたのだろうか。学生時代はクールキャラが売りだったはずだが、ずいぶん親しみやすくなっていて、爽やかさは憎らしいほどに十八歳のままだった。
「あの、私たち――」
「あー、すみません! 葉空先生の小説を時々読んだり、テレビ番組で見かけてるんで友人の気分になっちゃって。僕、秋吉征直と言って舞台を中心に活動している俳優なんです。じっと見つめられちゃったから、つい話しかけてしまいました」
 身体の中心が冷える。ああ、そうか。小田切明日葉など覚えているわけがなかった。
 彼は自分がどう見られるかを知っている。女性がじっと自分を見つめれば、それは好意だと思ったのだろう。好意を向けてきたのが〝葉空ヨリ〟だった。それでこうして話しかけてきたわけだ。
「秋吉さんの舞台観劇しました。とても素敵だったので覚えていて……すみません、それで見とれてしまって」
 すらすらと社交辞令が口から出てくる。秋吉の舞台など見たことなければ彼の存在も知らなかった。
「ほんとうですか! まさか葉空先生に見てもらえてるとは。どの舞台にきてくださったんですか」
「ええと、すみません、私タイトルをあまり覚えていられなくて。三ヵ月くらい前だと思うんですけど」
「じゃあ青の舞台かな?」
「ああ、それですそれです」
「うわー嬉しいな。よかったら今度舞台にいらっしゃいませんか。チケット、用意しますから」
 秋吉は自然にスマホを取りだすと、人懐こい仕草で私に向かってスマホを差し出した。自分の好意が誰にも受け入れられると信じてやまない動作。
 予想通りチケットは口実で、彼の目的は私との食事だった。一週間後には個室で二人きりで向かい合う。
「秋吉さんは今すごく注目されているんですね。私は最近のテレビには疎いんですけど、ご活躍は聞いています」
「実は深夜ドラマの主役も内定してて……このチャンスに乗りたいんだ」
 二人で会った秋吉は、早速くだけた印象で笑いかけてくる。
 私は彼の現在について調べていた。売れない俳優に見えたが、どうやら当たりの深夜ドラマに出たことで注目が上がっているらしい。メインではないが印象に残る役どころを担当していて注目を集めたらしい。まだまだ一般知名度は低いが、演技力がありビジュアルもよく下積みが長い舞台俳優。脇役から人気を固めて、重大な役を経てゴールデンの主役に踊り出す。よくある成功パターンが彼に訪れようとしている。
「葉空さんは愛知県なんだよね、F市に住んでたって何かの記事で読んだけど本当? 俺もF市出身で」
「ええ、そうなんですか! 私はF市に親戚が住んでいただけで、住んではないんです」
「俺たち同年代だから、どこかですれ違ってたかもしれないなあ」
 同じクラスだったとまったく疑わない調子で秋吉は言った。顔や雰囲気は変わっても、声は変わっていない。だけど彼はきっと小田切明日葉の声を耳に入れたこともないだろう。
「愛知には帰ってる? 僕は全然帰ってなくて」
「私もあまり」
「だよなあ。一回こっちくると、帰る気にならない」
「置いてきた彼女とかいないんですか?」
「あんなとこにいる女なんて、ほんとしょうもないよ。……葉空さんのこと言ってるわけじゃないよ? あそこに住み続けてる地元のやつってこと」
 秋吉は熱がこもった目でこちらを見た。
「でも同じ地元ってことで、葉空さんと縁が出来たのは嬉しいな。これ、約束してたチケット。この舞台の後、よかったら食事しよう」
 秋吉が忘れ去った過去は、私にとっても忘れたい過去だ。
 それなのに私は未だに過去を生きている。葉空ヨリのすべては芳賀穂乃花だから。
 ……秋吉は穂乃花のことなんて忘れて、生きている。
 それだけが頭にこびりついたまま、私はふらふらと帰宅した。ファンレターを読んでもいないのに吐き気が止まらなかった。
 秋吉の笑顔を思い出すと手が震えた。彼の目線を受けた服はすべて捨てた。
 秋吉が憎い。それなのに秋吉に微笑まれたときに、十八歳の小田切明日葉が芽を出した。
 穂乃花を殺した憎々しい相手。だけど、学生時代に一度も私に微笑んでくれなかった彼が、私に向かって微笑んだ。
 秋吉が見ているのは、私じゃない。〝葉空ヨリ〟だ。
 それなのに彼に微笑まれると、胸の奥のどこかがぎゅっと苦しくなる。
 穂乃花を殺した一人なのに。誰よりも憎しい男なのに。一秒でも胸が動いた自分が憎くて、醜くて、汚かった。
 穂乃花のためにある〝葉空ヨリ〟で、穂乃花を殺した男にほんのわずかでも心を動かされたことは、私の心を砕いた。

 
 数週間後に届いたものは、暗くなった心をさらに濁らせた。
 山吹出版から見本誌が届いていた。私がコラムを担当している雑誌で、巻頭の特集に憎々しい顔が見えたとき、呼吸が止まるかと思った。
 なぜ、秋吉のあとに、榎川までもが顔を出す。
 彼らのことはできるだけ考えないようにしていた。穂乃花を殺したのは私だと思い込ませて。
 雑誌に目を戻すと、榎川のミンスタグラムのIDが記載されている。見ても、どうしようもないのに。私は自然とIDを打ち込んでいた。
 十五年前につり上がっていた榎川の眉と目は、優しげだ。時代が変わり、メイクも流行りも変わった。時代が変わっても、その時代に合う垢抜け方をしている。
 あのとき穂乃花と榎川は隣に並ぶと、羨ましいほどぴったりで、親友に見えたのに。穂乃花と乖離してしまった。
 ナチュラルなメイクで穏やかな笑顔を携えた榎川は、十五年前からずいぶん変化している。握りしめた雑誌はぐしゃりとつぶれた。
 ……なぜこいつらは、順風満帆の生活を送っているのだろうか。
 私は震える指でキーボードを叩いた。【愛知県 F市 忠村一郎】と打ち込むと、彼は当然のように今も市議会議員として爽やかな笑みを浮かべている。
【こどものためのF市をつくろう!】とスローガンを携えた彼の隣には、真面目そうな男がうつっていた。
 どうやら彼は、忠村一郎の娘の婿であり彼の秘書をしているらしい。次回の市議会議員選挙に出ると噂だ。忠村の娘は、千尋しかいないはずだ。忠村一郎が孫と笑顔でピースをしている写真も見つかった。
 私はSNSを開き思い当たるワードを打ち込んだ。今から自分がすることは、知らなくてもいいことだ。知ってしまえば、もう戻れないことがわかっている。けれど調べずにはいられなかった。
 すぐに市古高校出身の同年代のSNSが見つかり、芋づる方式で簡単に涌田亜美は見つかった。
 彼氏らしき人とツーショットでうつった写真で、涌田は左手をこちらに向け、薬指には指輪が光る。
【誕生日にプロポーズしてもらいました!】
 涌田は四人の中ではあまりぱっとしない地味な女だったが、地味な女なりの最上級の幸せを手にするらしい。
 ……なぜ?
 穂乃花の人生は、十八で止まってしまったのに。
 なにごともなかったように、時は進んで幸せを掴もうとしているのだろうか。
 いじめをした人間は不幸になって、這いつくばっていないといけないのに。
 どうして、彼らは当たり前の幸せを掴むのだろうか。誰も一度も、穂乃花に線香もあげに来ない。お墓にも来ない。
 彼らは十五年の中で、一度でも穂乃花のことを思い出し悔んだりしたのだろうか。
 涌田の投稿を見ていて、手が止まる。
 榎川と忠村と涌田が三人でうつっている写真だ。半年前で、どうやら忠村の誕生日らしくケーキを囲んで笑っている。
【市古いつめん♡ しんゆー歴十五年てすご!】
 まるで穂乃花がいなかったみたいに。最初から三人だったみたいに。
 彼らの人生史のなかから、穂乃花は消されただけだ。消しゴムで消せば少しは跡が残る。だけど穂乃花はまるでそれすら許されないみたいに、打った文字を簡単にデリートされたみたいに消えてしまった。――穂乃花は完全に消えてしまった。
 どれだけ呆然としていたのだろう、インターホンが鳴った。
「須田出版からお荷物が届いています」
「ああ、はい、ありがとうございます。」
 須田出版から段ボールが届いた。新刊が即重版し、そのぶんの見本誌を送ると槇原羽菜から連絡があり、品物記入欄にもそう書いてある。
 予想通り、段ボールには見本誌が入っていた。見本誌を取り囲むように入っていたのは、大量の手紙――ファンレターだ。
 脳裏に、あの日穂乃花の遺体を包んでいた大量の花が思い浮かんだ。
 私は段ボールに倒れこむ。私の重みの衝撃でファンレターが何部か宙に浮き上がり、私にかぶさってくる。
 埋もれたまま、窒息しそうだ。
 許せなかった。秋吉も榎川も忠村も涌田も、そして自分自身も。
 全員に復讐をする。小田切明日葉にも制裁が必要だ。
 ……そしてもう、葉空ヨリを終わらせたい。
 穂乃花のために、穂乃花のような人をつくらないように、葉空ヨリはできた。
 それは私のエゴで、思い上がりだった。
 穂乃花のための小説は、一番救いたい人を救えない。穂乃花を救えない。穂乃花はもう帰ってこない。
 どれだけ小説を出版しても、葉空ヨリを肥し名誉をあげるだけで、穂乃花はもう二度と戻ってこないのだから。
 

「葉空ヨリを殺したかったの」
 私は彼女を見上げた。動揺している目がさらに見開かれる。
 私を神様のように見るその瞳が大嫌いだった。私を知ったように語る口が大嫌いだった。
 それなのに、なぜ大嫌いな彼女にすべてを明かしているのだろう。矛盾した行為に笑えてしまう。
 私を信じてここまで来た愚かさを突きつけてやりたくなったのかもしれない。あなたの見ている私はこんなにも醜いと傷つけたかったのかもしれない。
 何も知らなかっただけの彼女にこんな風に思う自分がまた嫌になる。
 だけど、もういい。だって、もうすべてを終わらせるから。