「な、なんですか……これは」
 声は震えていて音程もおかしくて言葉になっていなかった。
 本当に恐ろしいときは汗など一つも出ない。ただ、ただ目の前の文字を頭に入れることを拒否していた。
「終わりですね」
 編集部の誰かが呟いた。女性の声だが、それが誰なのか確認する余裕すらなかった。指先ひとつすら動かせないまま、編集長のノートパソコンを見つめる。
 視線が私に突き刺さるのは感じるが、誰も私を責めなかった。
 誰か責めてくれればいいのに。
 誰も何も言わずに、沈黙だけが続いている。
「……様子を見るしかないわね」
 きっと数秒の出来事だ。編集長がいつもの台詞を発した。
 空気はようやく溶けて、皆のろのろと自分の席に戻っていく。誰も私がいないかのようにすり抜けていく。
「編集長……」
 私の想いを代弁して、塚原さんが呟いた。
「匙は投げられた。あとは世の意見を待つだけね」
 編集長は青い顔で呟いた。
「ま、まあ! この小説、小田切さんとの思い出を語ってるだけかもしれないですよ。次話が更新されたら……」
 塚原さんが明るい声を出してくれたが皆の視線を受け、言葉が萎んでいく。
 今回更新された小説を前向きにとらえる人は誰もいない。
 明日葉は……ヨリ先生は、自分を助けてくれた家族のように大切な親友を裏切った。
 そして、それが彼女にとどめをさした。……そう捉えられる文章だった。
 ヨリ先生のことを擁護など、できない。
「……だれが」
 勝手に口が動いた。
「誰が芳賀穂乃花なの……」
 私は編集部を見渡した。一人一人の顔を見つめていく。声を発した私に視線は集まっていたけれど、私は視線が絡むと皆気まずそうにさっと目をそらした。
 最後に塚原さんを見た。
「まきちゃん。ちょっと早いけど、ランチでも行く?」
 優しく声をかけてくれるのはいつだって塚原さんだ。目にははっきりと同情が浮かんでいる。
「……だれが、芳賀穂乃花なんですか」
 私は塚原さんに向かって言った。いや、ほぼ叫んでいたかもしれない。
「だれが芳賀穂乃花なんですか!」
「まきちゃん、落ち着いて」
「わ、わたしが……」
 芳賀穂乃花の小説は、今頃拡散されている。何万もの人がこの小説を期待している。
 そして、彼らは芳賀穂乃花を殺したのは葉空ヨリだと感じるだろう。それが本当か嘘か事実を確かめるでもなく。
 手からカフェモカが滑り落ちて、床にぶちまけれられていく。
 その光景がスローモーションに見えて、私は茶色の中に崩れ落ちた。


 名前を公表しないことは、最後の砦だったかもしれない。これは〝芳賀穂乃花〟の罠だったのだ。
 とはいえ小田切明日葉=葉空ヨリ、だと信じない人も大勢いた。卒アルの小田切とヨリ先生は似ても似つかないからだ。しかし、榎川が証拠を投稿した。

【みなさん、今回はご迷惑をおかけして本当に申し訳ございませんでした。芳賀さん、小田切さん、ごめんなさい】

 榎川がミンスタグラムに投稿したのは、プリクラだった。
 芳賀穂乃花と冴えない女生徒――小田切明日葉が二人でうつっているものだ。卒アルではこちらを睨みつけてむすりとした表情の小田切明日葉は、プリクラではにこやかに笑っていた。
 ……その笑顔は、ほんの少しヨリ先生を感じられるものだった。
 目も鼻も体形も髪型も雰囲気はまるで違ったけれど、笑った時の口もとが似ていた。
「榎川……!」
 怒りの声が漏れた。自分が追い込まれたのなら、ヨリ先生も巻き込もうと思ったのだろう。一人で自爆していればいいのに、浅ましいことだ。ごめんなさいと言いながら、それはヨリ先生を叩けと笑っている投稿だ。
 過去のことを悔いることもなく、誰かのせいにしようとする。そんなことをしても自分が日の目をみることなど、二度とないのに。
 榎川が小田切の写真を晒したことに対して非難が集まっていたが、榎川が削除することはなかった。 
 浅ましいのは榎川だけではない。秋吉は自分をつけ狙っている週刊誌に、葉空ヨリと食事に行っていたことや、矛先を自分に向けようとラジオ局での密会を仕込まれたことを伝えていた。ワイドショーでは相手にされない妄言だったが、ゴシップ記事は妄想でも大々的に報じるらしい。
 秋吉のくだらない憶測は、事実に変わってしまう。
 秋吉や榎川を炎上させたのは、世間なのに。二人が落ちぶれたのは、葉空ヨリの策略だという人間も少なくなかった。
 SNSはもう見たくもない。
 見なくてわかる。葉空ヨリは、もう二度と表に立つことができない。
 

 私は謹慎処分を言い渡された。
 ここでクビにはならないところが、さすが大手出版社の正社員といったところだろう。
 二週間休みとなり、葉空ヨリに関して二度と関わらないように誓約書まで書かされた。それを破るとクビになるのだと思う。
 二週間後に戻ったとしても、第三編集部にはもう戻れないはずだ。
 塚原さんだけが気を遣って、社内の様子を教えてくれた。
 葉空ヨリとしての復帰は完全に不可能。ほとぼりが冷めれば、別名義での仕事は受ける。というものだ。きっとどの出版社も同じ対応を取るのだろう。
 ……〝葉空ヨリ〟は完全に消えてしまうことになった。

 
 芳賀穂乃花の最新話が投稿されて、私が謹慎となって三日目。塚原さんから電話がかかってきた。
 彼は私を元気づけようと、一連の件に関係ないことから話し始めたが、私はそんな気持ちにはなれずストレートに訊ねる。
「芳賀穂乃花は誰なんでしょうか」
「んー、ヨリ先生じゃなかったってことだよな……」
 塚原さんはしばらく唸ってから、考えるように言った。
「はい。さすがにヨリ先生もここまでしないと思います。自分の作家人生の終わりですよ」
「でも芳賀の最新話は、ヨリ先生しか書けないんじゃない」
「そうでしょうか。誰だって書けますよ。本当に幼なじみだったかもわからないですし、幼なじみだと知った人間が勝手に想像して脚色してるかも。それを否定できる人はいません。誰も小田切さんとは親しくなかったでしょうし、芳賀さんが亡くなっていて、ヨリ先生は否定できる立場にはいません」
「そうなると出版社の人間が怪しいってわけ?」
「何もわかりません。でも私はヨリ先生を信じているんです。きっと何か理由があったはず。……ところでヨリ先生はどうされていますか?」
 訊ねれば電話口からしばらくの沈黙が返ってきた。
「んー、伝えるか伝えないか迷ったけど。一応言っておく。……ヨリ先生と連絡が取れなくなった」
「えっ……!?」
 塚原さんによると、芳賀の最新話が投稿されてからヨリ先生と連絡が繋がらなくなったそうだ。編集長は私がしでかした投稿についての謝罪をしたかったがメールは返ってこず、電話も出ない。今まで連絡が繋がらなかったことは一度もなかったという。
 ヨリ先生にご家族はおらず、連絡を取れる相手もいない。塚原さんが他のヨリ先生の担当者に確認を取ったが、誰も連絡がつかないらしい。
「警察に届けたんですか?」
「いや、まだ三日だし……今回の件で心の整理がつかないだけじゃないかって」
「大丈夫なんですか!?」
「わからない。だからみんな心配はしてるよ」
「心配って……何かあってからじゃ遅いんですよ」
 私は口を抑えた。塚原さんは私を気遣って電話をかけてくれたのにこの言い方は適切でなかった。
「すみません」
「いやいいよ。俺も心配だからさ。だからこうしてまきちゃんに伝えてる。ヨリ先生のことを心から心配してるのはまきちゃんだけだから。まきちゃんならヨリ先生の支えになってくれるかもって」
「塚原さん……ありがとうございます」
 私はお礼を言って慌てて電話を切った。
 誰もヨリ先生の安否を確かめていないことは腹立たしかったが、私が誰かに怒る資格などないということは痛感している。私がヨリ先生を追い詰め、葉空ヨリを世間的に殺してしまったのだから。
 だからといって、このままヨリ先生の安否がわからないのは恐ろしい。どうせ出版社の面々は心配だね、と言いながら何もしない。大事になったときの責任など取れないからだ。
 着ていたジャージを脱ぎ捨てて、適当にその場にあったシャツとパンツを身に着けると、私は家を飛び出した。
 もうヨリ先生に関わるなと言われているけれど、ヨリ先生の命がかかっているのだから話は聞いていられない。解雇されても別に構わない。
 大通りまで出ると私は急いでタクシーに乗り込んだ。電車に乗っても三十分もあればヨリ先生のマンションには行けるが、一分でも早くヨリ先生の安否を確かめたかった。 
 ヨリ先生のマンションまで到着し、エントランスに進む。オートロックのインターホンでヨリ先生の部屋番号を押すが、返答はない。何度か押し続けたが、反応はなかった。
 広いエントランスの奥には、コンシェルジュが常駐している。私はカウンターまで行くと、男性のコンシェルジュに声をかけた。
「すみません、私須田出版の槇原と申します。葉空先生……小田切さんと予定があるのですが……」
「須田出版の方が、お越しになった場合こちらをお渡しするように伺っております」
 コンシェルジュは白い封筒を手渡した。何もロゴも入っていないシンプルなものだ。
「それから出版社の方がお越しになった場合の伝言も預かっております。葉空様はお引越しになりました。しばらく静かに過ごしたい、改めて連絡するまで待っていて欲しい、ということです」
「ど、どちらに引っ越されたのですか?」
「私も存じ上げません」
 コンシェルジュは柔らかく微笑み、これ以上何を聞いても無駄だとわかる。
 私は彼から離れると、エントランスのソファに腰かけ、ヨリ先生の封筒を開くことにした。
 きっと根津編集長宛だが、勝手に見ることの罪悪感などもうなかった。ヨリ先生のことを知りたいその一心だ。しかし現れた文字は――。

【まきちゃんへ。信じてくれたのにごめんなさい。ありがとう。葉空ヨリ】

 意外なことに私宛へのメッセージだった。目頭が熱くなり、文字がにじむ。
 ヨリ先生は、私がここまで来ることをわかっていたのだ。私がヨリ先生のことを信じていることを、信じてくれている。
 私がヨリ先生を窮地に追いやってしまったのに、私にありがとうと言ってくれている。
 せっかくヨリ先生からいただいた手紙なのに、私の瞳から落ちた水滴がぽたぽたと滲んでいく。
 ――私だけは、ヨリ先生を信じる。
 あの小説はヨリ先生を陥れたい誰かの策略だ。
 小田切明日葉について真実を含んでいたとしても、なにか理由があるはすだ。ヨリ先生はこんなに優しい人なのだから。
 ヨリ先生は、今どこで何をしているのだろうか。幸い私は謹慎中だ。時間だけはたっぷりある。ヨリ先生を探さなくては。あなたを信じると伝えなくては。
 私はポケットからスマホを取り出して、電話をかけた。
「もしもし、榎川さんですか。須田出版の槇原です。今よろしいでしょうか」
「槇原さん? ああ、葉空の担当者か。なんですか、もしかしてあたしに怒ってます?」
「プリクラの件は構いません。それよりも以前お願いしていた芳賀さんや小田切さんの実家、わかりましたか?」
「わかったけど……でも、どうするんですか? もう今さら意味なくないですか? 葉空も終わりでしょ?」
 諦めたような拗ねた口調が返ってくる。
「私は真実が知りたいんです。お願いします、教えてください」
「あたしにはもう関係ないから、まーいいですよ。送ってあげますよ」
「ありがとうございます。ところで先日更新された芳賀さんの小説は事実が書かれていたのでしょうか」
 榎川は考えているのか「うーん」とくぐもった声が聞こえる。
「小田切さんが穂乃花を殺したっていうのはよくわかんないです。でも、穂乃花がいじめられたきっかけはあってますよ。元々小田切さん、千尋の玩具だったんですよ。あ、あたしはクラス違ったからやってませんよ。それで三年も小田切さんをいじめようとした千尋に穂乃花がやめてって言ったのはほんとです。実はあたしの幼なじみだからって。千尋はおもしろくなかったみたいだけど、そのときはやめました」
「では三年のときに小田切さんのいじめはなかったと」
「クラス変わったばっかりだったし千尋も猫被ってたのかな。ま、とにかく小田切さんに対してあたしたちはなんにもしなかったですよ。千尋は嫌いみたいで悪口言ったりしてたけど、穂乃花の前ではなかった。でも、秋吉くんの件があって。私と穂乃花がもめてうまくいかなったとこに、千尋が実は私も穂乃花むかついてたんだよねって感じで、いじめが始まった感じですね」
「なるほど……では小説は事実なんですね」
「うん、だからあたしもあの小説を投稿してるのは小田切さんだと思ったの。でもあの感じじゃ小田切さんじゃないですよね。まさか葉空ヨリが小田切明日葉なんてねー」
「他に心当たりはありませんか」
 軽い調子でしゃべっていた榎川の声が固く変化した。
「あるとしたら……怖いんだけど、穂乃花の幽霊じゃないですか? 死んでも呪ってやる、みたいな。ちょっと怖くなってきたんです。だから穂乃花のお母さんに聞いてみてくださいよ」
「わかりました。では連絡先をお願いしますね」
「はいはい」
 電話を切るとすぐに榎川はメッセージをくれた。
 
 
 翌朝、私は午前中の新幹線に乗り愛知県に移動した。F市は名古屋駅から電車で一時間ほどのところにある。田舎というほどでもないが、車がないと不便などこにでもある地方の町だ。私の地元とも雰囲気が似ている。閉鎖的な村でもないのに、どこか窮屈さを感じられる町。
 芳賀さんはF市から二つ離れた市に住んでいるらしい。私は市古高校の最寄り駅を通り過ぎて芳賀さんが住む町に到着した。
 駅から直結の新しいマンションに芳賀さんは住んでいる。モダンなエントランスのオートロックで1003を押すと「はーい」と声がする。
「こんにちは。須田出版の槇原と申します」
「ああ、昨日電話をくれた編集者さん。どうぞ」
 柔らかな声が聞こえてきて、私は十階まで上がった。
 出迎えてくれたのは小柄な女性だ。丸い瞳は芳賀穂乃花を思わせる。
「お忙しいでしょうに、こんなところまでよく来てくださいました」
 彼女はスリッパを出しながら、好意的に私を受け入れてくれた。
 昨日、榎川から教えてもらった電話番号にかけたところ快く住所を教えてくれた。
 こうしてヨリ先生の担当者を招き入れてくれる時点で、芳賀さんがヨリ先生に悪意を持っていないことは明らかでほっとする。
 マンションは2LDKで、田舎にあるとは思えないオシャレな雰囲気のマンションだった。通されたリビングは窓が広く見晴らしもよく、広さも二十畳はある。芳賀さんの実家は裕福なのだろうか。
 芳賀さんは私をダイニングテーブルに座らせると、紅茶を出してくれた。
「少し散らかっててすみませんね」
 彼女の視線の先にはいくつかの段ボールが見えた。引っ越し用の段ボールだ。
「いえ、こちらが急におしかけたものですから。引っ越しされたところなんですか?」
「ええ、まあ。明日葉ちゃんが引っ越したらどうかって一ヶ前くらい前に手配してくれて。まだ片付けられていないのは恥ずかしいんですけど」
「ヨリ先生と……いえ、小田切さんとは今も親交があるんですか? 小田切さんが葉空ヨリ先生だとご存知だったのですよね」
 芳賀さんも私の向かいの席に座ると、頷く。
「明日葉ちゃんはずっと私のことも心配してくれているんです……槇原さんがここまで来てくださったのは、明日葉ちゃんが今大変なことになっているからでしょう?」
「そうです。……とおっしゃるということは、芳賀さんは小田切さんを恨んではいないのですか?」
「私が明日葉ちゃんを? 恨むわけないわよ」
 芳賀さんが目を見開くと、その顔は卒業アルバムの穂乃花そっくりに見えた。
「もちろん穂乃花を追い込んだいじめは許せない。だけどそれを明日葉ちゃんに押し付けるわけなんてないわよ。きっと穂乃花も。たしかに明日葉ちゃんは穂乃花のいじめを止められなかったかもしれない。だけど、明日葉ちゃんの状況で誰が止められるっていうの? 明日葉ちゃんが悪いのなら、私だって同じよ。娘の異変に気づけなかったんだから」
 芳賀さんは涙をこらえながら言った。
「明日葉ちゃんは十五年前からずっと穂乃花のことを悔やんでいて。それで、二度と穂乃花のような子が出ないようにってお話を書いてくれてるでしょう」
「はい、そうおっしゃっていました」
 ヨリ先生の言っていたことはまたひとつ〝本当〟だったと安堵する。
「それに明日葉ちゃんはその印税の一部を私に送り続けてくれてる。本当なら穂乃花がしていた親孝行を私にさせてって言ってくれるの。私も最初は断ったのだけど、それも明日葉ちゃんの贖罪になるのなら、と思って」
「そうだったんですね」
「だから、今明日葉ちゃんがバッシングを受ける意味がわからないの」
 芳賀さんは涙を目にためて、私を向いた。
「穂乃花の名前を騙って、明日葉ちゃんを貶めるなんて許せない。穂乃花も望んでいないことよ」 
「私もそう思っているんです」
 思わず食い気味に返答してしまったが、芳賀さんは嬉しそうにはにかんでくれた。彼女の瞳から涙がこぼれおちる。
「明日葉ちゃんのことを信じてくれている人がいてよかった」
「だから私に会ってくださったんですね」
「ええ。明日葉ちゃんをどうか守ってください。明日葉ちゃんは母子家庭の一人っ子だったけど、母を亡くしていて……だから私は明日葉ちゃんを子どものように思ってる。優しい子なの。今回私を引っ越しさせたのも、今回のことを予見をしてだと思う。F市に住んだままだったなら、忠村さんに何か言われるかもしれないし」
「地元の有力者なのですよね」
「ええ……本当に許したくない相手だわ」
 終始優しそうに見えた芳賀さんの顔が初めて歪んだ。
「明日葉ちゃんは十五年ずっと穂乃花と向き合ってくれていた。もう過去から解放されて幸せになってほしいのよ」
「芳賀さんから、今私に話してくださったことを公表することはできますか?」
「私に協力できることなら。私はもういいのよ。でも明日葉ちゃんはまだ若い。それに才能だってある。穂乃花みたいな子を小説の力で救ってほしい」
 芳賀さんの真剣な言葉に私の涙もせりあがってくる。
 そうだ、ヨリ先生の小説は人を救う。ここで終わらせてはいけないのだ。
 私は芳賀さんに、小田切明日葉を恨む人間がいないか、芳賀穂乃花と親しい人は他にいないかを、を訊ねた。芳賀さんは小説を更新し続けている〝芳賀穂乃花〟に心当たりはないそうだ。
 でも大丈夫だ。芳賀さんが、ヨリ先生に対して感謝こそすれ恨みはないこと。芳賀穂乃花も同じ気持ちであること。芳賀穂乃花のために十五年間小説を描き続けたと発表すれば、世間ではそれを美談と受け止めてくれるだろう。
  
 
 私はF市に戻ると、数日滞在予定のホテルにチェックインした。コンビニでお菓子をいくつか購入し、駅前でタクシーに乗りこむ。
 F市中心駅から車で二十分離れた場所まで移動する。車は坂道を上り、とある山の中に入った。木々が濃くなり途中で道が細く途切れたのでタクシーから降りる。
「このあたりのはずだけど……」
 私はスマホの地図を確認しながら細い道を進む。細いが人の手で整えられた道だ。ほんの一分も歩けば、見晴らしのよい墓地が現れた。
 私はカバンの中から紙を取り出した。指定された場所まで向かうと芳賀穂乃花の墓が見つかった。ペットボトルの水をかけて、芳賀さんが好きだったというチョコレートとポテト菓子をお供えする。小さく手を会わせて目を瞑る。
「芳賀さん、ヨリ先生をお守りください」
 小さな声で願うと、私は墓石の前に座り目を閉じた。
 ヨリ先生が、小田切明日葉さんが守りたかった芳賀穂乃花。そして、ヨリ先生の小説の源となり続ける人物。人懐っこい笑顔が思い浮かぶ。いじめを止める勇気のある美しい人。芳賀穂乃花を十五年愛し続けるのは納得ができた。
「……かゆ」
 私の腕にはいくつかの赤がぷっくりと浮き出ていた。最近の夏は熱さが強すぎて、蚊が本領発揮をするのはこの時期なのだろうか。明日は虫よけスプレーをしてこよう。
 どれほどその場にいたのだろうか。誰もこない墓地が紫に染まってきたところで、私は立ち上がった。五つも蚊にさされている。近くまでタクシーを手配しようとスマホを操作していると、がさがさと足音が聞こえてきた。
 まさか、と墓地の入り口に目をやれば、喪服のように黒いワンピースを着た女性が入ってきたところだった。
「……ヨリ先生!」
 一日目で会えてよかった、やっぱりここに来ると思っていた! ほっとして手を振ると、遠くに見える影は誰が手を振っているのか確認しているようだった。お互いの顔がよく見える位置までくると、ヨリ先生は私を見て固まった。
「……どう、してここに」
 ヨリ先生は私の後ろに置いてあるお菓子を凝視している。
「これですか? 穂乃花さんが好物だとお母様に聞いたので」
「……あなたの行動力を見誤っていたかも」
 そう言うヨリ先生の顔は険しくて、いつものように朗らかには笑ってくれなかった。ヨリ先生はくるりと私に背を向けると墓地の入り口まで戻っていこうとする。
「ま、待ってください! 私、お話があるんです」
 ごつごつした地面を蹴りながら、私はヨリ先生を追いかけた。墓地を出てからは急勾配の坂だ。走れなくなったヨリ先生に追いつき、肩をつかむ。振り返ったヨリ先生は怯えたような目で私を見た。
「勝手にここまで来てすみません。……でもヨリ先生のことが心配で。無事でよかったです」
 私が早口で笑いかける。ヨリ先生は笑い返してくれず、ビー玉のような瞳には何の感情も浮かんでいない。
「ヨリ先生、本当にすみませんでした。私が小田切明日葉さんだと名乗ったばかりに」
「いえ。名前を公表してほしいと言ったのは私だから」
「その結果、ヨリ先生を陥れようとした人間のせいで、このようなことに」
「陥れるって……あの小説に書いてあったことは事実よ。私は穂乃花を裏切った」
「裏切っていません!」
 暗くなってきた坂道で私の声がこだました。
「たしかに芳賀さんのことを助けられなかったかもしれません。だけど……仕方ないじゃないですか。助けたくても助けられないことはあるんです。悪いのは主犯の四人ですよね。四人と同様にヨリ先生が責められる必要なんてないんですよ! 誰があの小説を更新しているかわかりません。……だけどこのままヨリ先生が世間に勘違いされているのが嫌なんです!」
「勘違い?」
「はい。四人と違ってヨリ先生は何もしていないのに。先生を陥れたい人間の仕業です。でも安心してください。穂乃花さんのお母さまががメディアに出て説明すると仰ってくださいましたから! 小田切明日葉さんは、いじめに関与しておらず、ずっと穂乃花さんのことを大切に思っていた、と」
「…………」
 ヨリ先生は零れ落ちそうなくらい目を開いた。その瞳にはみるみるうちに涙がたまってくる。
「これで〝葉空ヨリ〟の名前も守れます。安心してください。ヨリ先生のファンもわかっていますから。ヨリ先生の内面は美しいひとだと」
 私が笑顔を向ければヨリ先生の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
 ヨリ先生に知ってほしい。あなたを信じてくれる人は大勢いるのだと。ヨリ先生は十五年間、ご自身を責め続けた。何も関与していないのにこうして今でも胸を痛めている。真面目で責任が強く、優しいヨリ先生は自分自身を許せなかったのだろう。
 私の想像通り、ヨリ先生は美しい人だったのだ。そんなヨリ先生を守れる自分が誇らしかった。
「おえ……」
「ヨリ先生?」
 ヨリ先生は嗚咽と共に口元を押さえて、しゃがみこんだ。
「……気持ち悪い」
「大丈夫ですか!?」
 顔を真っ青にしたヨリ先生の隣にしゃがみこもうとすると
「こないで!」
 ヨリ先生の厳しい瞳が私に付きささる。
「ヨリ先生どうしたんですか、気持ち悪いのですか?」
「……あんたにそうやってキラキラした瞳を向けられると、胃のものすべて吐き出しそうになる」
「え……?」
 私はしゃがみこむことも出来ず、下から睨みつけてくるヨリ先生をただ呆然と見つめた。
「私はきれいなんかじゃない。汚くて、自分のことばっかりな醜い人間。十五年前から何も変わっていない」
 私を睨む目と、卒アルでカメラを睨みつけてくる明日葉の瞳がどこか重なった。分厚い前髪の奥から睨むすべてを諦めながら理不尽さに怒りを感じているあの目だ。
「なにを言っているんですか。ヨリ先生が汚いだなんて」
「じゃあ教えてあげる。あなたが探している芳賀穂乃花は私だよ」
「ああ」
 身体の力が抜けた。
 ……なんだ、そんなことか。そんなことでヨリ先生を汚いと思うわけがない。私は笑顔を作る。
「むしろそうだったらいいな、て私思っていたんです」
「……なにが、」
「ヨリ先生は芳賀さんのために、今回のことを起こしたんですよね。復讐を悪いなんて思いませんよ。芳賀さんのために起こした優しさです。自己犠牲は大きすぎだとは思いましたが」
「ちがう」
 ヨリ先生の声は、初めて聞く冷たい温度だった。
「私が葉空ヨリを終わらせたかったから。そのついでに四人に復讐しただけ」
「な、なぜですか。なぜ終わらせようと?」
「言ったでしょ、葉空ヨリは醜い人間だから、もう終わりにしたいの」
 ヨリ先生はもう私を見なかった。木々を見ながら、淡々と答える。
「ヨリ先生は醜くありませんよ! ヨリ先生は十五年間、芳賀さんのために苦しみ続けてきました。それを小説という手段で光に変えてきました。その光に救われた人もいますし、私もそうです」
「光ってなに? 私に光なんてない。あなたは私ではなくて、誰を見てるの?」
 ヨリ先生の光のない瞳が私を見た。私の前にいるのは〝葉空ヨリ〟だ。
「葉空ヨリは存在しないよ」
 私の心中を読み取るようにヨリ先生は声をあげた。
「ここにいる小田切明日葉はただの醜い人間。小田切明日葉を美しいと、あなたは言えるの?」
 私は目の前にいるヨリ先生をを見つめた。
 朗らかな笑顔は消えて、乾燥した唇はぎゅっと結ばれている。いつも優しい瞳は温度をなくしている。ほとんどメイクはしておらず、くたびれているヨリ先生だ。
 脳裏に浮かぶのは、卒業アルバムでこちらを睨む小田切明日葉。
「私は穂乃花を殺してしまった」
「ヨリ先生がご自身を責める必要なんてないんですよ! ヨリ先生はいじめに関与していないと聞きました。榎川も芳賀さんのお母様も!」
 ヨリ先生の反応はない。
 必死に訴えれば訴える分だけ、ヨリ先生と距離があいていくようだ。
「それに芳賀さんのことを、たくさんお話にしていらっしゃるんですよね。芳賀さんも、そしてそのお話に読んだたくさんの人も救われています。ヨリ先生は命を救っているんですよ!」
 最後まで私が言い終えたときには、ヨリ先生は嗚咽と共に胃の中のものを吐き出した。
 私が慌てて背中をさすると、ヨリ先生の身体は小さく震え、息を大きく吸っているのが分かった。少し息を整えたヨリ先生は私の手を振り張った。
「やめて、そんな、きれいごと……! そうやって。私を勝手に信じないでよ……! なに、も、しらないくせに」
 息をぜえぜえと吐きながら言葉を吐く。
「私がどうして苦しいかも知らずに。あんたにそうやって信じ込まれるたびに……おえっ」
 ヨリ先生は口元をぬぐいながら、私を睨んだ。
「私に葉空ヨリの理想を押し付けて、そこに小田切明日葉がいることも考えずに……!」
「私が、理想を、ヨリ先生に……?」
「私はまったくきれいなんかじゃない、醜いんだから……」