すべてのピースがカチリとはまった気がした。
 そうだ、ヨリ先生が誰かに憎まれているわけない。
 芳賀穂乃花を自殺に追い詰めたわけがない……!
 ヨリ先生は――芳賀穂乃花を追い詰めた四人に復讐しようとしただけだったのだ……!

 
 芳賀さんと小田切さんは幼なじみだったらしい。多分家が近いか親が仲いいかどちらかじゃない、と榎川は言った。
「小田切さんはかなり暗くて。誰も友達がいない感じ。いつも一人で本読んでたかなぁ? 二人に共通点とかなさそうでしょう? だからあたしたち聞いたんです。なんで友達なの?って。そしたら幼なじみって言ってました。意外だったからそれはよく覚えてる」
 榎川はヨリ先生が小田切明日葉だとは想像もしていない様子で語る。ヨリ先生の言っていたことに嘘はなく、榎川も小田切明日葉のことをクラスの隅でひっそりしていて誰の記憶にも残らないような少女だと言った。
「小田切さんの今はまったく知らないです。同窓会にも来たことないし、地元にいるのかもわかんない」
「でもあの小説を止めるには、芳賀穂乃花を探すしかないんです。小田切さんについて何か思いつく点があれば教えてもらってもいいですか」
「絶対あの人が犯人だと思う」
 榎川は確信したように呟く。
「千尋なら知ってるかも。地元情報に詳しいから。てかお父さんに聞いたら調べられると思うし」
「芳賀さんや小田切さんの実家が調べられるといいかもしれません」
「わかった。実家はまだ地元にあるだろうし。じゃあ千尋に聞いたら連絡しますから、小田切さんの暴走とめてもらえます? 小田切さんが謝罪して嘘でした、て言ったら、なんとかなるかもですし」
 そのあと私は榎川との会話を適当に終わらせて、カフェを出た。
 たとえ〝芳賀穂乃花〟の正体がわかったところで、榎川たち四人の好感度が戻るとは思えない。過去のSNSの記事はとても捏造とは思えないし、彼らが行ってきたことは事実なのだから。
 だけどヨリ先生は違う。ヨリ先生は世間の声から救うことができる……!
 家まで歩きながら、集めたパーツを組み立てていく。
 ヨリ先生が〝芳賀穂乃花〟だった。
 だとすれば様々なことの辻褄が合うのではないだろうか。
 きっと半年前、ヨリ先生は秋吉に声をかけられたときに復讐を思いついたのだ。でなければヨリ先生が秋吉についていくはずはない。秋吉のような男を素敵だと思うはずがない。
 秋吉の現状をきいて、彼がブレイクするのが許せず、主犯の三人の状況も追ってみたのだろう。有名な榎川や忠村だけでなく、彼女たちのSNSアカウントをたどればどこかで涌田の現在も知ったのかもしれない。
 しかし、復讐を計画したとして。
 これからブレイクしていく秋吉や榎川は話題性に足りない。売れていない俳優と単なるインフルエンサーの十五年前のいじめはそこまで大きなニュースにならなかっただろう。大きな話題にならなければ、忠村の父親にもみ消されてしまうかもしれない。目立つ職業についていない涌田を告発したところで、何にもならない。
 だけど、それがいじめを題材に描いている、誰もが知っているベストセラー作家だったら……!?
 そして今、実際に四人には大きな制裁が下っている。
 身体がぶるりと震えた。口元が緩むのを抑えられない。
 ――ヨリ先生は、私が思っていた通りの人だった。
 ヨリ先生がいじめに加担などしているわけない。芳賀さんを死に追いやったわけがない。ヨリ先生はずっと親友の復讐のチャンスを狙っていたのだ。
「そのためにヨリ先生は自分を犠牲にしたの……」
 思わず足を止めて呟いた。
 自分の知名度を使って、いじめを告発する。それはヨリ先生の思惑通りに成功した。
 だけど……これではヨリ先生も共倒れじゃないか。
「ヨリ先生はそこまでして……」
 ヨリ先生は、芳賀さんの自殺のもとにいじめを題材とした小説を書いていると言っていた。きっと芳賀さんを救えなかったことをヨリ先生はずっと悔やんでいたのだ。
「自己犠牲が過ぎますよ」
 呟きは涙に変わる。ヨリ先生を信じていてよかった。だけどこれではあんまりじゃないか。四人への復讐は成功しても、ヨリ先生は……!
 私はSNSで〝葉空ヨリ〟と検索してみる。

【いろんな出版社が刊行中止発表し始めた】
【蛾♡観察日記を書いた大先生ですからww】
【いじめの主犯が書くいじめの小説に感動してた人たち、どういうきもち?】
【信じられない。ヨリさんのことずっと尊敬して、小説に救われてたのに】
【つらい 葉空ヨリに裏切られた死にたい】

 ……悔しい。どうして誰もヨリ先生のことをわかってくれないのだろう。なぜファンまでもが信じられないのだろう。
 ――小説を読めば、わかることじゃないか。
 ヨリ先生が人を殺すわけがない。ヨリ先生は人を救う人なのだ。そしてこれからも救わなくてはならない。
 私はスマホを取り出すと根津編集長に電話をかけた。
「はい、根津です。どうした、まきちゃん」
「編集長。ヨリ先生を救いましょう」
「……どうかしたの」
「小田切明日葉さんは、芳賀さんの親友だったそうです! 榎川が証言しました」
「……え?」
 戸惑っている雰囲気の編集長の声が聞こえる。私は頭に浮かんだことをすべて話した。
 電話口の向こうで、編集長の息を飲む音が何度か聞こえた。
「そう。……そうだったの。ヨリ先生……」
 心なしか編集長の声が弱弱しい。
「ですから大丈夫です。小田切明日葉について批判があるわけないんです。芳賀穂乃花はヨリ先生だったんですから。だから編集長、ヨリ先生は小田切明日葉で、涌田亜美ではない、と公表しましょう」
「小田切明日葉さんがいじめに関与していないことはわかった。だけど、ヨリ先生が涌田でない証拠は?」
「それも榎川が証言しました。涌田は地元を出ているそうですが、顔も卒アルから変わっていません。榎川が三ヵ月前に集まったときに撮った写真を見せてくれました。涌田も涌田で今大変みたいですよ」
「そう、だったのね。ヨリ先生の想いはわかった。私も今ヨリ先生が責められていることはつらい。――でも、様子を見ましょう」
 また……様子を見る……?
「なぜですか!? ヨリ先生への悪評は日に日に加速しています! 私たちがヨリ先生を守らないと!」
「急いでも仕方がないからよ。もう少し落ち着いてから、涌田ではなく小田切明日葉だと公表しましょう」
「だけど……! 今が一番話題なんですよ、今否定しないと……!」
 誤報でも、過激な内容は驚くほどのスピードで広がっていく。話題の頂点でいるときでないと、誤報だと完全否定することができなくなる……!
 一度広がってしまったあとに「あれは間違いでした」と言っても、それは広まりにくい。過激であれば過激なほど情報は広まり、正しい情報だからといって同じくらい広がるわけではない。
 誰も無責任に受け取っていくのだ。……今、話題のうちに否定しないと。落ち着いたときに、涌田は葉空ヨリではありませんでした、と言っても。多くの人の中に、葉空ヨリはいじめの主犯格だった、という情報が残ってしまうのだ。
 私はそれを涙ながらに編集長にぶつける。
「まきちゃん。冷静になって考えてみましょう」
「わかりました」
 編集長はヨリ先生のことを信じてくれていない、それがよくわかった。
 ヨリ先生がなぜ小説を書くのか。
 その理由がわかったのだ。芳賀穂乃花のためだ。それならわかるだろう、ヨリ先生がいじめに関与していないと言うことくらい。
「そうね。ヨリ先生とも改めてお会いする機会を作りましょう。なぜこんなことをしてしまったのか」
「なぜって芳賀さんのためじゃないですか」
「ヨリ先生は芳賀さんのご友人で、彼女のために動きたかった理由もわかる。だけどヨリ先生がしたことは善行だとは言い切れない。復讐をして彼らに制裁を下すように仕向ける。感情論では理解できるし、私個人としてはわかるのよ。でも、須田文庫の編集長として、業務上のパートナーとしては受け入れられないの。今回のことは取引先も大きく巻き込むことで、リスクも考えずにご自身の復讐に走られたのなら……それは肯定できない」
 怒りでスマホを投げつけたくなった。リスクばかり考えてヨリ先生を救おうとしないのに、自分たちに不利益が出たことに対しての責任だけは取らせようとするのか!
 須田出版はヨリ先生を守るつもりも、責任もないのに。
「わかりました。明日ご相談させてください」
「ちょっと、まき――」
 私は返事を待たずに電話を切った。これ以上編集長の声を聞きたくなどなかった。
 須田出版はヨリ先生の味方ではない。ヨリ先生が小説を書いたきっかけはこの件が根っ子にあるのだ。それならば、過去についても深く理解するのが編集者ではないか。今回の出来事に対して責任を押し付けるようなことは決して許されない!
「編集長も、須田出版もだめだ。……私がヨリ先生を守らないと」
 別に私はこれからどうなったってよい。私が責任を取ってでも、ヨリ先生を守る。私は須田出版の社員ではなく、槇原羽菜としてヨリ先生を大切にするだけだ。
 私はSNSを開くと、自身のアカウントから須田文庫のアカウントに切り替えた。

【お知らせ 弊社で書籍を刊行されている葉空ヨリ先生について
 現在、葉空先生について様々な憶測が飛んでおります。
 葉空先生の本名について弊社にもたくさん問い合わせをいただいております。事実無根の誹謗中傷が続いたため、葉空先生とも相談のうえ、噂をされている人物とは異なることをご報告いたします。葉空先生は〝小田切明日葉〟さんです。
 個人を貶める内容の投稿、ならびに拡散について、固く禁じます。悪質な投稿、記事の拡散につきましては法的措置を検討いたします】

 文章を打ち込むと先日撮っておいた社内のデータベースのスクショを添付して、私は力強く投稿ボタンを押した。
 ヨリ先生は私が守る。
 すぐにスマホの電源は落として、自宅に戻った。
 
【え、小田切明日葉ってこれ?】
【うわまじか、意外】
【面影ないじゃんwww】
【葉空ヨリ整形確定】
【でも小田切が芳賀をいじめられるか? どっちかていうと小田切いじめられるほうだろ】
【絶対できない。葉空ヨリを犯人にしようと思った人の仕業】
【葉空ヨリを涌田亜美だと叩いてた人、訴えられるんじゃない?】
【整形なのはちょっとショックだけど、ヨリ先生が芳賀さんいじめてなくて本当によかった】
【あの恐ろしいブログの主だったらヨリさんの小説読めなくなるところだった】
【じゃあ涌田亜美はまだ見つかってないだけ?】
【てか涌田最低だな。自分のせいで葉空が叩かれてんのにスルーかよ】
【やめようよ、もう、犯人探し。また誰かを追い詰めるだけだって】
【葉空先生叩いてたひと、謝って!】

 世の中の声は、私の想像通りに進んでくれた。
 今後はヨリ先生が芳賀さんのために小説を書いていたことをエッセイや何かしらで語れば。きっとヨリ先生の好感度は戻っていく。
 大きく息を吐く。やはりこのタイミングが正解だった。むしろこのタイミングでなければヨリ先生を救うことなんてできない。
 ずっとスマホが震えている。きっと編集長や塚原さんからお叱りの電話だ。
 どれだけ叱られてもいい。私はクビになったとしてもいいのだ。ヨリ先生を守ることが出来たなら。私は久しぶりにぐっすり眠ることが出来た。


 出社してすぐに私は会議室に呼び出された。静かな会議室のなかで、根津編集長が厳しい顔をして立っている。
 私にはもう何も恐れるものなどない。編集長に向かってまっすぐに進む。
「槇原さん、なぜ呼び出されたかわかっていますよね」
 根津編集長はいつものように砕けた口調ではなかった。
「はい」
「アカウントを個人の考えで使うことを許可した覚えはありません」
「ヨリ先生の担当編集者として当然のことをしました」
「はあ……。もう投稿してしまったからには仕方ないけれど。削除することもできないし」
 一度投稿された須田文庫のSNSは瞬く間に拡散された。普通の呟きと違って公式アカウントの発言は、一度発してしまったら削除もできない。
「アカウントのパスワードは変更しました、今後の槇原さんに権限はありません」
「わかりました」
「それからヨリ先生の担当からは外れてもらうことになります。今後ヨリ先生との連絡も禁じます。ヨリ先生には私から謝罪しておきます」
「わかりました」
 ヨリ先生が望んで私に依頼をしてくれたことなのだから謝罪など必要あるのだろうか。私はヨリ先生のために行っただけだ。
「話は以上です。他の先生への対応をおろそかにしないように」
 何か処罰でも下されるかと覚悟していたけれど、厳重な注意と担当を外されることだけで済んだ。
 結局社員であれば守られる。私よりもヨリ先生の方がずっと価値があるというのに。須田出版の社員というだけで。
 会議室から出ると、白いシャツの男性が私を待ち構えていた。片手をあげて「お疲れ」と笑顔を作る彼は塚原さんだ。
「やらかしたねー」
「からかいにきたんですか。私はしたことを後悔していませんよ」
「落ち込んでいるかと思って励ましに来たけど、その必要は全然なさそうだ?」
「正しいことをしたと思ってますから」
 私はそれだけ言って廊下を進むが、塚原さんは隣に並んでくる。
「今回はまきちゃんが正解かもね。昨日SNSを見てたけど、見事にヨリ先生の疑いが晴れたって感じする。昨日まきちゃん、榎川と会ったんだろ? 俺にもその話聞かせてよ」
「なんで知っているんですか」
「昨日まきちゃんが編集長に電話をかけたときに隣に俺がいたから。今から少しだけお茶どう? 一杯奢るよ」
 塚原さんは、私の行為をプラスに捉えてくれているらしい。
「わかりました」
 私は榎川から聞いたことを話した。口からすらすらと言葉が飛び出してくる。私も誰かにヨリ先生の素晴らしさを語りたかったらしい。ヨリ先生は芳賀さんのために自分の身を削って告発したと。
 ビルの一階にあるコーヒーショップに向かうために、私たちはエレベーターに乗り込んだ。
「へえー、まきちゃん探偵みたいだね」
「榎川が幼なじみだと教えてくれただけですよ」
「それで復讐のために、自分自身を使ったのかあ。ヨリ先生ならそれくらいしそうだな。あ、まきちゃんメニュー決まってる? モバイルオーダーしとくわ」
「じゃあカフェモカのトールで」
「おっけー」
 塚原さんがスマホに打ち込む様子を見ながら、安堵する。編集長は立場があるから、私を叱るしかなかったが私の行為は間違っていなかったのだ。
 一階のコーヒーショップに入り、適当な席に座ると塚原さんがプラスチック容器に入ったコーヒーを渡してくれる。
「はい。カフェモカ」
「ありがとうございます」
 塚原さんはイチゴのスムージーを飲みながら、
「個人的にはよくやった、と思うけど。まきちゃんはもうちょい立ち回りうまくなったほうがいいかもね」
「空気をよんでたらヨリ先生のことは守れません」
「出た、ヨリ愛」
 塚原さんは笑うけど、嫌な含みはない。私もようやく笑う余裕ができた。ここ最近ずっと顔がこわばっていたかもしれない。
「てか担当外されたんでしょ。まきちゃん、部署異動あるかもね。ま、結構叱られたなら他の部署のがやりやすいかも」
「ヨリ先生の担当でないのならどの部署でも私は構いませんよ」
「はいはい。でも本当これ以上暴走するなよ。俺もかばいきれないから」
「それは……すみません」
 塚原さんが十分ほど話に付き合ってくれたから張り詰めていた心も溶けていく。ひとまずヨリ先生を守れたのだ。これから気持ちを入れかえて他の仕事をきちんとしよう。
 私は残ったカフェモカを持ち、エレベーターに乗った。
「塚原さん、ありがとうございました」
「いいよいいよ。あ、俺も根津さんに用事があるから第三寄ってくよ」
 私たちは同じフロアで降りて、第三編集部のあるオフィスに向かった。
 オフィスに入ってすぐに、強烈な違和感を感じた。私のいじめが始まったあの日の朝のような大きな違和感。
 いつもガヤガヤとしているオフィスは静まり返り、十名ほどの社員が皆編集長の元に集まっていた。それは異様な光景で、隣にいる塚原さんも不思議そうな表情を向けている。
 皆が一斉に顔を上げて、私を見た。
 冷たい針のような視線だ。
 誰も何も発さないが、私を射抜くように見ている。
 まるで時がとまったみたいに静かだった。
 昨日の投稿を咎めるにしては、空気があまりにも重すぎる。
「なになに、どうしたんですか?」
 塚原さんが軽い口調で皆に微笑みを向けるが、彼も異様な空気に気押されて口元がひきつっている。
「大変なことになったわ」
 編集長が重い口を開いた。
 この騒動が始まってからこのセリフを聞くのは何度目だろうか。けれど、これほどまでに嫌な予感がするのは初めてだ。

「芳賀穂乃花の小説が更新された。――私は小田切明日葉に殺された、と」