三日経ち、私はようやく退院することになった。
母は仕事を休み、私の代わりに荷物をまとめて退院の準備をしてくれた。申し訳ないな、と思っていると、私の胸の内を見透かしたみたいに「仕事より娘のほうが大切だよ」と言い切った。
もう反抗期は過ぎているけれど、私たちはよく親子喧嘩をする。お母さんが私を怒ることもあれば、私が怒ることも多々ある。
この前も、三者面談の後に口喧嘩になった。私を「ひーちゃん」と呼ばないでほしいとあらかじめ釘を刺しておいたのに担任の前で堂々とあだ名で呼んできたのだ。
でも、今回の入院の件はさすがに申し訳なくて、もう少し親孝行してあげようかなという気になった。
「佐々木さんもひーちゃんのことを心配してたよ。大阪行き、早めたほうがいいんじゃないかって」
「……佐々木さん? 大阪って?」
「佐々木さんのことも忘れちゃったの!?」
お母さんは血相を変え振り返った。眉間にくっきりと皺が寄っている。
その形相に戸惑いつつ、必死に「佐々木さん」を思い出そうとするけれど、やはり全く心当たりが無い。
「ごめん。本当に誰だっけ? お母さんの知り合い? この前の『西さん』とは違う人なの?」
呆気にとられながら謝ると、お母さんははっとして気まずそうな表情を浮かべる。私の質問には答えず、着替えや日用品を詰め込んだボストンバッグを肩に提げた。
「ねえ、誰のことなの?」
でも私は食い下がった。
「話すのは落ち着いたらにしよう。心療内科も予約してあるから、よく診てもらおうね」
「うん……」
退院後、私はまた病院に来てリハビリを受ける予定だ。それから、心療内科にもかかることになっていた。脳の検査をしてもらう予定だ。
「さ、ナースステーションに挨拶しに行くよ」
お母さんにドアを開けてもらって、私は数日寝泊まりした病室を後にした。
「――いい?」
路肩に軽自動車を止め、母は私を睨む。
同じ高校の制服を着た生徒たちが車の脇を通り過ぎていく。車内にいても「おはよー」と挨拶し合う彼らの声が聞こえてきた。
「お母さんは仕事があって迎えには行けないから、人通りの多い道を歩いて帰ってきてね。商店街のほうは絶対に通らないでよ。また階段から転ぶかもしれないし、手が使えないんじゃ、変な人に狙われても逃げられないんだから」
怪我をしているからという理由で、毎朝母に学校へ送ってもらうことになった。
過保護だ。友達に見られたら恥ずかしい。
そう抗議したけれど、私の意見は無視されてしまった。夕方はどうしても仕事で会社を抜けられないというので、帰りだけは今まで通り、徒歩で帰ることになっている。
「はーい」
生返事をして車から下りようとすると、「ちゃんと聞いてるの!」と怒られてしまった。
「商店街のほうは絶対に通らないでよ!」
「わーかったって! 送ってくれてありがと! じゃあね!」
スクールバッグを右手に母の軽から脱出し、校門を目指す。
五月末の空はぴかぴかに輝いていて、爽やかな気持ちになる。その反面、まだ朝だというのに、すでにうんざりするような外気温となっていた。
でも、私はうきうきとしていた。約一週間ぶりの学校だからだ。
入院中も親しい友達とはラインでやり取りしていたけれど、やっぱり実際に顔を合わせておしゃべりするほうがずっと楽しいに決まっている。
「宮ちゃーん!」
「久しぶりー!」
あだ名で呼ばれ、通過したばかりの正門を振り返る。
私を見つけて走ってくるのは、同じクラスの千秋と友理奈だった。白いセーラー服の上衣が日差しを反射して少しまぶしい。
学校では、私は「宮ちゃん」と呼ばれている。
苗字である「成宮」の「宮」を取って「宮ちゃん」。「光莉」とは呼ばれない。同じ名前のクラスメイトがいるためだ。ややこしくなってしまう。
「あれ、今日は朝練無いの?」
千秋と友理奈は吹奏楽部の部員で、ほぼ毎朝練習があるはずだ。でも今は楽器を持っていない。
「今日は顧問が半日出張だから、朝練は休みなんだ。宮ちゃん、三日くらい休んでた? 手はもう大丈夫……、じゃないね」
包帯の巻かれた私の左手を見下ろして、二人は「痛そー」と眉をひそめる。
「薬貰ったからそんなに。それより」
私は二人に訊きたくてたまらないことがあった。
「文化祭に山田先生にカレシが来てたって、ほんと?」
「ほんとほんと! でも写真撮らせてもらえなかった」
「えー、見たかったのに! どんな人だったの?」
「うーん。優しそうな人?」
「それあんまり褒めてないやつ」
三人でけらけら笑いながら昇降口へと向かう。
担任の山田先生と彼女のカレシがショッピングモールでデートしている姿も目撃したことや、夏休みにクラスのみんなで遊園地に行こうという話が出ていることを教えてもらった。
話に花を咲かせたそのままの声のトーンで、千秋が「そういえば」と切り出す。
「全校集会があったんだけどさあ、学校の近所で不審者が出たらしいよ」
「げ、不審者?」
物騒な単語に、私は思わず顔をしかめた。
母は仕事を休み、私の代わりに荷物をまとめて退院の準備をしてくれた。申し訳ないな、と思っていると、私の胸の内を見透かしたみたいに「仕事より娘のほうが大切だよ」と言い切った。
もう反抗期は過ぎているけれど、私たちはよく親子喧嘩をする。お母さんが私を怒ることもあれば、私が怒ることも多々ある。
この前も、三者面談の後に口喧嘩になった。私を「ひーちゃん」と呼ばないでほしいとあらかじめ釘を刺しておいたのに担任の前で堂々とあだ名で呼んできたのだ。
でも、今回の入院の件はさすがに申し訳なくて、もう少し親孝行してあげようかなという気になった。
「佐々木さんもひーちゃんのことを心配してたよ。大阪行き、早めたほうがいいんじゃないかって」
「……佐々木さん? 大阪って?」
「佐々木さんのことも忘れちゃったの!?」
お母さんは血相を変え振り返った。眉間にくっきりと皺が寄っている。
その形相に戸惑いつつ、必死に「佐々木さん」を思い出そうとするけれど、やはり全く心当たりが無い。
「ごめん。本当に誰だっけ? お母さんの知り合い? この前の『西さん』とは違う人なの?」
呆気にとられながら謝ると、お母さんははっとして気まずそうな表情を浮かべる。私の質問には答えず、着替えや日用品を詰め込んだボストンバッグを肩に提げた。
「ねえ、誰のことなの?」
でも私は食い下がった。
「話すのは落ち着いたらにしよう。心療内科も予約してあるから、よく診てもらおうね」
「うん……」
退院後、私はまた病院に来てリハビリを受ける予定だ。それから、心療内科にもかかることになっていた。脳の検査をしてもらう予定だ。
「さ、ナースステーションに挨拶しに行くよ」
お母さんにドアを開けてもらって、私は数日寝泊まりした病室を後にした。
「――いい?」
路肩に軽自動車を止め、母は私を睨む。
同じ高校の制服を着た生徒たちが車の脇を通り過ぎていく。車内にいても「おはよー」と挨拶し合う彼らの声が聞こえてきた。
「お母さんは仕事があって迎えには行けないから、人通りの多い道を歩いて帰ってきてね。商店街のほうは絶対に通らないでよ。また階段から転ぶかもしれないし、手が使えないんじゃ、変な人に狙われても逃げられないんだから」
怪我をしているからという理由で、毎朝母に学校へ送ってもらうことになった。
過保護だ。友達に見られたら恥ずかしい。
そう抗議したけれど、私の意見は無視されてしまった。夕方はどうしても仕事で会社を抜けられないというので、帰りだけは今まで通り、徒歩で帰ることになっている。
「はーい」
生返事をして車から下りようとすると、「ちゃんと聞いてるの!」と怒られてしまった。
「商店街のほうは絶対に通らないでよ!」
「わーかったって! 送ってくれてありがと! じゃあね!」
スクールバッグを右手に母の軽から脱出し、校門を目指す。
五月末の空はぴかぴかに輝いていて、爽やかな気持ちになる。その反面、まだ朝だというのに、すでにうんざりするような外気温となっていた。
でも、私はうきうきとしていた。約一週間ぶりの学校だからだ。
入院中も親しい友達とはラインでやり取りしていたけれど、やっぱり実際に顔を合わせておしゃべりするほうがずっと楽しいに決まっている。
「宮ちゃーん!」
「久しぶりー!」
あだ名で呼ばれ、通過したばかりの正門を振り返る。
私を見つけて走ってくるのは、同じクラスの千秋と友理奈だった。白いセーラー服の上衣が日差しを反射して少しまぶしい。
学校では、私は「宮ちゃん」と呼ばれている。
苗字である「成宮」の「宮」を取って「宮ちゃん」。「光莉」とは呼ばれない。同じ名前のクラスメイトがいるためだ。ややこしくなってしまう。
「あれ、今日は朝練無いの?」
千秋と友理奈は吹奏楽部の部員で、ほぼ毎朝練習があるはずだ。でも今は楽器を持っていない。
「今日は顧問が半日出張だから、朝練は休みなんだ。宮ちゃん、三日くらい休んでた? 手はもう大丈夫……、じゃないね」
包帯の巻かれた私の左手を見下ろして、二人は「痛そー」と眉をひそめる。
「薬貰ったからそんなに。それより」
私は二人に訊きたくてたまらないことがあった。
「文化祭に山田先生にカレシが来てたって、ほんと?」
「ほんとほんと! でも写真撮らせてもらえなかった」
「えー、見たかったのに! どんな人だったの?」
「うーん。優しそうな人?」
「それあんまり褒めてないやつ」
三人でけらけら笑いながら昇降口へと向かう。
担任の山田先生と彼女のカレシがショッピングモールでデートしている姿も目撃したことや、夏休みにクラスのみんなで遊園地に行こうという話が出ていることを教えてもらった。
話に花を咲かせたそのままの声のトーンで、千秋が「そういえば」と切り出す。
「全校集会があったんだけどさあ、学校の近所で不審者が出たらしいよ」
「げ、不審者?」
物騒な単語に、私は思わず顔をしかめた。