昼食の時間になると、雲間からほんの少しだけ青空がのぞいた。
その頃には夢を回想することのできないもどかしさとともに、夢を見ていたことすら思い出せなくなっていた。今週末開催される文化祭に参加できないショックが大きすぎた。
私の記憶の一部が抜け落ちていることに、お母さんはもちろん驚いたし「文化祭の心配をしている場合ではない」と腹を立てた。手術してくれた整形外科の先生に心療内科での診察をすすめられ、予約をとることになっている。
上体を起こし、パルスオキシメーターや点滴から解放された右手だけでなんとか病院食を食べ終える。介助してくれた母がトレーを持って室外へと出て行く。食器を下げるついでに、彼女も食堂に向かうという。私は病室に一人取り残された。
ぐるぐる巻きの左手をながめる。
なんと、私の左手首の骨は折れてしまっているそうだ。
鎮痛剤のおかげで痛みは感じないけれど、急に片手が使えなくなったせいで不便で仕方がない。スマフォすら操作しにくい。骨折した時のことを覚えていないというのも、狐につままれたような気分になる。
お母さんやお医者さんの話によると、私は階段から落ちたらしい。
商店街から少し逸れた場所に、長い石造りの階段がある。その上から落ち、左手をついてしまったそうだ。
手首を骨折し、救急車で運ばれ全身麻酔をして手術したのだけれど、なんと、麻酔をかける前まではちゃんと意識があったらしい。あまりの痛みに、私は号泣していたという。
でも、麻酔が切れて意識が戻った今、前後の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっていた。
妙な気分だった。みんなで私にドッキリをしかけているのではないかと勘繰ってしまう。
リクライニングベッドにもたれてため息をついていると、コンコンコンと控えめなノックが聞こえた。看護師さんはノックした後すぐに入室してくるから、お母さんだろうと思った。
食堂で食事をしていた割には戻ってくるのが早すぎる。財布を忘れたのかもしれない。
「ひーちゃん?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、やはりお母さんの声だった。
室内に入ってくる気配は無い。
「お母さん、どうかしたの?」
「あのね、ひーちゃんのお友達がお見舞いに来てくれたんだけど、会える?」
「お見舞い?」
わざわざお見舞いに来てくれるような友達ということは、千秋や友理奈だろうか。二人はクラスメイトだけど、文化祭に参加できないことを謝る必要は私には無い。
彼女たちも、ベビーカステラ屋さんの手伝いはほとんどできないからだ。二人とも吹奏楽部の部員で、ステージ発表があるからしかたがない。
謝る必要は無いけれど、練習の合間を縫って来てくれたのだと思うと嬉しくなった。
「ちょっとだけ待ってて!」
床頭台の上にポンと乗せられていた自分のスクールバッグを手繰り寄せ、手鏡とリップクリームを出す。ささっと前髪を整えかさかさの唇に潤いを与え、「いいよ」と返事した。
スライドドアがするりと開く。まず顔をのぞかせたのはお母さん。その後ろにいたのは千秋でも友理奈でもなく、背の高い男の子だった。
「心配してわざわざ来てくれたのよ」
男の子は私に向かって軽くお辞儀をし、顔を上げた。
きれいな顔だった。クラスメイトの推しであるアイドルに似ているかもしれない。さらさらの黒い髪や、荒れていない白い肌が羨ましい。
皺の無い水色のシャツや黒いチノパンが似合っていておしゃれだった。アイテム自体はシンプルだけど、こだわりがあるのかもしれない。
私はまじまじと自分の見舞客を見つめた。どこか緊張しているようだ。
私も同じだった。
「初対面の人」にお見舞いに来られても、何を話したらいいかわからない。
「ひーちゃん、お礼はっ?」
私が黙ったままでいると、お母さんが急に腹を立て始める。
「西さんがひーちゃんを見つけて救急車を呼んでくれたのよ。もし西さんが通りかからなかったら、今頃どうなってたか……」
「そうだったんですか? ご、ごめんなさい」
私はベッド上で頭を下げた。
「すみません。私、あの日のことを何も覚えていなくて……。救急車を呼んでくださって、本当にありがとうございます」
「……え?」
私は心からお礼を言ったつもりだった。それなのにどうしてか、恩人は傷ついたような顔を見せる。
彼は右手で握りこぶしを作っていた。腹を立てている時のように。
または、何か大切なものをしまっているみたいに。
「ご、ごめんなさいね」
次に頭を下げたのはお母さんだった。
「どうしたのかしら。頭は打ってないはずなんだけど……。ちょっと混乱してるのかしら」
お母さんは私と西さんの顔を慌てた様子で見比べている。西さんは押し黙ったままだ。
二人の反応は、私の目にとても奇妙に映った。
「いえ、大丈夫です」
彼は、私ではなく母に対し口角を上げてみせる。
「とにかく、命に別条が無くてよかったです。急にお見舞いに来てしまってすみません。……あの」
男の子はお母さんになぜかこそこそと耳打ちをする。もちろん私には内容が聞き取れない。
「失礼します」
彼は私に目もくれず、逃げるように身を翻し部屋を出て行ってしまった。握りこぶしを解かぬまま。
せっかくお見舞いに来てくれたのに、滞在時間はおそらく三分にも満たない。
「あの人、どうしたの?」
西さんが出て行ったドアを見つめていた母が、はっと私を振り返る。
「あなたの命の恩人よ」
「でも」
私がお礼を言った時、彼はなぜかショックを受けたような顔をしていた。
「さっき、お母さんに何て言ってたの?」
「……『お大事にしてください』だって」
母は早口に言い切る。
「じゃあ、明日もまた来るからね。半日だけ仕事してからだけど。必要なものがあったらラインで連絡しておいてよ。緊急の時の電話は会社のケータイにね」
母はバッグをつかむとさっさと出て行ってしまった。
「西さん」という男の子について追及する暇も与えてもらえなかった。
その頃には夢を回想することのできないもどかしさとともに、夢を見ていたことすら思い出せなくなっていた。今週末開催される文化祭に参加できないショックが大きすぎた。
私の記憶の一部が抜け落ちていることに、お母さんはもちろん驚いたし「文化祭の心配をしている場合ではない」と腹を立てた。手術してくれた整形外科の先生に心療内科での診察をすすめられ、予約をとることになっている。
上体を起こし、パルスオキシメーターや点滴から解放された右手だけでなんとか病院食を食べ終える。介助してくれた母がトレーを持って室外へと出て行く。食器を下げるついでに、彼女も食堂に向かうという。私は病室に一人取り残された。
ぐるぐる巻きの左手をながめる。
なんと、私の左手首の骨は折れてしまっているそうだ。
鎮痛剤のおかげで痛みは感じないけれど、急に片手が使えなくなったせいで不便で仕方がない。スマフォすら操作しにくい。骨折した時のことを覚えていないというのも、狐につままれたような気分になる。
お母さんやお医者さんの話によると、私は階段から落ちたらしい。
商店街から少し逸れた場所に、長い石造りの階段がある。その上から落ち、左手をついてしまったそうだ。
手首を骨折し、救急車で運ばれ全身麻酔をして手術したのだけれど、なんと、麻酔をかける前まではちゃんと意識があったらしい。あまりの痛みに、私は号泣していたという。
でも、麻酔が切れて意識が戻った今、前後の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっていた。
妙な気分だった。みんなで私にドッキリをしかけているのではないかと勘繰ってしまう。
リクライニングベッドにもたれてため息をついていると、コンコンコンと控えめなノックが聞こえた。看護師さんはノックした後すぐに入室してくるから、お母さんだろうと思った。
食堂で食事をしていた割には戻ってくるのが早すぎる。財布を忘れたのかもしれない。
「ひーちゃん?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、やはりお母さんの声だった。
室内に入ってくる気配は無い。
「お母さん、どうかしたの?」
「あのね、ひーちゃんのお友達がお見舞いに来てくれたんだけど、会える?」
「お見舞い?」
わざわざお見舞いに来てくれるような友達ということは、千秋や友理奈だろうか。二人はクラスメイトだけど、文化祭に参加できないことを謝る必要は私には無い。
彼女たちも、ベビーカステラ屋さんの手伝いはほとんどできないからだ。二人とも吹奏楽部の部員で、ステージ発表があるからしかたがない。
謝る必要は無いけれど、練習の合間を縫って来てくれたのだと思うと嬉しくなった。
「ちょっとだけ待ってて!」
床頭台の上にポンと乗せられていた自分のスクールバッグを手繰り寄せ、手鏡とリップクリームを出す。ささっと前髪を整えかさかさの唇に潤いを与え、「いいよ」と返事した。
スライドドアがするりと開く。まず顔をのぞかせたのはお母さん。その後ろにいたのは千秋でも友理奈でもなく、背の高い男の子だった。
「心配してわざわざ来てくれたのよ」
男の子は私に向かって軽くお辞儀をし、顔を上げた。
きれいな顔だった。クラスメイトの推しであるアイドルに似ているかもしれない。さらさらの黒い髪や、荒れていない白い肌が羨ましい。
皺の無い水色のシャツや黒いチノパンが似合っていておしゃれだった。アイテム自体はシンプルだけど、こだわりがあるのかもしれない。
私はまじまじと自分の見舞客を見つめた。どこか緊張しているようだ。
私も同じだった。
「初対面の人」にお見舞いに来られても、何を話したらいいかわからない。
「ひーちゃん、お礼はっ?」
私が黙ったままでいると、お母さんが急に腹を立て始める。
「西さんがひーちゃんを見つけて救急車を呼んでくれたのよ。もし西さんが通りかからなかったら、今頃どうなってたか……」
「そうだったんですか? ご、ごめんなさい」
私はベッド上で頭を下げた。
「すみません。私、あの日のことを何も覚えていなくて……。救急車を呼んでくださって、本当にありがとうございます」
「……え?」
私は心からお礼を言ったつもりだった。それなのにどうしてか、恩人は傷ついたような顔を見せる。
彼は右手で握りこぶしを作っていた。腹を立てている時のように。
または、何か大切なものをしまっているみたいに。
「ご、ごめんなさいね」
次に頭を下げたのはお母さんだった。
「どうしたのかしら。頭は打ってないはずなんだけど……。ちょっと混乱してるのかしら」
お母さんは私と西さんの顔を慌てた様子で見比べている。西さんは押し黙ったままだ。
二人の反応は、私の目にとても奇妙に映った。
「いえ、大丈夫です」
彼は、私ではなく母に対し口角を上げてみせる。
「とにかく、命に別条が無くてよかったです。急にお見舞いに来てしまってすみません。……あの」
男の子はお母さんになぜかこそこそと耳打ちをする。もちろん私には内容が聞き取れない。
「失礼します」
彼は私に目もくれず、逃げるように身を翻し部屋を出て行ってしまった。握りこぶしを解かぬまま。
せっかくお見舞いに来てくれたのに、滞在時間はおそらく三分にも満たない。
「あの人、どうしたの?」
西さんが出て行ったドアを見つめていた母が、はっと私を振り返る。
「あなたの命の恩人よ」
「でも」
私がお礼を言った時、彼はなぜかショックを受けたような顔をしていた。
「さっき、お母さんに何て言ってたの?」
「……『お大事にしてください』だって」
母は早口に言い切る。
「じゃあ、明日もまた来るからね。半日だけ仕事してからだけど。必要なものがあったらラインで連絡しておいてよ。緊急の時の電話は会社のケータイにね」
母はバッグをつかむとさっさと出て行ってしまった。
「西さん」という男の子について追及する暇も与えてもらえなかった。