ひび割れが広がってくように、痛みも強まっていく。
頭を抱えカウンターに突っ伏す私に、もう一度「大丈夫?」と彼が言葉を被せてくる。
脈打つたびにずきんずきんと痛みが走り、体が揺らされる間隔まであった。
このままでは頭が割れる。
そう思ったと同時に、ドン!と激しく何かが叩かれる音がした。
方向からするに、叩かれたのは店の扉だ。ノックにしてはあまりにも強すぎる。不穏な打撃音に驚いたが、痛みのせいで顔が上げられない。
「来た」
舌打ちが聞こえる。男の子がカウンターから出てくる気配がした。
ぎいと耳障りな蝶番。湿気を含む冷えた空気が店内に入り込み、また蝶番の音がした。
店をとび出た男の子ともう一人、男性が店の前で話しているのが聞こえる。声質は中年男性のものに聞こえた。
二人とも声を荒らげるのをぐっと堪えているというような話し方だった。
「うう……」
声を聞いているうちに痛みが増す。誰かに頭をこじ開けられているみたいだ。
光莉が、と男の子が言ったのが聞こえた。男性は私の知り合いなのだろうか。私が原因で二人は喧嘩になりそうなのだろうか。
でも、確かめられない。確かめに行く余裕が無い。
何か縋れるものが欲しくてカフェオレの注がれたカップに触れる。苦手だと評価したものをお守りのように大切に手のひらに収めた。我ながら調子がいいと思うけれど、人肌になった温かさが心地いい。
――ひーちゃん。
男性の声がする。
――ひーちゃん!
「ひーちゃん」は、私の愛称の一つだ。でも、どうしてあの男の人が――。
「ひーちゃん!」
私は両目を開けた。
ぼやけた線の入った白が視界にとび込む。
*
「……ひーちゃん!! 気がついた!?」
ぼやける視界にとび込んできたのは白い天井と、不織布マスクをつけたお母さんの顔だった。
「すごくうなされてたよ。ひーちゃん、苦しい?」
どうやら私は寝ていたらしい。怖い夢を見ていた気がする。「大丈夫」と答えようとしたけど、喉が渇き切っていてむせてしまった。
咳込みながら、自分が見知らぬ部屋のベッドに寝かされていることに気がつく。
起き上がろうと試みた。でも、無理だった。
「動かないで」
母がぴしゃりと私を制す。
「……?」
私の左手はなぜか白い布でぐるぐる巻きにされ、器具で吊るされていた。
右の指にもクリップのようなものが挟まっているし、手の甲から管がのびていた。管の先には透明な袋が吊るされている。点滴だ。私でもわかる。でも、点滴をしている理由がわからない。
ひーちゃんこと成宮光莉は、どうやら全然「大丈夫」ではないらしい。
「成宮です。娘が目を覚ましました。お願いします」
呆然と両手を見比べるすぐ横で、お母さんがナースコールしている。ということは、ここは病室なのだろう。私は入院しているらしい。包帯が巻かれているのは左手だけみたいだけれど、体のそこかしこが痛い。
この身に一体何があったのか、さっぱり思い出せなかった。
でも、自分の名前や年齢は覚えている。
成宮光莉。
今年で十七歳。高校二年生。
通っている私立高校の偏差値はそこそこ。実質無償化の恩恵を受けている。
友達もまあまあいて、学校へ行くのは嫌いじゃない。
目の前にいる人はお母さん。名前は成宮明莉。もうすぐ四十代。
娘である私のことを「ひーちゃん」と呼ぶ。(もう高校生になるのだから、そろそろやめてほしい)。
お父さんはいない。
私が五歳の時に離婚してどこかへ行ってしまった。お父さんの話題は我が家ではタブーだ。
自分のことや、自分の家庭のことは詳らかに記憶していた。
それなのに、なぜ自分がここにいるのかまではどうしても思い出せない。病気なのか怪我なのか、意識を失った日に何をしていたのかも……。
お母さんにあれこれ尋ねたいのにまだ声が出なかった。水かお茶が欲しいけど、それすら伝えられない。
食毒液のにおいに混じりコーヒーの香りがした。
首を動かし香りの元をたどる。窓際に黒い缶コーヒーが置かれていた。母が飲んでいたものだろう。私と違って、しょっちゅうコーヒーを飲んでいるから。
「ひーちゃんがこのまま起きなんじゃないかってすごく不安だったよ……」
娘である私の手を握り、お母さんは涙ぐむ。かさついた手のひらの温度がやたら高く感じるのは、缶コーヒーを持っていたからだろうか。
「失礼します。成宮さん、目が覚めたんですね。すぐ先生に来てもらえますからね」
看護師さんが部屋に入って来た。
ほっとしたのか、母が本格的に泣き出す。同室の人に迷惑なんじゃないかと思って頑張って頭を上げるが、この部屋のベッドは一床しかなかった。つまり、大部屋ではなくて個室ということだろう。
「お、か、お母さん」
私は咳をしながら、やっとの思いで発声する。
「お母さんが『個室にしてほしい』って言ったの? 高いんじゃないの?」
「お金の心配なんてしなくていいよ」
看護師さんに肩をさすられながら母は涙目で私を睨む。
「たいした額にはならないと思う。まだ半日ちょっとしか入院してないし」
――半日ちょっと?
訊き返す間もなく、母は「すぐに元気になって家に帰れますよね?」と看護師さんに問い詰める。
「それは先生とよく相談しましょうね」
子どものように諭され無言で頷くお母さんの顔をまじまじと見上げた。
どうやら私はたった半日しか眠っていなかったらしい。六月の雨のような、いつ終わるかわからない夢を見ていた気がするのに。
「なんだっけ……」
今しがた見ていたはずの夢の内容をすっかり忘れてしまった。
病室の窓に目を向ける。ガラスが濡れていた。雨が降っているらしい。空には雲がかかり、ぼんやりとした明るさしかない。
窓の外を眺めていればなにか思い出せそうなのに、雲をつかむような手応えしかなかった。
「あれっ? ちょ、ちょっと待って」
出入り口であるスライドドアの横に掛けられた今月のカレンダーが目に留まり、ふと思い出したことがあった。
「ねえ、今日って何日!?」
「え? 今日は……」
母がカレンダーを振り返る。
日付を訊いて、顔から血の気が引いた。通っている高校の文化祭が開催される二日前だった。
私のクラス、二年一組はベビーカステラ屋さんをすることになっている。きっと今頃、準備で大忙しだ。
当日を前からずっと楽しみにしていた。調理担当として、大いに活躍する予定だったのだ。
「ぶ、文化祭には……」
「出られるわけないでしょう」
母はやれやれとため息をついた。
「そ、そんなあーっ!」
私の絶叫が病室に響き渡った。
頭を抱えカウンターに突っ伏す私に、もう一度「大丈夫?」と彼が言葉を被せてくる。
脈打つたびにずきんずきんと痛みが走り、体が揺らされる間隔まであった。
このままでは頭が割れる。
そう思ったと同時に、ドン!と激しく何かが叩かれる音がした。
方向からするに、叩かれたのは店の扉だ。ノックにしてはあまりにも強すぎる。不穏な打撃音に驚いたが、痛みのせいで顔が上げられない。
「来た」
舌打ちが聞こえる。男の子がカウンターから出てくる気配がした。
ぎいと耳障りな蝶番。湿気を含む冷えた空気が店内に入り込み、また蝶番の音がした。
店をとび出た男の子ともう一人、男性が店の前で話しているのが聞こえる。声質は中年男性のものに聞こえた。
二人とも声を荒らげるのをぐっと堪えているというような話し方だった。
「うう……」
声を聞いているうちに痛みが増す。誰かに頭をこじ開けられているみたいだ。
光莉が、と男の子が言ったのが聞こえた。男性は私の知り合いなのだろうか。私が原因で二人は喧嘩になりそうなのだろうか。
でも、確かめられない。確かめに行く余裕が無い。
何か縋れるものが欲しくてカフェオレの注がれたカップに触れる。苦手だと評価したものをお守りのように大切に手のひらに収めた。我ながら調子がいいと思うけれど、人肌になった温かさが心地いい。
――ひーちゃん。
男性の声がする。
――ひーちゃん!
「ひーちゃん」は、私の愛称の一つだ。でも、どうしてあの男の人が――。
「ひーちゃん!」
私は両目を開けた。
ぼやけた線の入った白が視界にとび込む。
*
「……ひーちゃん!! 気がついた!?」
ぼやける視界にとび込んできたのは白い天井と、不織布マスクをつけたお母さんの顔だった。
「すごくうなされてたよ。ひーちゃん、苦しい?」
どうやら私は寝ていたらしい。怖い夢を見ていた気がする。「大丈夫」と答えようとしたけど、喉が渇き切っていてむせてしまった。
咳込みながら、自分が見知らぬ部屋のベッドに寝かされていることに気がつく。
起き上がろうと試みた。でも、無理だった。
「動かないで」
母がぴしゃりと私を制す。
「……?」
私の左手はなぜか白い布でぐるぐる巻きにされ、器具で吊るされていた。
右の指にもクリップのようなものが挟まっているし、手の甲から管がのびていた。管の先には透明な袋が吊るされている。点滴だ。私でもわかる。でも、点滴をしている理由がわからない。
ひーちゃんこと成宮光莉は、どうやら全然「大丈夫」ではないらしい。
「成宮です。娘が目を覚ましました。お願いします」
呆然と両手を見比べるすぐ横で、お母さんがナースコールしている。ということは、ここは病室なのだろう。私は入院しているらしい。包帯が巻かれているのは左手だけみたいだけれど、体のそこかしこが痛い。
この身に一体何があったのか、さっぱり思い出せなかった。
でも、自分の名前や年齢は覚えている。
成宮光莉。
今年で十七歳。高校二年生。
通っている私立高校の偏差値はそこそこ。実質無償化の恩恵を受けている。
友達もまあまあいて、学校へ行くのは嫌いじゃない。
目の前にいる人はお母さん。名前は成宮明莉。もうすぐ四十代。
娘である私のことを「ひーちゃん」と呼ぶ。(もう高校生になるのだから、そろそろやめてほしい)。
お父さんはいない。
私が五歳の時に離婚してどこかへ行ってしまった。お父さんの話題は我が家ではタブーだ。
自分のことや、自分の家庭のことは詳らかに記憶していた。
それなのに、なぜ自分がここにいるのかまではどうしても思い出せない。病気なのか怪我なのか、意識を失った日に何をしていたのかも……。
お母さんにあれこれ尋ねたいのにまだ声が出なかった。水かお茶が欲しいけど、それすら伝えられない。
食毒液のにおいに混じりコーヒーの香りがした。
首を動かし香りの元をたどる。窓際に黒い缶コーヒーが置かれていた。母が飲んでいたものだろう。私と違って、しょっちゅうコーヒーを飲んでいるから。
「ひーちゃんがこのまま起きなんじゃないかってすごく不安だったよ……」
娘である私の手を握り、お母さんは涙ぐむ。かさついた手のひらの温度がやたら高く感じるのは、缶コーヒーを持っていたからだろうか。
「失礼します。成宮さん、目が覚めたんですね。すぐ先生に来てもらえますからね」
看護師さんが部屋に入って来た。
ほっとしたのか、母が本格的に泣き出す。同室の人に迷惑なんじゃないかと思って頑張って頭を上げるが、この部屋のベッドは一床しかなかった。つまり、大部屋ではなくて個室ということだろう。
「お、か、お母さん」
私は咳をしながら、やっとの思いで発声する。
「お母さんが『個室にしてほしい』って言ったの? 高いんじゃないの?」
「お金の心配なんてしなくていいよ」
看護師さんに肩をさすられながら母は涙目で私を睨む。
「たいした額にはならないと思う。まだ半日ちょっとしか入院してないし」
――半日ちょっと?
訊き返す間もなく、母は「すぐに元気になって家に帰れますよね?」と看護師さんに問い詰める。
「それは先生とよく相談しましょうね」
子どものように諭され無言で頷くお母さんの顔をまじまじと見上げた。
どうやら私はたった半日しか眠っていなかったらしい。六月の雨のような、いつ終わるかわからない夢を見ていた気がするのに。
「なんだっけ……」
今しがた見ていたはずの夢の内容をすっかり忘れてしまった。
病室の窓に目を向ける。ガラスが濡れていた。雨が降っているらしい。空には雲がかかり、ぼんやりとした明るさしかない。
窓の外を眺めていればなにか思い出せそうなのに、雲をつかむような手応えしかなかった。
「あれっ? ちょ、ちょっと待って」
出入り口であるスライドドアの横に掛けられた今月のカレンダーが目に留まり、ふと思い出したことがあった。
「ねえ、今日って何日!?」
「え? 今日は……」
母がカレンダーを振り返る。
日付を訊いて、顔から血の気が引いた。通っている高校の文化祭が開催される二日前だった。
私のクラス、二年一組はベビーカステラ屋さんをすることになっている。きっと今頃、準備で大忙しだ。
当日を前からずっと楽しみにしていた。調理担当として、大いに活躍する予定だったのだ。
「ぶ、文化祭には……」
「出られるわけないでしょう」
母はやれやれとため息をついた。
「そ、そんなあーっ!」
私の絶叫が病室に響き渡った。