ずっと見ていたいのに、「虹の彼方に」は一分ほどで終わってしまう。回転も止んだ。
 もう一度ゼンマイを巻く。今度は上手くいった。

 心が奪われる、とはこういう気持ちのことをいうのだろうか。つらいことや悲しいことを忘れて、自分の胸が軽くなっていくのを感じた。
 そんなことを考えながら、自分自身に苦笑する。
 私は楽観的で、悩みなんてほとんど無い。最近、何か悩んだことはあっただろうかと思い出そうとするけれど、やはり思い浮かばない。
 それでも、オルゴールが響かせる音楽のおかげで、妙に心が凪いでいくのだ。お気楽に生きているつもりでも、無意識のうちに気を張って生きているということではないだろうか。

 店内を見回す。
 ステンドグラスや金魚たち。懐かしいアイテムも、私を落ち着かせてくれているのかもしれない。

 ――懐かしい?

 この喫茶店(レインコート)は、昨日初めて訪れた場所だ。
 どうして懐かしく思うのだろう。

「どうかした?」

 男の子に訊かれ「ううん」と首を振った。

「えっと、その……、私って何か悩みはあったっけ?と思って。でも思い出せなくて」

「この店にデジャヴュを感じていた」なんて言ったら変なヤツだと言われるかもしれない。だから咄嗟に一つ前に考えていたことを話してみたけれど、余計におかしかったかも。

「悩みが無い? 何それ。めちゃくちゃ羨ましいんだけど」

 彼は無遠慮に笑ってくる。

「ちょっと、私、結構真剣に考えてたんだけど?」

 強いて言えば「悩みが無いことが悩み」と言えるかもしれない。こうして他人に笑われてしまうのだから。

「悩みなんて無いほうがいいじゃん」

 まだ少し愉快そうにしながら、彼は言った。

「そんなこと、無理に思い出さなくていいでしょ」
「そうかな……」
「思い出さないほうがいいことって、たくさんあるから。……ところで、俺には今まさに悩みがあるんだけど」
「え? 何?」
「せっかく淹れたのに、冷めちゃいそう」

 彼の指がカウンターの上を指す。淹れてもらったコーヒーの存在をすっかり忘れていた。

「そうだった。ご、ごめんなさい」

「忘れっぽいんだね」と言われ、ぐうの音も出なかった。くるくると回るオルゴールを眺めながら、カップに口をつけようとして思いとどまる。

 コーヒーは、昨日よりも香りが濃い。豆の深い香りが私を躊躇わせた。
 淹れた本人は私を見ていない。後片付けをしているらしい。
 ただ香りを嗅いだだけなのに「飲めない」と言うのは憚られる。私は「えいや」と胸の中で掛け声をかけ、コーヒーを口に含んだ。

「あ、カフェラテ?」

 まず口に広がったのはミルクの甘みだった。その向こうから、この飲み物の独特の苦みと酸味が追いかけてくる。

「いや、カフェオレだよ」
「カフェラテとカフェオレって同じじゃないの?」
「カフェラテはエスプレッソから作るんだ。ミルクの量も違う」
「へえ、そうなんだ。知らなかった。あれ? 私が今飲んでるのって、どっちだったっけ?」

 間抜けな質問をすると、あきれたように「カフェオレ」と答えてくれた。

「苦みが強くても、カフェオレにしてみたら飲みやすいかなと思ったんだけど……、どう?」

 反射的に気を遣って「飲みやすい」と答えそうになったけれど、ぐっと口を噤む。
「率直な感想を」という昨日の彼の言葉を思い出したからだ。
 カフェオレにしてくれたから、ブラックより飲みやすいというのは嘘ではない。嘘ではないけれど、それは「率直な感想」ではない。

「カフェオレだから飲みやすいけど、やっぱり香りが……」
「苦手だった?」
「……飲むのに勇気が必要だった、かなぁ」
「なるほどね」

 彼は何か考え込む。

「ごめん。気分悪い?」
「なんで? めちゃくちゃ有難いよ。参考にさせてもらう。それ、無理して飲まなくていいから」
「無理なんてしてないよ。全部いただきます」

 首を横に振り、またカフェオレを飲む。せっかく出してくれたものを粗末にしたくなかった。

「このミルクもこだわりがあるの?」
「そう。低脂肪のものを使ってる。よくわかるね」

 暗闇の中、彼は明るい声を出す。

「すごいじゃん、光莉(ひかり)

 光莉?

 私は、彼の顔がある辺りを見上げた。じっと影を見つめる。入店してからかなり時間が経っているはずなのに、未だに目が慣れない。

「なんで、私の名前を……?」
「え?」
「なんで知ってるの? 私の名前を」

 十秒ほどの、長い沈黙。

「なんでって、昨日教えてくれたじゃん。『成宮光莉』っていう名前だって」
「そうだっけ……?」
「光莉、ちょっと忘れっぽすぎない?」

 彼に笑われ、私も笑おうとする。
 でも、やっぱり。

「……教えてないと思う」

 いや、「教えてないと思う」のではない。「教えていない」。
 絶対に。

「もしあなたに名前を教えていたとしたら、私はそのことを絶対に覚えてる。だって」

 ――すごいじゃん、光莉。

 彼は私のことを「光莉」と呼んだ。
 確かに私の名前は光莉だ。成宮光莉。それが私のフルネームだった。

 でも、私のことを下の名前で呼ぶ人なんていない。
 お母さんでさえ。 

「……」

 頭に軽い痛みが走る。こめかみを押さえて下を向いた。
 下を向くと同時にコーヒーの香りを思いきり吸い込んでしまう。余計に頭痛がひどくなりそうだ。やはり私にはこのコーヒーの香りは強すぎる。

「大丈夫? 光莉」

 彼が私を心配してくれるけれど、何も答えられない。私は、全く大丈夫なんかではなかった。

「光莉?」
「……いで」
「え?」
「呼ばないで……っ!」