次の日も雨だった。

 学校を出てしばらく道を行く。雨なのに、なぜか足取りがいつもより軽い。
 いつもならまっすぐ行くところを脇の小道に逸れる。この道を通ると、ここが高台であることがよくわかる。ガードレールの向こう、曇天の下には、五歳から暮らすこの街が広がっていた。
 途中でコンクリートの長い階段があり、その先にはアーケードが見えている。
 足を滑らせないよう慎重に階段を下っていき、やっと商店街の出入り口に着いた。傘を閉じ、アーケードの下を進んでいく。

 相変わらずのさびれた商店街だけれど、目的の場所だけはシャッターを全開にしていた。「私を歓迎するように」と表現するのはおこがましいだろうか。
 金色の店名を眺めてから、傘を傘立てにしまい扉を開けた。
 暗い店内の中に、ステンドグラスを通した虹のような光が差す。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こうで影が動いた。

「さっそく来てくれたんだ」
「うん。雨だったからね」

 口角を上げ頷く。大人びた、おしゃれな喫茶店に歓迎されたことが嬉しかった。

「? 『雨だったから』って?」

 影になった男の子に訊き返され、私はぽかんとして暗闇を見つめた。

「雨の日にはウチに来てって、そう言ったのはあなたでしょ?」
「俺が? いつ?」
「昨日だよ」
「……言ったっけ?」

 影は首を傾げている。
 揶揄われた、はぐらかされた、という感じは一切しなかった。本当に心当たりが無い、という態度だ。

「まあ、とにかく座れば。今日も協力してくれる?」

 もしかしたら私の聞き間違いだったのかも、という気がしてきた。釈然としないけれど、長く頭を悩ませることでもない。

 私はカウンターに近寄った。
 昨日と同じように真ん中の丸椅子に座ろうとして、店の奥のほうに目がとまる。

「あれ? 何か飼ってるの?」

 奥のテーブルの後ろには小さな棚があり、そこに水槽が乗せられていた。幅は45センチくらいだろうか。昨日は気がつかなかった。
 椅子には座らず、水槽に近づいてみる。目を凝らすと、薄暗い中で三匹の金魚が泳いでいるのが見えた。縁日の金魚すくいでよく見かけるような、赤くて細長いタイプだ。

「昔から飼ってる金魚」

 コーヒーを淹れ始めたのか、男の子はカウンターの向こうで忙しなくしながら答える。

「へえ、可愛いなあ。名前は?」
「名前なんて無いよ」
「付ければいいのに。こっちの箱は何?」

 水槽の下の段には、木製の小さな箱が一つ置かれていた。小箱は棚の中央に置かれていて、収納されているというよりは、丁寧にディスプレイされているという風だった。

「それはオルゴール。鳴らしていいよ」
「オルゴールってどうやって鳴らすんだっけ?」

 子どもの時に一度だけオルゴールに触ったことがある。
 当時はまだ生きていた祖父に見せてもらった。珍しいし、きれいな音がしてすごくわくわくしたのを覚えている。
 それなのに、どうやったら音を鳴らせるのかはさっぱりだ。

「箱の底にゼンマイがあるから、それをくるくる回すだけ」
「ゼンマイ?」

 箱を慎重に持ち上げ、下からのぞきこむ。
 小さなタケコプターのような金具がついていた。これがゼンマイだろう。言われた通り、指で回そうと試みた。
 でも、かたい。

「壊しちゃいそう」

 情けなく呟くと、小さなため息とともに「貸して」と言われた。
 そっと箱を持ち、手のひらにのせ、カウンターまで運んでいく。カウンターの向こうから、裾を捲り上げた腕がのびる。私より太くて骨っぽく、男の子の腕だということがよくわかった。

 差し出された大きな手のひらにオルゴールを置く。
 彼は手を再び薄暗闇に引っ込めた。ぎりぎりと音がして、カウンターの板の上にオルゴールがのせられる。 
 私は丸椅子に座り、箱の蓋を見下ろし音が鳴るのを待った。小箱の蓋にも金色の字で「レインコート」と刻印されていることに気がつく。特注品なのだろう。

「鳴らないよ?」

 いくら待ってみても、音楽は一向に始まらなかった。

「その蓋を開けて」

 食器をかちゃかちゃ言わせながら、彼はじれったそうだった。
 蓋をぱかっと持ち上げてみる。途端に「カチ」と音がした。
 透明なガラスの中に閉じ込められている小さな金属製の筒が回転し始める。
 筒から生えた小さな棘や、棘が弾く棒が店内のわずかな光を反射してきらめく。きらめくたびに音が生まれ、一つの音楽となっていく。

「きれいな音……」

 一音一音が雨粒の音のように優しい。
 どこかで聴いたことのある曲だった。題名まではわからないけど、きっと有名なのだろう。
 もしかしたら、蓋にも書かれている「レインコート」がこの曲のタイトルだろうか。
 そう思って尋ねたが、彼は首を横に振った。

「『レインコート』はこの店の名前。このオルゴールの曲のタイトルは、『虹の彼方に』」

 カウンターにソーサーとコーヒーの注がれたカップを置き、教えてくれた。

「原題は『Over the Rainbow(オバー ・ ザ ・ レインボウ)』。『オズの魔法使い』っていう、大昔の映画の曲」
「へえ。虹の歌なんだ」

 雨上がりの虹を心の中に描きながら、私はオルゴールの回転を眺めた。