*

 その日の夜、またレインコートの夢を見た。

 今日は一日中快晴で、絶好の花火大会日和となってくれた。雨は一滴も降らなかったはずだけど、私は傘を持ってレインコートに立っている。

 正確には、レインコートの店の前に。

 黒いエプロン姿の陽介がガラガラとシャッターを持ち上げていく。これから開店するらしい。ガラスに書かれた金色の字は「The Raincoat」。窓からのぞく店内はとても明るい。

 くしゅん、とくしゃみを一つ。
 私の体は冷えていた。石突から雨が伝い、商店街の通路に敷かれたタイルを濡らす。
 私は雨の中を歩いてここまでやってきたらしい。
 シャッターが全開となる。陽介が私を振り返った。

「もうここへは来ないほうがいいよ」

 台詞の内容に反して、彼の口調は優しかった。

「うん。もう大丈夫だよ」

 私ははっきり頷いた。

「全部思い出せたから」

 夢の中の「レインコート」を訪れる日はなぜかいつも雨だった。その理由もなんとなくわかった。
 お父さんが出て行った日も雨だったのだ。薄むらさきのレインコートを着て、私は父を探そうとした。すぐにお母さんに連れ戻された。レインコート着たまま、私は玄関でわんわんと泣いた。

「思い出したらつらくならない? 思い出さないほうがいいんじゃないの?」
「つらいこともたくさんあったけど、楽しいことまで忘れてしまいたくないから。……ほら、『雨降って「虹」固まる』って言うでしょ?」
「雨降って「地」固まる、ね。意味も違うし」
「でも、雨の後には虹が出るでしょ。つらいことだって大切なことだよ」
「こじつけるなあ」

 夢の中の陽介が、現実そっくりに笑っている。悪戯っぽいその笑い方が、ひどく愛おしい。

「こじつけついでに、光莉(ひかり)にいいことを教えてあげるよ」
「何?」
「コーヒーの木は、たくさんの雨が降り注いだ後に花を咲かせるんだ」

 頭の中にコーヒー畑が浮かぶ。
 白い花が次々に咲き、太陽の光を浴びる。雲一つない青空の下、花びらも葉もきらきらと輝く。

「へえ……」

 感心しつつも不思議だった。どこかで聞いたことがあった気がする。
 コーヒーについて話す相手なんて、一人しか思い当たらない。

「……それって、現実の陽介が私に教えてくれたんだっけ?」
「そうだよ。高校の中庭でコーヒーを飲んでいた時に。光莉、忘れっぽすぎ」
「うるさいなあ」

 しばらく笑い合い、私たちはそろそろ別れることにした。

「じゃあ」

 またね、と言葉を紡ぎそうになり、飲み込んだ。私はもう(ここ)へは来ない。

 踵を返し歩き出す。
 背後で店の扉が開かれる音がした。中から優しそうな男の人の声と、女の子の笑い声が漏れてくる。そして、ギターの音色も。
 演奏される曲のタイトルは「虹の彼方に」。

 振り返らず、歩いていく。
 私も「虹の彼方に」の鼻歌を歌ってみたけれど、うろ覚えで途中からメロディがわからなくなってしまった。自分自身にあきれて笑う。

 商店街のアーケードの下から出た。雨はすっかり上がっている。夕立だったのだろう。

 目の前には空に向かって石の階段が続いていた。段差をゆっくり上っていく。散り散りになった雲が暮れなずむ夏の空をのぞかせていた。
 階段の上には人影が二つあった。薄むらさきのレインコートを着た女の子と、女の子のお父さんであろう男の人が立っている。
 レインコートの店内で、ギターを聞いていた二人ではないだろうか。「いつの間に」というつっこみは、夢の中では野暮だ。

 親子二人は手を繋ぎ、階段を上っている最中の私のほうに体を向けていた。
 女の子は目を輝かせながら空を指さしている。

 私もやっと階段の一番上までたどりつき、彼らが眺めている方向を振り返った。
 夕立を浴びた街が、傾く日差しで輝いている。街並みの向こうには晴れ間が広がり、そして、

「わあ……!」

 虹のアーチがかかっていた。

 体を冷やす雨を忘れてしまうほどの鮮やかな七色だった。現実だったら、ここまでくっきり描かれた虹はなかなか拝めないだろう。

 体がふいに軽くなる。もうすぐ私は目覚めるのだな、という感覚があった。

 夢から醒めるその瞬間まで、雨あがりの虹から目を逸らさずにいよう。
 あの光を、いつまでも忘れないでいよう。


 私は大人になっていく。
 たくさんの思い出とともに。








「レインコートで逢いましょう」 了