『まさか!』
父は私の質問を一蹴した。
『明莉とひーちゃんの新しい人生が始まるんだ。邪魔はしないよ。ただ、最後に一目でも娘の顔が見たかった。それだけだ。……怪我をさせてしまって、本当に申し訳ないと思ってる』
「最後なら、……最後ならちゃんと会おうよ。会って話そうよ」
上を向いた。泣きたくなかった。一粒でも涙をこぼしたらもう止められない気がした。
『会わないよ。電話だってこれきりで終わりにしよう』
父はきっぱりした口調だった。
『お父さんはひーちゃんを不幸にさせるだけだからね』
「そんなことないよ」
『そんなこと、あるんだよ。……明莉の口座に、入れられるだけ送金させてもらうからね。少ないけど、治療費や引っ越し代の足しにしてください。もし残ったら学費にも。進学、するんだろ?』
「お金なんていい」
『よくないよ。それくらいしかできないんだから』
「いいって」
壁の時計を見上げた。
電波を介する無料通話ではない。こんな風に押し問答している間にも通信代がかかっている。お母さんに怒られるかもしれない。そろそろ切らなくちゃいけない。何か言っておくことはあるだろうか。最後に。
悩んだ末、出てきた単語は「レインコート」だった。
『え? 今、何て?』
「レインコートっていう名前の喫茶店、覚えてる? 商店街にあった……」
『ああ、懐かしいな。何だ。ひーちゃん、覚えてるのか』
「なんとなく、だけど」
本当は「覚えている」というよりかは、「思い出した」と言ったほうが正しい。
病気を抱えていることを知っても、「お父さんは勝手だ」という気持ちは変わらない。私たちを置いて出て行ったことも、高校まで会いに来たことも。
それでも、お父さんに買ってもらったレインコートや、連れて行ってもらった喫茶店のことを思い出した今、伝えなくてはいけないことがある気がした。
「うちに写真あったよ。レインコートの写真。レインコートで、オレンジジュース飲んだの楽しかったよ。ギター聴いたのも、楽しかった」
言葉がたどたどしくなってしまう。五歳児のように。
「お父さんと手を繋いでレインコートへ行ったの、すごく楽しかったよ」
『……うん。お父さんも楽しかったよ』
最後に一つだけ訊いておきたいことがあった。
――お父さんは私のこと、好きだった?
お気楽な私のはずなのに、考えるより先に行動してしまう私のはずなのに、その言葉が喉を詰まらせる。
『ひーちゃん』
スマフォの向こうから声がした。
幼い子どもを寝かしつける時のような優しい声だった。
『ひーちゃんのこと、大好きだよ。勝手なお父さんだけど、ひーちゃんのことがずっと大好きだよ。……関西で、元気でやっていくんだよ』
締めくくりに、『元気でね』と言われた。「お父さんもね」と返そうとして、すんでのところで口を噤んだ。心の病気を抱えていることを思い出す。不用意な言葉は心を刺すナイフになりかねない。
「……バイバイ」
通話を切る。
右手の中のスマフォが熱い。人間の体温みたいだ。
「お父さん……」
だんだんと冷めていくスマフォをに縋るようにして、私は一生分くらいの涙を流した。
「こんなにいいところに住んでたんだ。羨ましい」
夏休みになって訪れた陽介の家は、駅直結の高層マンションだった。部屋はなんと十七階だ。
「賃貸だけどね。父さんの会社から家賃補助ももらってるらしいし」
陽介が玄関のドアを開ける。三和土も廊下もぴかぴかに白い。段差が見えにくくて、レースの足袋を履いた足が引っかかりそうになった。
今日、私は紺色の浴衣を着ている。大阪への引っ越しの準備も始まっているのにわざわざ浴衣を引っ張り出してきた理由は、花火大会があるから。そして、陽介に見せたかったから。
着付けは母にしてもらった。左手がまだ使いづらいからだ。陽介と会うということはバレバレのようで、母はずっとにやにやしていた。
陽介のお父さんは今夜、出張中で不在らしい。大きなテレビとソファが鎮座するリビングを通り過ぎ、二人でベランダに出る。
ベランダは私の部屋よりも広い。街中が見下ろせた。郊外だから明かりは少ない。蝉の声がこんなところにまで届いている。
わくわくしながらベランダで待機し、十五分ほど経った頃、遠くの空に赤い色の光が弾けた。
「始まった!」
興奮して右手で手すりを握る。
「落ちないでよ」
陽介が隣で笑っている。
花火は、それはそれはきれいだった。でも、十分ほど見ただけで肩のあたりが疲れてきた。
アウトドア用のイスを出してもらったので、腰かけて休む。陽介も同じ種類のイスに腰かけていた。
私は陽介が出してくれたオレンジジュースを、彼は自分で淹れたブラックのアイスコーヒーを飲んで涼んだ。
「それ、苦いの?」
コーヒーの注がれている銀色のタンブラーを指す。
「自分用だからかなり苦いよ。飲んでみる?」
「無理無理」
遠くに花火の音を聞きながら笑う。陽介はすぐに真顔になってしまう。
「……光莉、本当に転校するの?」
「うん」
口角を上げて頷いてみせた。
私は九月から大阪の高校に通うことになっている。
陽介と顔を合わせられる日も残り少ない。笑顔の私を覚えていてほしい。
父は私の質問を一蹴した。
『明莉とひーちゃんの新しい人生が始まるんだ。邪魔はしないよ。ただ、最後に一目でも娘の顔が見たかった。それだけだ。……怪我をさせてしまって、本当に申し訳ないと思ってる』
「最後なら、……最後ならちゃんと会おうよ。会って話そうよ」
上を向いた。泣きたくなかった。一粒でも涙をこぼしたらもう止められない気がした。
『会わないよ。電話だってこれきりで終わりにしよう』
父はきっぱりした口調だった。
『お父さんはひーちゃんを不幸にさせるだけだからね』
「そんなことないよ」
『そんなこと、あるんだよ。……明莉の口座に、入れられるだけ送金させてもらうからね。少ないけど、治療費や引っ越し代の足しにしてください。もし残ったら学費にも。進学、するんだろ?』
「お金なんていい」
『よくないよ。それくらいしかできないんだから』
「いいって」
壁の時計を見上げた。
電波を介する無料通話ではない。こんな風に押し問答している間にも通信代がかかっている。お母さんに怒られるかもしれない。そろそろ切らなくちゃいけない。何か言っておくことはあるだろうか。最後に。
悩んだ末、出てきた単語は「レインコート」だった。
『え? 今、何て?』
「レインコートっていう名前の喫茶店、覚えてる? 商店街にあった……」
『ああ、懐かしいな。何だ。ひーちゃん、覚えてるのか』
「なんとなく、だけど」
本当は「覚えている」というよりかは、「思い出した」と言ったほうが正しい。
病気を抱えていることを知っても、「お父さんは勝手だ」という気持ちは変わらない。私たちを置いて出て行ったことも、高校まで会いに来たことも。
それでも、お父さんに買ってもらったレインコートや、連れて行ってもらった喫茶店のことを思い出した今、伝えなくてはいけないことがある気がした。
「うちに写真あったよ。レインコートの写真。レインコートで、オレンジジュース飲んだの楽しかったよ。ギター聴いたのも、楽しかった」
言葉がたどたどしくなってしまう。五歳児のように。
「お父さんと手を繋いでレインコートへ行ったの、すごく楽しかったよ」
『……うん。お父さんも楽しかったよ』
最後に一つだけ訊いておきたいことがあった。
――お父さんは私のこと、好きだった?
お気楽な私のはずなのに、考えるより先に行動してしまう私のはずなのに、その言葉が喉を詰まらせる。
『ひーちゃん』
スマフォの向こうから声がした。
幼い子どもを寝かしつける時のような優しい声だった。
『ひーちゃんのこと、大好きだよ。勝手なお父さんだけど、ひーちゃんのことがずっと大好きだよ。……関西で、元気でやっていくんだよ』
締めくくりに、『元気でね』と言われた。「お父さんもね」と返そうとして、すんでのところで口を噤んだ。心の病気を抱えていることを思い出す。不用意な言葉は心を刺すナイフになりかねない。
「……バイバイ」
通話を切る。
右手の中のスマフォが熱い。人間の体温みたいだ。
「お父さん……」
だんだんと冷めていくスマフォをに縋るようにして、私は一生分くらいの涙を流した。
「こんなにいいところに住んでたんだ。羨ましい」
夏休みになって訪れた陽介の家は、駅直結の高層マンションだった。部屋はなんと十七階だ。
「賃貸だけどね。父さんの会社から家賃補助ももらってるらしいし」
陽介が玄関のドアを開ける。三和土も廊下もぴかぴかに白い。段差が見えにくくて、レースの足袋を履いた足が引っかかりそうになった。
今日、私は紺色の浴衣を着ている。大阪への引っ越しの準備も始まっているのにわざわざ浴衣を引っ張り出してきた理由は、花火大会があるから。そして、陽介に見せたかったから。
着付けは母にしてもらった。左手がまだ使いづらいからだ。陽介と会うということはバレバレのようで、母はずっとにやにやしていた。
陽介のお父さんは今夜、出張中で不在らしい。大きなテレビとソファが鎮座するリビングを通り過ぎ、二人でベランダに出る。
ベランダは私の部屋よりも広い。街中が見下ろせた。郊外だから明かりは少ない。蝉の声がこんなところにまで届いている。
わくわくしながらベランダで待機し、十五分ほど経った頃、遠くの空に赤い色の光が弾けた。
「始まった!」
興奮して右手で手すりを握る。
「落ちないでよ」
陽介が隣で笑っている。
花火は、それはそれはきれいだった。でも、十分ほど見ただけで肩のあたりが疲れてきた。
アウトドア用のイスを出してもらったので、腰かけて休む。陽介も同じ種類のイスに腰かけていた。
私は陽介が出してくれたオレンジジュースを、彼は自分で淹れたブラックのアイスコーヒーを飲んで涼んだ。
「それ、苦いの?」
コーヒーの注がれている銀色のタンブラーを指す。
「自分用だからかなり苦いよ。飲んでみる?」
「無理無理」
遠くに花火の音を聞きながら笑う。陽介はすぐに真顔になってしまう。
「……光莉、本当に転校するの?」
「うん」
口角を上げて頷いてみせた。
私は九月から大阪の高校に通うことになっている。
陽介と顔を合わせられる日も残り少ない。笑顔の私を覚えていてほしい。