「――いってらっしゃい。気を付けてね」

 佐々木さんとお寿司屋さんでデートしてくるというお母さんを送り出し、一人リビングに戻る。
 カーテンが開けっ放しだったので閉めた。もう十九時前だけど、空は明るい。

 最近は三人での外食が多かったから、たまには二人きりで出掛けてきてはどうかと提案したのはこの私だった。大人の対応だったと自分を褒めておく。(お寿司が食べられなかったのは残念だけど。)
 コーヒーが飲めるようになったり、親に気を遣えるようになったり、大人に近づいてきた私には、腹を括らないといけないことが一つあった。
 陽介がくれたメモ用紙を広げる。改めて見てみると、雑に書いたのではなくて、手が震えていたのかもしれないと思えてくる。

 自分のスマフォに十一桁の数字を入力し終えた。間違いが無いか何度も何度も確認し、人差し指で電話マークの緑のボタンに触れる。
 緊張しすぎて、呼吸が浅くなった。エアコンをつけているのに脇にも背中にも汗が滲む。

 私を焦らすようにコールが鳴り続ける。そろそろ切ったほうがいいかもしれない。スマフォから耳を話そうとした時、一瞬だけの静寂が訪れた。

『……もしもし?』

 スピーカーから聞こえてきたのは、あまりにも頼りない男の人の声だった。

『もしもーし?』

 声を出そうとしてむせた。こちらを訝しむような声がして、あわてて「光莉(ひかり)です」名乗る。

『えっ?』
「あの、私です。成宮光莉、です」
『……ひーちゃんっ!?』

 声はさらに情けなくなる。

『よかった。生きてた……』

 はーっと息を吐くのが聞こえた。
 大げさな、と笑いそうになったけど、石の階段の一番上から転げ落ちたのだ。打ち所が悪ければ本当に命を失っていたかもしれない。最悪の事態を想像して今さらぞっとしてくる。

『今、入院してるのか?』
「ううん。もう退院した」
『軽症で済んだのか? どのくらい入院してた?』
「左の手首を骨折して、三日間入院した。でもそれだけ」
『手術を……。今も不便だろう?』
「うん、まあ」

 勝手に出て行った父が、怪我した娘の不自由さを心配している。こういうの、「滑稽」っていうんだっけ。

「お父さん、今どこにいるの?」

 ややあって父が答えたのは、南関東の県名だった。
 私は数回旅行したことがある程度で、土地勘は全く無い。父は近所の会社で事務員として働いているという。

「……お父さん、どうして出ていったの?」

 さっそく本題に入ると、スピーカーの向こうで息を呑む音が聞こえた。

『……ひーちゃんたちには、本当に悪かったと思ってるよ』
「理由を教えてほしいの」

 声が震えないように喋ると、語気が強まった。きっと怒っているように聞こえただろう。実際に、私は腹を立てていた。でも、父にぶつける気は無い。
 感情の吐露ができぬほど、私にとって父は遠い人となってしまった。

『病気だった』

 静かに父は言う。
 今度は私が息を呑む。

「病気? ……どこが悪いの?」

 心、とただ一言答えた声のあまりの情けなさに、もうそれ以上何も言い返せなくなる。

 つい、胸のあたりを押さえた。幼い時は、ここにハートマークの「心」が入っているのだと思っていた。
 父のことを思い出そうとする時、頭の中に浮かぶのは暗い横顔だけだった。楽しくなさそうな、思い詰めたような表情をいつも浮かべていた。
 きっとあの時から、父は病に侵されていたのだ。

 父のような人を責めてはいけない。私でもそれくらいは知っている。
 本心を飲み込んでから、私はまた口を開く。

「……今はどうなの?」
『今も、病気と戦う時があるよ。心の病気と。何度も負けそうになった。明莉(あかり)とひーちゃんがいるのに、一人になりたいって考えるようになっちゃったんだよ。……おまえたちには言えないようなことばかり考えちゃってたんだよ。……勝手な人間で、ごめんな」

 心の病気に負けるとはどういうことだろうと考え、すぐに答えを導き出せた。
 エアコンの風が強すぎるのか、体が震えそうになる。
 
『でも、昔よりは上手く付き合っている気がする』
「そっか……」

 責めるつもりはなくても、何の気なしに掛けた言葉が相手を苦しめるということだって、知っている。
 それを知っているからこそ、何も言い返せない。「頑張ったね」も「頑張ってね」も、きっと不正解だ。「ずるいよ」とか、「何で言ってくれなかったの」とかはもっと不正解だ。

 私の心まで苦しくなりそうで、話題を変えることにした。

「お父さん、何で今さら私に会いに来たの?」
『明莉から久々に一報が来て、関西に行くかもしれないって教えてもらったから』
「関西行きを」

 気持ちが頭の中で言語化されるなり、口から言葉が溢れた。

「関西行きを、……止めに来たの?」

 疑問というよりは、願望だったかもしれない。
 この期に及んで父の気持ちを計りたいと思っている自分に気がつき戸惑う。