「……ありがとう、光莉(ひかり)

 陽介が目元を拭う。

「またじいちゃんに会えたみたいで嬉しい」
「よかったら、持っていってね。おじいちゃんの写真」
「でも、光莉のお母さんに悪いし」
「見返してないと思うよ。大丈夫」
「……じゃあ、この写真だけ」

 陽介のおじいちゃんがギターを弾いている写真を取り出して彼に渡した。
 もう一度「ありがとう」と言われた。

「俺も渡したいものがある」

 陽介は自分のスクールバッグを引き寄せる。中から二つ折りの財布を取り出した。

「ずっと渡すべきかどうか、迷ってた」

 お札と一緒にしまわれていた紙を取り出し、彼は私に渡してきた。090で始まる十一桁の数字がボールペンで書かれている。あわてて書き殴ったような雑な字だ。

「電話番号? 誰の?」
「光莉のお父さんから渡されたんだ」
「お父さんから……?」
「救急車を見送りながら、ずっと心配してたよ。落ち着いたら、光莉に渡してほしいって頼まれてたから、お見舞いに行った時に渡そうかと思ったんだけど……」

 病室まで駆けつけてくれた時、陽介が何か握りしめていたことを思い出した。

「あの日、びっくりした?」
「するだろ。その日は寝られなかったよ。驚いたし、ショックだったかな。でも、お父さんのことは、忘れたいくらいつらい思い出なのかなって。それで、電話番号を渡すタイミングも無くて」

 ずっと気がかりでいたのだろうか。そんな顔をしてほしくなかった。

 父と私で校門の前でちょっとした騒ぎを起こしてしまい、「不審者が出た」と噂になってしまったらしい。次の日には全校集会まで開かれた。
 それ以上騒ぎが大きくならないように、陽介が五組の担任を通じて学校側に事情を説明してくれたそうだ。「保護者と生徒が口論していただけだ」、と。

「光莉は電話するの? お父さんに」
「……どうしよう」

 父は一体、何の話をするつもりなのだろう。
 父との明るい思い出だってたしかにあった。けれど、幼い私と母を置いていったという事実は変わらない。

「俺は無理にしなくてもいいと思うけどな」
「うん。……しばらく迷ってみる」

 初夏の空はまだ明るい。時刻を確認すると、もうそろそろ母が退社する時間になっていた。
 陽介が三冊目のアルバムを閉じようとして、一番後ろのページに紙が挟まれていることに気がついた。

「何だろう」

 折りたたまれた一枚の画用紙だった。開いてみると、似顔絵が現れた。保育園児くらいの子どもが絵の具で描いたような、顔だけの絵だ。
 顔の下には、ぎりぎり読み取れる字で「なりみや ひかり」と書かれている。

「何で……?」

 保育園で、父の日のために描いた似顔絵だった。
 祖父母の家のゴミ箱に捨てたはずだった。
 父との思い出と一緒に。
 一度ゴミ箱に突っ込んだ証拠に、無数の折れ目がつき、汚れも染みている。
 拾い上げたのはきっと母だ。ゴミ箱から拾い上げ、このアルバムにそっと挟む後ろ姿を思い浮かべる。

 絵の具で描かれた父の横には、大きい丸と小さい丸がお団子のようにくっついて描かれている。大きい方の丸の中は黒く塗りつぶされていた。一体私は何が描きたかったのだろうと思い首を傾げる。

「これってコーヒー?」

 陽介が絵を覗き込み、二つの丸を指した。

「コーヒー?」
「コーヒーカップの絵じゃないの?」
「ああ……。そうかも」

 言われて初めて気がついた。父の隣に、下手くそなコーヒーの絵を描いておいたのだ。これはきっと、陽介のおじいちゃんが淹れてくれたコーヒーなのだろう。

 レインコートにいた私は笑っていた。楽しかったはずだ。でも、楽しい思い出も一緒に捨ててしまった。
 お父さんは冷たい人。
 お父さんは自分のことしか考えない人。
 そう思って、およそ十七年間を生きてきた。
 だから、苦しむことなんてなかった。悲しむことなんてなかった。
 けれど全てを思い出してしまった今、見過ごすことのできない矛盾が私の胸を深くえぐる。

 お父さんはどうして私とお母さんの前から消えたの。
 どうして置いていったの。
 どうして今さらになって、顔を見せたの。
 話がしたいなんて言うの。

 電話番号を隠した握りこぶしが震えた。
 この番号にかけたら、理由を教えてくれるのだろうか。理由を知った時、私は絶望しないだろうか。

 肩が熱くなる。気がつけば、陽介の大きな手が置かれていた。

 自分の目から涙がこぼれていることを初めて知った。