彼は気にする様子もなく二冊目のアルバムを手に取った。
三歳のときの七五三の写真が入っていた。家族三人で映っている写真が多かった。今よりもずっとずっと若いお母さんに少し笑ってしまいそうになるけれど、ずっとシングルマザーとして頑張っていたのだ。老けるのもしかたがない。
引っ越す前まで通っていた保育園での運動会や夏祭りの写真が続き、二冊目も見終わってしまった。
二冊のアルバムを見終えるまでに、十五分くらいしかかかっていない。「一人では大変だから手伝ってほしい」と言った私の言葉を訝しむこともなく、陽介は三冊目を開く。
表紙を開いてすぐ、陽介は「じいちゃんだ」と目を丸くした。
「ほんと?」
左手首に体重をかけないようにしながら陽介に身を寄せる。
写真に写っていたのは、私のお父さんと七十代くらいの男性だった。
この人が陽介のおじいちゃんであるらしい。白く長い髪を後ろでまとめている。白いシャツに黒いエプロンというシンプルな装いなのに、とてもかっこいい。顔の輪郭と目のあたりが陽介に似ているかもしれない。
二人は仲良く並んでピースサインを向けている。アップの写真では背景がよくわからないけれど、ページを捲ると、引きで撮った写真が現れた。
喫茶店と思しき場所だ。笑顔のお客さんたちも数名映っている。みんな仲良さそうに肩を組んでいる。きっと常連さんだろう。
陽介も私の隣でごくんと喉を鳴らす。
「レインコートだ……」
常連さんたちの背後には窓があった。ガラスには、左右反転したアルファベットが金色の字で書かれている。頭の中で綴りを正すと、「The Raincoat」となった。英語が苦手な私でも「レインコート」と和訳することができた。
間違いなく、写真に写るこの場所が「レインコート」なのだ。
現実に存在した「レインコート」は、私が夢に見た「レインコート」とよく似ていた。レトロな雰囲気が共通している。カウンターやテーブルの配置も同じだった。
けれど、何から何まで同じというわけではない。
壁に手書きのメニューが貼られていたりカウンターの向こうに書類を入れたカラーボックスが見えていたりと、庶民的で煩雑な印象の店内だった。
私が夢で見たお店は、SNSやテレビで目にした喫茶店を参考にしているのかもしれない。
店内の様子がわかる写真を眺めながら、カウンターのランプに目が留まる。
ステンドグラスのおしゃれなランプだった。ガラスを組み合わせて描かれているのは赤い花だと思ったけど、よく見てみると金魚だった。
ステンドグラスに、金魚。
私の夢の中にもその二つが登場した。夢の中で「懐かしい」と感じた。
内装にステンドグラスを使った喫茶店はさほど珍しくないだろう。
でも、金魚はどうだろうか。一般的ではない気がする。
なぜ金魚が私の夢の中に出てきたのだろう。
「ねえ、陽介。お店の中に金魚のランプがあるって話を私にしてくれたっけ?」
「してないよ。俺は一度もレインコートに行ったことがないんだから」
「じゃあ、どうして……」
どうして私はステンドグラスや金魚をひどく懐かしく思うのだろう。
「……」
ある可能性を思いついて、心臓がどくんと鳴る。
ページが捲られる。
二人で息を呑んだ。
レインコートのカウンターの前に座る、幼い女の子がいた。ソフトクリーム柄の、薄むらさきのレインコートを羽織っている。
満面の笑みを浮かべ、ピースサインをしていた。
「私だ」「光莉だ」
声が被り、お互いに目が合って私たちは笑った。
「でも、どうして私が……?」
アルバムを二人でのぞき合っているうちに、いつしか肩が触れ合っていた。雨の降り注ぐ中庭を眺めながら、ホットコーヒーを飲んだ日のように。
「光莉、なんで店の中でレインコートなんて着てるの?」
「お父さんに買ってもらったばっかりで、嬉しくて、雨が降ってない日でも着ていたんだって……」
声が震えそうになった。
忘れていただけで、私は陽介のおじいちゃんのお店であるレインコートを訪れていたのだ。
父と一緒に。
レインコートは、私の思い出の場所でもあったのだ。
「光莉、コーヒー飲んでるじゃん」
彼が指さす私は、たしかにコーヒーカップに口を付けている。
「コーヒーじゃなくて、オレンジジュースだった気がする……」
コーヒーをすする父の隣で、オレンジジュースを飲んだ記憶が薄っすらと蘇る。メニューには無いけれど、マスターが私のために特別に出してくれた。
「この金魚のランプも覚えてるかも」
ステンドグラスのランプにもう一度目を凝らした。単純な線で描かれた赤い金魚たちが光っている。このランプを眺めるのが好きだった。スイッチを入れると、カウンターに虹色の光が反射してきれいだった。
次のページは、陽介のおじいちゃんの写真がたくさん貼ってあった。
カウンターから出てきて椅子に座り、足を組んでギターを奏でている。アーティストみたいでとてもかっこいい。私とお父さんが演奏する様子を見守っていた。
「陽介のおじいちゃん、ギターが弾けたの?」
「うん。結構上手かった気がする」
顔を上げると、彼の微笑みが間近にあった。目元が薄っすらと濡れている。私は遠慮して、またアルバムを見下ろす。
耳元であの曲のイントロが再生される。
「そうだ、私はレインコートで聴いたんだ」
「何を?」
「『虹の彼方に』」
「ああ、よく弾いてたかも。『Over the Rainbow』」
陽介は、ギターを弾くおじいちゃんの写真をしばらくの間見つめていた。きっと彼の頭の中にも、優しい音色が響いている。
心の中に虹を描いている。
三歳のときの七五三の写真が入っていた。家族三人で映っている写真が多かった。今よりもずっとずっと若いお母さんに少し笑ってしまいそうになるけれど、ずっとシングルマザーとして頑張っていたのだ。老けるのもしかたがない。
引っ越す前まで通っていた保育園での運動会や夏祭りの写真が続き、二冊目も見終わってしまった。
二冊のアルバムを見終えるまでに、十五分くらいしかかかっていない。「一人では大変だから手伝ってほしい」と言った私の言葉を訝しむこともなく、陽介は三冊目を開く。
表紙を開いてすぐ、陽介は「じいちゃんだ」と目を丸くした。
「ほんと?」
左手首に体重をかけないようにしながら陽介に身を寄せる。
写真に写っていたのは、私のお父さんと七十代くらいの男性だった。
この人が陽介のおじいちゃんであるらしい。白く長い髪を後ろでまとめている。白いシャツに黒いエプロンというシンプルな装いなのに、とてもかっこいい。顔の輪郭と目のあたりが陽介に似ているかもしれない。
二人は仲良く並んでピースサインを向けている。アップの写真では背景がよくわからないけれど、ページを捲ると、引きで撮った写真が現れた。
喫茶店と思しき場所だ。笑顔のお客さんたちも数名映っている。みんな仲良さそうに肩を組んでいる。きっと常連さんだろう。
陽介も私の隣でごくんと喉を鳴らす。
「レインコートだ……」
常連さんたちの背後には窓があった。ガラスには、左右反転したアルファベットが金色の字で書かれている。頭の中で綴りを正すと、「The Raincoat」となった。英語が苦手な私でも「レインコート」と和訳することができた。
間違いなく、写真に写るこの場所が「レインコート」なのだ。
現実に存在した「レインコート」は、私が夢に見た「レインコート」とよく似ていた。レトロな雰囲気が共通している。カウンターやテーブルの配置も同じだった。
けれど、何から何まで同じというわけではない。
壁に手書きのメニューが貼られていたりカウンターの向こうに書類を入れたカラーボックスが見えていたりと、庶民的で煩雑な印象の店内だった。
私が夢で見たお店は、SNSやテレビで目にした喫茶店を参考にしているのかもしれない。
店内の様子がわかる写真を眺めながら、カウンターのランプに目が留まる。
ステンドグラスのおしゃれなランプだった。ガラスを組み合わせて描かれているのは赤い花だと思ったけど、よく見てみると金魚だった。
ステンドグラスに、金魚。
私の夢の中にもその二つが登場した。夢の中で「懐かしい」と感じた。
内装にステンドグラスを使った喫茶店はさほど珍しくないだろう。
でも、金魚はどうだろうか。一般的ではない気がする。
なぜ金魚が私の夢の中に出てきたのだろう。
「ねえ、陽介。お店の中に金魚のランプがあるって話を私にしてくれたっけ?」
「してないよ。俺は一度もレインコートに行ったことがないんだから」
「じゃあ、どうして……」
どうして私はステンドグラスや金魚をひどく懐かしく思うのだろう。
「……」
ある可能性を思いついて、心臓がどくんと鳴る。
ページが捲られる。
二人で息を呑んだ。
レインコートのカウンターの前に座る、幼い女の子がいた。ソフトクリーム柄の、薄むらさきのレインコートを羽織っている。
満面の笑みを浮かべ、ピースサインをしていた。
「私だ」「光莉だ」
声が被り、お互いに目が合って私たちは笑った。
「でも、どうして私が……?」
アルバムを二人でのぞき合っているうちに、いつしか肩が触れ合っていた。雨の降り注ぐ中庭を眺めながら、ホットコーヒーを飲んだ日のように。
「光莉、なんで店の中でレインコートなんて着てるの?」
「お父さんに買ってもらったばっかりで、嬉しくて、雨が降ってない日でも着ていたんだって……」
声が震えそうになった。
忘れていただけで、私は陽介のおじいちゃんのお店であるレインコートを訪れていたのだ。
父と一緒に。
レインコートは、私の思い出の場所でもあったのだ。
「光莉、コーヒー飲んでるじゃん」
彼が指さす私は、たしかにコーヒーカップに口を付けている。
「コーヒーじゃなくて、オレンジジュースだった気がする……」
コーヒーをすする父の隣で、オレンジジュースを飲んだ記憶が薄っすらと蘇る。メニューには無いけれど、マスターが私のために特別に出してくれた。
「この金魚のランプも覚えてるかも」
ステンドグラスのランプにもう一度目を凝らした。単純な線で描かれた赤い金魚たちが光っている。このランプを眺めるのが好きだった。スイッチを入れると、カウンターに虹色の光が反射してきれいだった。
次のページは、陽介のおじいちゃんの写真がたくさん貼ってあった。
カウンターから出てきて椅子に座り、足を組んでギターを奏でている。アーティストみたいでとてもかっこいい。私とお父さんが演奏する様子を見守っていた。
「陽介のおじいちゃん、ギターが弾けたの?」
「うん。結構上手かった気がする」
顔を上げると、彼の微笑みが間近にあった。目元が薄っすらと濡れている。私は遠慮して、またアルバムを見下ろす。
耳元であの曲のイントロが再生される。
「そうだ、私はレインコートで聴いたんだ」
「何を?」
「『虹の彼方に』」
「ああ、よく弾いてたかも。『Over the Rainbow』」
陽介は、ギターを弾くおじいちゃんの写真をしばらくの間見つめていた。きっと彼の頭の中にも、優しい音色が響いている。
心の中に虹を描いている。