「あ、成宮さん」
中庭のベンチで寝そべっていた彼のまぶたが持ち上がる。
今日はカンカン照りだ。形の良い額には汗が浮いている。
こんなところでよく寝られるな、と感心した。冷房が効いている分、中庭より質の良い睡眠がとれるのではないかと思う。
文化祭だってもう終わった。演劇の練習だって、もうしていないはず。
それなのに彼は中庭を選んだのだ。
理由はきっと、記憶を無くした私をここで待つため。
自惚れていると笑われてしまうだろうか。
「……陽介」
私は、心を込めて彼の名前を呼んだ。
とろんとしていた目がはっと見開かれる。
「陽介。私のこと、下の名前で呼んで」
陽介はゆっくりと起き上がった。きれいな瞳がじっと私を見返す。
「……光莉」
名前を呼ばれただけ。それだけで、私の胸のあたりもじわりと温まっていく。コーヒーカップの熱が指先に伝うように、
彼はもう一度、「光莉」と私の名前を呼んだ。
心を込めて。
「……なんだ。思い出しちゃったの?」
彼は目を伏せる。
「うん。全部思い出せた。事故があった日、何があったのか。追いかけてきたのは不審者じゃなくてお父さんだったことも。それに、陽介のことも……」
「つらくないの? お父さんのことなんて、思い出さないほうがよかったんじゃないの」
「思い出せてよかったよ」
「なんで?」
「だって、陽介のことまで忘れたくないもん」
事故をきっかけに、私は記憶の一部を封印した。
鍵のかかったシャッターの向こう側に隠すみたいに。アルバムの中に閉じ込めるみたいに。
だって、父のことを思い出すのは辛い。
父に追いかけられた記憶に付随して、陽介のことや佐々木さんのことまで忘れてしまった。
彼が、「お母さんに渡してほしい」と言って渡してきたルーズリーフはやはり手紙で、父のことが書かれていたらしい。今朝、お母さんが教えてくれた。
彼は不審者ではなくて、娘の父親であること。危害を加えようとしたのではなく、むしろ助けようとしたこと。
そんなことを、陽介は丁寧に書き綴ってくれていた。
父に対し、母はかんかんに怒っていた。どうして勝手なことをしたのだろうと。
それでも、不審者に追いかけられたのではないということが判明して、母はほっとしたと語っていた。
中庭に風が吹き、私の汗を乾かした。
口を開く。
「――陽介、改めて家に来てほしい」
我が家のリビングに同級生が立っている。たったそれだけのことなのに、私の目にとても新鮮な光景に映った。
友達を家に呼ぶなんて、小学生の時以来だ。よくよく考えてみると、異性が訪れるのは初めてのことだった。
陽介と二人で母の自室に入る。エアコンもつけていないし、西向きの窓から強烈な日差しが差し込んでいて蒸し暑い。
家族のプライベートな空間に友達を侵入させている。心の中で母に平謝りし、ウォークインクローゼットの引き戸を開けた。
分厚いアルバムが三冊並んでいる。
左の手首を骨折している私の代わりに、陽介がアルバムを引っ張り出してくれた。背伸びなんかしなくても、簡単に取り出せていた。
運んでもらった三冊のアルバムはリビングのローテーブルの上に置かれる。
ぴりぴりと頭痛がしてきて、彼の腕につかまりたくなる。またあの痛みがやってきた。「見るな」と警告されているみたいだ。
それでも、今はすぐ隣に陽介がいる。自分は一人ではないという安心感からか、前よりも痛みが弱いように感じた。
陽介はさっそく一冊目のアルバムを開いた。
「お、可愛いじゃん。何となく面影ある」
陽介が顔をほころばせる。
アルバムの最初のページには、六枚の写真が貼りつけられていた。
それぞれの写真の右下に記されている日付は、私の生年月日だ。白いタオルにくるまれている赤ちゃんが映っている。
その赤ちゃんを腕に抱いている男性は……。
「お父さん……」
間違いない。
あの日、私を追いかけてきた男性が赤ちゃんと一緒に写っていた。
生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱いて、嬉しそうにピースサインをしている。目元が赤いのは、泣いたためだろうか。娘が生まれてきて、嬉し泣きするような人だったらしい。
心の中の父の像が音を立てて崩れそうになる。
陽介がページを捲っていく。
どのページにもお父さんと私の写真ばかりが貼りつけられている。
ふっくらして、より赤ちゃんらしくなった私をベビーカーに乗せて散歩するお父さん。あんよの練習だろうか、私の両腕を持っているお父さん。私と一緒に布団で気持ちよさそうに寝ているお父さん――。
どのページをめくってみても、私とお父さんばかり。
母が意図的に私と父の思い出をまとめ、クローゼットに閉じ込めていたのは言うまでもなかった。撮影者はきっと、お母さんだろうに。
こみ上げてくるものを我慢する私の横で彼がページを捲り続ける。自分の両目を熱くさせる感情を一言で言い表すことはとてもできない。
アルバムの一冊目を全て見通した。
「……ごめん。無かったね」
陽介に謝る。
レインコートの写真は見当たらなかった。私の父との思い出に浸るために彼をわざわざ呼びつけたわけではない。二冊目以降にもレインコートの写真は無いかもしれない。
中庭のベンチで寝そべっていた彼のまぶたが持ち上がる。
今日はカンカン照りだ。形の良い額には汗が浮いている。
こんなところでよく寝られるな、と感心した。冷房が効いている分、中庭より質の良い睡眠がとれるのではないかと思う。
文化祭だってもう終わった。演劇の練習だって、もうしていないはず。
それなのに彼は中庭を選んだのだ。
理由はきっと、記憶を無くした私をここで待つため。
自惚れていると笑われてしまうだろうか。
「……陽介」
私は、心を込めて彼の名前を呼んだ。
とろんとしていた目がはっと見開かれる。
「陽介。私のこと、下の名前で呼んで」
陽介はゆっくりと起き上がった。きれいな瞳がじっと私を見返す。
「……光莉」
名前を呼ばれただけ。それだけで、私の胸のあたりもじわりと温まっていく。コーヒーカップの熱が指先に伝うように、
彼はもう一度、「光莉」と私の名前を呼んだ。
心を込めて。
「……なんだ。思い出しちゃったの?」
彼は目を伏せる。
「うん。全部思い出せた。事故があった日、何があったのか。追いかけてきたのは不審者じゃなくてお父さんだったことも。それに、陽介のことも……」
「つらくないの? お父さんのことなんて、思い出さないほうがよかったんじゃないの」
「思い出せてよかったよ」
「なんで?」
「だって、陽介のことまで忘れたくないもん」
事故をきっかけに、私は記憶の一部を封印した。
鍵のかかったシャッターの向こう側に隠すみたいに。アルバムの中に閉じ込めるみたいに。
だって、父のことを思い出すのは辛い。
父に追いかけられた記憶に付随して、陽介のことや佐々木さんのことまで忘れてしまった。
彼が、「お母さんに渡してほしい」と言って渡してきたルーズリーフはやはり手紙で、父のことが書かれていたらしい。今朝、お母さんが教えてくれた。
彼は不審者ではなくて、娘の父親であること。危害を加えようとしたのではなく、むしろ助けようとしたこと。
そんなことを、陽介は丁寧に書き綴ってくれていた。
父に対し、母はかんかんに怒っていた。どうして勝手なことをしたのだろうと。
それでも、不審者に追いかけられたのではないということが判明して、母はほっとしたと語っていた。
中庭に風が吹き、私の汗を乾かした。
口を開く。
「――陽介、改めて家に来てほしい」
我が家のリビングに同級生が立っている。たったそれだけのことなのに、私の目にとても新鮮な光景に映った。
友達を家に呼ぶなんて、小学生の時以来だ。よくよく考えてみると、異性が訪れるのは初めてのことだった。
陽介と二人で母の自室に入る。エアコンもつけていないし、西向きの窓から強烈な日差しが差し込んでいて蒸し暑い。
家族のプライベートな空間に友達を侵入させている。心の中で母に平謝りし、ウォークインクローゼットの引き戸を開けた。
分厚いアルバムが三冊並んでいる。
左の手首を骨折している私の代わりに、陽介がアルバムを引っ張り出してくれた。背伸びなんかしなくても、簡単に取り出せていた。
運んでもらった三冊のアルバムはリビングのローテーブルの上に置かれる。
ぴりぴりと頭痛がしてきて、彼の腕につかまりたくなる。またあの痛みがやってきた。「見るな」と警告されているみたいだ。
それでも、今はすぐ隣に陽介がいる。自分は一人ではないという安心感からか、前よりも痛みが弱いように感じた。
陽介はさっそく一冊目のアルバムを開いた。
「お、可愛いじゃん。何となく面影ある」
陽介が顔をほころばせる。
アルバムの最初のページには、六枚の写真が貼りつけられていた。
それぞれの写真の右下に記されている日付は、私の生年月日だ。白いタオルにくるまれている赤ちゃんが映っている。
その赤ちゃんを腕に抱いている男性は……。
「お父さん……」
間違いない。
あの日、私を追いかけてきた男性が赤ちゃんと一緒に写っていた。
生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱いて、嬉しそうにピースサインをしている。目元が赤いのは、泣いたためだろうか。娘が生まれてきて、嬉し泣きするような人だったらしい。
心の中の父の像が音を立てて崩れそうになる。
陽介がページを捲っていく。
どのページにもお父さんと私の写真ばかりが貼りつけられている。
ふっくらして、より赤ちゃんらしくなった私をベビーカーに乗せて散歩するお父さん。あんよの練習だろうか、私の両腕を持っているお父さん。私と一緒に布団で気持ちよさそうに寝ているお父さん――。
どのページをめくってみても、私とお父さんばかり。
母が意図的に私と父の思い出をまとめ、クローゼットに閉じ込めていたのは言うまでもなかった。撮影者はきっと、お母さんだろうに。
こみ上げてくるものを我慢する私の横で彼がページを捲り続ける。自分の両目を熱くさせる感情を一言で言い表すことはとてもできない。
アルバムの一冊目を全て見通した。
「……ごめん。無かったね」
陽介に謝る。
レインコートの写真は見当たらなかった。私の父との思い出に浸るために彼をわざわざ呼びつけたわけではない。二冊目以降にもレインコートの写真は無いかもしれない。