水たまりも介せずに駆け出す。
勉強は苦手だけど、足は速い。
「ひーちゃん!! 待って!」
信号の無い横断歩道にとび出した。
迫ってくる軽トラにクラクションを鳴らされたけど、止まらずに走った。通行人が何事かと私を振り返る。
傘が風の抵抗を受ける。走りにくくてしかたない。
振り返る。追いかけてくるのが見えて、悲鳴をあげそうになった。
傘が邪魔になり、おざなりに畳んでガードレールに引っかけた。こんなところに置いておいたら盗まれるかもしれない。安物だけど失くしたら困る。新しい傘を買うのだって、うちの家計には響くのだ。
それでも、今は気にしていられなかった。
雨の中を再び駆け出す。後ろで傘が倒れた音がしたけど、振り返れなかった。
「ひーちゃん!」
大通りに出た。このまま真っ直ぐ進まず、小道に入って目くらまししようとした。学校の次に自宅の場所まで特定されては困る。
横断歩道すらない道にとび出し、向こう側へ渡る。
歩道の段差に足が引っかかって、思いきり転んだ。コンクリートが手のひらと膝を擦り上げる。
「いっ……」
顔を歪めていると、ずっと後ろでまた「ひーちゃん!」と叫ぶ声がした。
必死になって立ち上がる。頭も手も膝も、どこもかしこもが痛い。泣きそうなほどに。
小道に入ってから気がつく。
この先には階段があり、商店街に続いている。逃げているのに開けた道に戻らなかったのは間抜けすぎる。でも、もう引き返せない。
小道を抜ける。眼下には雨を浴びて濡れる街が広がっている。
五歳から暮らしている街。
お母さんと二人でめげずによくやってきた、頑張ってきた、この街。
途中でおばあちゃんが亡くなり、おじいちゃんも後を追うように亡くなった。
嬉しいことも楽しいこともあった。でも、悲しいことやつらいことだってたくさん。
楽しいことと嬉しいこと。
悲しいことと辛いこと。
どちらの数のほうが多かっただろう。
数えることはできないけれど、ネガティブな記憶だけを色濃く思い出してしまう時がある。楽しかったことや嬉しかったことなんて一つも無かったんじゃないか。そう絶望してしまう時がある。
どうしてお父さんは出て行ってしまったんだろう。私のことが好きじゃなかったのかな。
両親揃った家庭が羨ましくなる日は、心の中で呪文を唱えた。
お父さんは冷たい人。
お父さんは自分のことしか考えない人。
だから、出て行ってくれたほうがよかったんだ。
いないほうがよかったんだ。
それなのに、今さら「ひーちゃんに甘いところがあったからね」だなんて聞かされても困るだけだ。
「話がしたい」なんて言われても、困るだけなのだ。
石の階段の上で足が滑った。
ひやりとしたけれど、もう遅い。
私の体は前に大きく傾いた。つかむものは何もない。商店街のアーケードの屋根が視界にとび込む。
死ぬかもしれない。
ぎゅっと目をつむった。
「ひーちゃん!」
誰かが私の右腕をつかんだ。さらにバランスを崩す。
私の体は階段の中腹辺りに落下した。
おそるおそる目を開ける。目の前に、男性が――お父さんが――呻きながら倒れていた。
「光莉!」
お父さんではない誰かが私の名前を呼ぶ。
助けて、と左手を伸ばそうとした時だった。雷が落ちたかような痛みが手首に走った。
―― 一人で大丈夫です。
痛みに顔を歪めながら。救急隊員の人に何度もお願いした。
――誰も同乗させないでください。母に連絡してください。
追いかけてきてくれた陽介が一緒に乗ると申し出てくれたけど、それも断った。
―― 一人で大丈夫です。
だから、父だった人も、私を心配して追いかけてくれた同級生も、乗せないでください。
うわごとのように何度も繰り返した。
父のことなんてどうでもいい。でも、陽介にだけは迷惑をかけたくなかった。
それに、骨が内側から皮膚を押すせいで形の変わってしまった左手首を、冷や汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を、どうしても見られたくなかった。
私は総合病院に搬送され、手術を受けた。
麻酔で意識がふつっと途切れていく瞬間も、右腕が熱かった。
骨の折れた左手首ではなく、お父さんだった人につかまれた右腕が。
手術室のスピーカーからはオルゴールの音色がずっと流れていた。曲名は「虹の彼方に」。
今思えば、その時すでに私は、深い夢の中だったのだろう。
勉強は苦手だけど、足は速い。
「ひーちゃん!! 待って!」
信号の無い横断歩道にとび出した。
迫ってくる軽トラにクラクションを鳴らされたけど、止まらずに走った。通行人が何事かと私を振り返る。
傘が風の抵抗を受ける。走りにくくてしかたない。
振り返る。追いかけてくるのが見えて、悲鳴をあげそうになった。
傘が邪魔になり、おざなりに畳んでガードレールに引っかけた。こんなところに置いておいたら盗まれるかもしれない。安物だけど失くしたら困る。新しい傘を買うのだって、うちの家計には響くのだ。
それでも、今は気にしていられなかった。
雨の中を再び駆け出す。後ろで傘が倒れた音がしたけど、振り返れなかった。
「ひーちゃん!」
大通りに出た。このまま真っ直ぐ進まず、小道に入って目くらまししようとした。学校の次に自宅の場所まで特定されては困る。
横断歩道すらない道にとび出し、向こう側へ渡る。
歩道の段差に足が引っかかって、思いきり転んだ。コンクリートが手のひらと膝を擦り上げる。
「いっ……」
顔を歪めていると、ずっと後ろでまた「ひーちゃん!」と叫ぶ声がした。
必死になって立ち上がる。頭も手も膝も、どこもかしこもが痛い。泣きそうなほどに。
小道に入ってから気がつく。
この先には階段があり、商店街に続いている。逃げているのに開けた道に戻らなかったのは間抜けすぎる。でも、もう引き返せない。
小道を抜ける。眼下には雨を浴びて濡れる街が広がっている。
五歳から暮らしている街。
お母さんと二人でめげずによくやってきた、頑張ってきた、この街。
途中でおばあちゃんが亡くなり、おじいちゃんも後を追うように亡くなった。
嬉しいことも楽しいこともあった。でも、悲しいことやつらいことだってたくさん。
楽しいことと嬉しいこと。
悲しいことと辛いこと。
どちらの数のほうが多かっただろう。
数えることはできないけれど、ネガティブな記憶だけを色濃く思い出してしまう時がある。楽しかったことや嬉しかったことなんて一つも無かったんじゃないか。そう絶望してしまう時がある。
どうしてお父さんは出て行ってしまったんだろう。私のことが好きじゃなかったのかな。
両親揃った家庭が羨ましくなる日は、心の中で呪文を唱えた。
お父さんは冷たい人。
お父さんは自分のことしか考えない人。
だから、出て行ってくれたほうがよかったんだ。
いないほうがよかったんだ。
それなのに、今さら「ひーちゃんに甘いところがあったからね」だなんて聞かされても困るだけだ。
「話がしたい」なんて言われても、困るだけなのだ。
石の階段の上で足が滑った。
ひやりとしたけれど、もう遅い。
私の体は前に大きく傾いた。つかむものは何もない。商店街のアーケードの屋根が視界にとび込む。
死ぬかもしれない。
ぎゅっと目をつむった。
「ひーちゃん!」
誰かが私の右腕をつかんだ。さらにバランスを崩す。
私の体は階段の中腹辺りに落下した。
おそるおそる目を開ける。目の前に、男性が――お父さんが――呻きながら倒れていた。
「光莉!」
お父さんではない誰かが私の名前を呼ぶ。
助けて、と左手を伸ばそうとした時だった。雷が落ちたかような痛みが手首に走った。
―― 一人で大丈夫です。
痛みに顔を歪めながら。救急隊員の人に何度もお願いした。
――誰も同乗させないでください。母に連絡してください。
追いかけてきてくれた陽介が一緒に乗ると申し出てくれたけど、それも断った。
―― 一人で大丈夫です。
だから、父だった人も、私を心配して追いかけてくれた同級生も、乗せないでください。
うわごとのように何度も繰り返した。
父のことなんてどうでもいい。でも、陽介にだけは迷惑をかけたくなかった。
それに、骨が内側から皮膚を押すせいで形の変わってしまった左手首を、冷や汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を、どうしても見られたくなかった。
私は総合病院に搬送され、手術を受けた。
麻酔で意識がふつっと途切れていく瞬間も、右腕が熱かった。
骨の折れた左手首ではなく、お父さんだった人につかまれた右腕が。
手術室のスピーカーからはオルゴールの音色がずっと流れていた。曲名は「虹の彼方に」。
今思えば、その時すでに私は、深い夢の中だったのだろう。