次の日の放課後になった。
ローファーに履き替えて、陽介と昇降口を出る。
「レインコートっぽい写真、あった?」
傘を開きながら陽介は私を振り返る。
「ううん。まだ見つかってなくて……」
実は、見つけられていないどころか、アルバムを開いてすらいなかった。サボっていたわけではない。わざわざ自宅まで来てもらってしまって、陽介には申し訳ない。「ご足労をおかけします」と心の中で九十度頭を下げる。けれど、一人でアルバムを開く勇気がどうしても出せなかった。
その代わり、家中ぴかぴかだし、冷凍庫にはハーゲンダッツが二つ冷えている。バニラチョコレートマカデミアとザ・リッチキャラメル。大奮発だ。
「せっかく来てもらうのに、写真が見つからなかったらごめんね」
「全然。しかたない。それにお父さんの写真、見てみたいし」
「私のお父さんの?」
「レインコートの常連だったんだろ。ちょっと気になる。どんな人だった?」
「全く覚えてないんだよね。五歳の時に家を出てっちゃったから」
「ふーん。俺も母親のこともう覚えてないや」
「ん? だって、離婚したのって去年って……。……もしかして、また揶揄われてる!?」
「光莉、おもしろすぎ」
あと一歩でブラックジョークだ。でも私もつい笑ってしまった。悔しい。
「陽介は、お母さんじゃなくてお父さんについてきたんだね」
「そう。だから今は父親とマンションで二人暮らし。父親のほうが経済的に安定してるし、なにより母親はうるさい人間だから」
「厳しかったの?」
「厳しかったし、めちゃくちゃ腹立つのが、死んだじいちゃんの悪口を言うんだよね。母親からすれば義理の父親か。じいちゃんが俺に勝手にコーヒーを飲ませたこと、まだ根に持ってるんだ。……『ひどいおじいちゃんだった』とか、『同居しなくて本当によかった』とか、『ぽっくり逝ってくれればよかったのに』とか、もう言いたい放題」
「それは嫌かもね」
うへえ、と顔をしかめそうになりながら、連想されるのは自分の母親の言葉だった。
――冷たい人だったよ。
――自分のことしか考えていない人だったよ。
親の吐いた言葉を、母による父の評価を、私は受け入れた。
陽介は拒んだ。
「だから父親についてきたんだ。母親と離婚してくれて、むしろよかったのかな。なによりこの街に引っ越せたから。じいちゃんのいたこの街に。全く不安が無かったわけじゃないけど引っ越してきてよかった。友達もできたし」
「そっか……」
私も、陽介に出会えてよかったと思える。両親の離婚や引っ越し自体は大変なことだっただろうけれど。
同じ高校の生徒たちが傘を揺らしながら校門へ向かって歩いている。
向こうに黒い傘が見えた。昨日の「嫌な感じ」が素肌の上によみがえる。
よく目を凝らした。黒い傘に隠れて顔はよく見えないが、昨日もいた人物と体型が同じだ。
「どうかした?」
陽介が振り返る。
「……校門のところに立ってるあの人、昨日もいたんだよね」
「校門のところ?」
陽介はちらっと男性に視線を向けた。
「迎えに来た保護者だろ」
あきれたような顔をされると、気にしている私のほうがおかしいのかなという気がしてくる。
それでも、男性の横を通り過ぎる時は自分の顔で隠した。無事に高校の敷地を脱出しほっと息をつく。
「ねえねえ。アンケートなんだけど」
気を取り直して、明るい声を出す。
「陽介はチョコとキャラメル、どっちが好き?」
「チョコ。急に何? あ、もしかして何か用意してくれてる?」
「ハーゲンダッツ買っておいたの」
「まじで? 気が利くじゃん、光莉」
「――『光莉』?」
低い男の人の声が、雨音を一瞬だけかき消す。
足を止め振り返った。
黒い傘の男性が目を丸くして私を見ている。
「……成宮光莉さん、ですか?」
男性の顔を正面から捉えた。誰かに似ている。
目のあたりが似ているかもしれない。
私に。
「知り合い?」
陽介が小声で訊く。同じ学校の生徒が鬱陶しそうに私たちの脇を通り過ぎていく。
「知り合いっていうか……」
まさか、と息を呑む。体温が一気に下がっていく。
猫背の男の人は泣きそうな顔で口を開いた。
「…………ひーちゃん、ですか?」
――冷たい人だったよ。
――自分のことしか考えていない人だったよ。
――お父さんはひーちゃんに甘いところがあったからね。
誰かに後頭部をはたかれたような衝撃を受けた。
「な、なんで……」
「ひーちゃんに、話があって」
左手で頭を押さえる。
男の人が、こちらに一歩踏み出した気配があった。足をすくませ、やっと口にした「無い」という言葉がひどく掠れていた。
「ひーちゃん、少しでいいから時間を」
「……無いよ。私は話なんて無いから!」
拒絶したくて、叫ぶ。
怖い。恥ずかしい。痛い。悲しい。
たくさんの感情に駆り立てられ、私は踵を返した。
「光莉!?」
陽介が叫ぶ。
「ごめん、陽介。今日は無理」
「えっ?」
「ごめん! また今度!」
ローファーに履き替えて、陽介と昇降口を出る。
「レインコートっぽい写真、あった?」
傘を開きながら陽介は私を振り返る。
「ううん。まだ見つかってなくて……」
実は、見つけられていないどころか、アルバムを開いてすらいなかった。サボっていたわけではない。わざわざ自宅まで来てもらってしまって、陽介には申し訳ない。「ご足労をおかけします」と心の中で九十度頭を下げる。けれど、一人でアルバムを開く勇気がどうしても出せなかった。
その代わり、家中ぴかぴかだし、冷凍庫にはハーゲンダッツが二つ冷えている。バニラチョコレートマカデミアとザ・リッチキャラメル。大奮発だ。
「せっかく来てもらうのに、写真が見つからなかったらごめんね」
「全然。しかたない。それにお父さんの写真、見てみたいし」
「私のお父さんの?」
「レインコートの常連だったんだろ。ちょっと気になる。どんな人だった?」
「全く覚えてないんだよね。五歳の時に家を出てっちゃったから」
「ふーん。俺も母親のこともう覚えてないや」
「ん? だって、離婚したのって去年って……。……もしかして、また揶揄われてる!?」
「光莉、おもしろすぎ」
あと一歩でブラックジョークだ。でも私もつい笑ってしまった。悔しい。
「陽介は、お母さんじゃなくてお父さんについてきたんだね」
「そう。だから今は父親とマンションで二人暮らし。父親のほうが経済的に安定してるし、なにより母親はうるさい人間だから」
「厳しかったの?」
「厳しかったし、めちゃくちゃ腹立つのが、死んだじいちゃんの悪口を言うんだよね。母親からすれば義理の父親か。じいちゃんが俺に勝手にコーヒーを飲ませたこと、まだ根に持ってるんだ。……『ひどいおじいちゃんだった』とか、『同居しなくて本当によかった』とか、『ぽっくり逝ってくれればよかったのに』とか、もう言いたい放題」
「それは嫌かもね」
うへえ、と顔をしかめそうになりながら、連想されるのは自分の母親の言葉だった。
――冷たい人だったよ。
――自分のことしか考えていない人だったよ。
親の吐いた言葉を、母による父の評価を、私は受け入れた。
陽介は拒んだ。
「だから父親についてきたんだ。母親と離婚してくれて、むしろよかったのかな。なによりこの街に引っ越せたから。じいちゃんのいたこの街に。全く不安が無かったわけじゃないけど引っ越してきてよかった。友達もできたし」
「そっか……」
私も、陽介に出会えてよかったと思える。両親の離婚や引っ越し自体は大変なことだっただろうけれど。
同じ高校の生徒たちが傘を揺らしながら校門へ向かって歩いている。
向こうに黒い傘が見えた。昨日の「嫌な感じ」が素肌の上によみがえる。
よく目を凝らした。黒い傘に隠れて顔はよく見えないが、昨日もいた人物と体型が同じだ。
「どうかした?」
陽介が振り返る。
「……校門のところに立ってるあの人、昨日もいたんだよね」
「校門のところ?」
陽介はちらっと男性に視線を向けた。
「迎えに来た保護者だろ」
あきれたような顔をされると、気にしている私のほうがおかしいのかなという気がしてくる。
それでも、男性の横を通り過ぎる時は自分の顔で隠した。無事に高校の敷地を脱出しほっと息をつく。
「ねえねえ。アンケートなんだけど」
気を取り直して、明るい声を出す。
「陽介はチョコとキャラメル、どっちが好き?」
「チョコ。急に何? あ、もしかして何か用意してくれてる?」
「ハーゲンダッツ買っておいたの」
「まじで? 気が利くじゃん、光莉」
「――『光莉』?」
低い男の人の声が、雨音を一瞬だけかき消す。
足を止め振り返った。
黒い傘の男性が目を丸くして私を見ている。
「……成宮光莉さん、ですか?」
男性の顔を正面から捉えた。誰かに似ている。
目のあたりが似ているかもしれない。
私に。
「知り合い?」
陽介が小声で訊く。同じ学校の生徒が鬱陶しそうに私たちの脇を通り過ぎていく。
「知り合いっていうか……」
まさか、と息を呑む。体温が一気に下がっていく。
猫背の男の人は泣きそうな顔で口を開いた。
「…………ひーちゃん、ですか?」
――冷たい人だったよ。
――自分のことしか考えていない人だったよ。
――お父さんはひーちゃんに甘いところがあったからね。
誰かに後頭部をはたかれたような衝撃を受けた。
「な、なんで……」
「ひーちゃんに、話があって」
左手で頭を押さえる。
男の人が、こちらに一歩踏み出した気配があった。足をすくませ、やっと口にした「無い」という言葉がひどく掠れていた。
「ひーちゃん、少しでいいから時間を」
「……無いよ。私は話なんて無いから!」
拒絶したくて、叫ぶ。
怖い。恥ずかしい。痛い。悲しい。
たくさんの感情に駆り立てられ、私は踵を返した。
「光莉!?」
陽介が叫ぶ。
「ごめん、陽介。今日は無理」
「えっ?」
「ごめん! また今度!」