「光莉!」
「……よ、陽介?」
ガラスの向こうに顔を出したのは、教室にいるのだろうと思っていた人物だった。
「な、何してるの?」
「何って、光莉を待ってたんだろ」
扉が開く。さらさらと雨の音が強まった。
屋外にいたはずの陽介の頭と身体はなぜか濡れていない。
彼は頭上を指さす。指の先を目で辿ると、出入り口の上にコンクリートの小さな軒裏があった。
私と同じ色の入った彼の上履きを見下ろす。石段があり、軒があるおかげで中央のあたりは乾いている。
「ここなら濡れずに済むよ」
陽介は石段の乾いたスペースの右半分に腰かけた。
左半分が空いている。ちょうど女子一人分くらいのスペースが。
扉を閉め、空いたスペースに座り、左肩が雨に濡れないように陽介に体を寄せた。
肩が触れる。自分の肩や二の腕のあたりが温かくなっていく。
「私たち、いつも狭いところにいるね」
「木陰より狭いな」
水筒のコップにアイスコーヒーが注がれた。湯気が立っている。
「ホットにしてくれたんだ」
「今日は気温が下がるって聞いたから」
舌を火傷しないよう、少しずつコーヒーを口に含む。腕のあたりだけでなく、全身が温まっていく。
「今日の豆は浅煎りで、お湯をたくさん使ってる」
「コーヒー豆っていろいろ種類があるんだ」
以前にもアサイリ、フカイリの話をされたのだけど、どのような違いがあったか、もう忘れてしまった。
「そう。豆は大きく分けて二種類。アラビカ種とカネフォラ種。リベリカ種っていうのもあるけど。産地によって全然特徴が違うし、焙煎の時間とか挽き方とかで味が変わってくるんだ。ストレートで飲むのか、ブレンドで飲むのかでも。俺はお客さん一人ひとりに合うブレンドコーヒーを考える店を出せたらなって思ってる。たとえば、コーヒーがあまり得意なお客さん向けのブレンドとか」
「私のこと?」
「そう。光莉のこと」
陽介の笑顔がいつもより近い。
「苦みと酸味を抑えた豆を色々試したい。たとえば……」
楽しそうに話す彼の声も雨の音も自分の心臓の音も大きくて、くらくらとしてくる。
コーヒーについて語る陽介にずっと耳を傾けているけれど、なかなか頭に入ってこない。コーヒーの話は私には奥が深すぎる。
彼がひとしきりコーヒーについて話した後、私はようやく昨日の出来事を打ち明けた。
「あのね、陽介に話があって」
「何?」
「おじいちゃんがやっていた喫茶店の名前って『レインコート』だったりする?」
陽介は目を輝かせ、「する!」と答えた。
「何で店の名前を……?」
私は両親がレインコートを訪れたこと、とくに父は常連だったことを話した。そして、自宅の母の部屋で見つけたアルバムのことを切り出す。
「アルバムの中に、もしかしたらレインコートの写真があるかもしれないと思って。量があるから、探すのを手伝ってもらえないかな」
真っ赤な嘘ではないけれど、二人がかりで取り掛かるような量ではない。それでも、陽介の手を借りたかった。また頭痛に襲われたらと思うと不安になってくる。
「俺が光莉の家に行くってこと?」
「うん。そうしてもらえると助かる。お母さんのいない時間に来てほしい。部屋からこっそり持ち出すから」
「お母さんに見つかると何かまずいの? 俺たちこの前も会ったじゃん」
「そうだけど」
べつに、親と友達を会わせたとしても問題は起きない。むしろ母は陽介を歓迎するだろう。
「アルバムの中身は全部、お父さんに関係している写真なんだと思う」
「離婚して出て行ったっていうお父さん?」
「うん。……我が家では、お父さんの話はタブーなの。お母さんに『アルバムを見せてほしい』とは何となく言いづらくて」
「なるほどね」
同じひとり親家庭である彼は、さすが呑み込みが早かった。
「今日はバイトだから、明日なら行ける」
「ありがとう」
「お礼を言うのはこっちでしょ」
「もしレインコートの写真が出てこなかったらごめんね」
「まあ、それはそれで。光莉の家に行ってみたいし」
「何にもないよ。ただのアパート」
とにかく、明日の放課後に昇降口で待ち合わせ、我が家へ向かうことになった。
自宅には何も期待しないようにと念を押し、私たちはそれぞれの教室へ帰る。
放課後になっても雨量は変わっていなかった。
雨は鬱陶しいけれど、帰り道の途中にあるスーパーに寄ることにする。フローリングを拭いたり、ほこりを取ったりするための使い捨てシートを買い込みたかった。
陽介が来るから、今日は念入りに家の中を掃除しなくては。いつもコーヒーをご馳走になっているのだから、今度は私が彼をおもてなししようと決めていた。
掃除用品以外にもおやつや飲み物を買っておこうと思いつく。お母さんの部屋にあるような芳香剤もあったほうがいいかも。気合が入り過ぎだろうか。誰かを招いたことをお母さんに勘付かれてしまいそうだ。
商店街がまともに機能していてくれていたら、アーケードの下で濡れずに買い物を済ませられるのに。シャッター街と化してしまったことを心底残念だと感じた。
傘を手に昇降口から出て、水たまりを避けながらコンクリートの上を歩く。
校門の前に誰か立っていた。男の人だ。
校門の一歩外側に立ち、きょろきょろしながら敷地内を気にしている。
男性は細身の体にカジュアルなシャツとズボンを身に着けていた。猫背で、すらっとしている、というよりかは、ひょろひょろしていると表現したくなる。
自転車で通学する生徒の傘差し運転を見張っている先生かと思ったけれど、全く見覚えが無いからきっと保護者だろう。
校門から出てくる生徒たちを観察するような目で見つめている。とくに女生徒に注意深く目線をやっているのは気のせいだろうか。
「……」
何だか、嫌な感じがした。
傘で顔を隠し、気を押し殺してその人の横を足早に通り抜ける。
でも、それだけだ。スーパーに到着し買い物かごを手に取った頃には、男性の存在なんてすっかり忘れ去っていた。
「……よ、陽介?」
ガラスの向こうに顔を出したのは、教室にいるのだろうと思っていた人物だった。
「な、何してるの?」
「何って、光莉を待ってたんだろ」
扉が開く。さらさらと雨の音が強まった。
屋外にいたはずの陽介の頭と身体はなぜか濡れていない。
彼は頭上を指さす。指の先を目で辿ると、出入り口の上にコンクリートの小さな軒裏があった。
私と同じ色の入った彼の上履きを見下ろす。石段があり、軒があるおかげで中央のあたりは乾いている。
「ここなら濡れずに済むよ」
陽介は石段の乾いたスペースの右半分に腰かけた。
左半分が空いている。ちょうど女子一人分くらいのスペースが。
扉を閉め、空いたスペースに座り、左肩が雨に濡れないように陽介に体を寄せた。
肩が触れる。自分の肩や二の腕のあたりが温かくなっていく。
「私たち、いつも狭いところにいるね」
「木陰より狭いな」
水筒のコップにアイスコーヒーが注がれた。湯気が立っている。
「ホットにしてくれたんだ」
「今日は気温が下がるって聞いたから」
舌を火傷しないよう、少しずつコーヒーを口に含む。腕のあたりだけでなく、全身が温まっていく。
「今日の豆は浅煎りで、お湯をたくさん使ってる」
「コーヒー豆っていろいろ種類があるんだ」
以前にもアサイリ、フカイリの話をされたのだけど、どのような違いがあったか、もう忘れてしまった。
「そう。豆は大きく分けて二種類。アラビカ種とカネフォラ種。リベリカ種っていうのもあるけど。産地によって全然特徴が違うし、焙煎の時間とか挽き方とかで味が変わってくるんだ。ストレートで飲むのか、ブレンドで飲むのかでも。俺はお客さん一人ひとりに合うブレンドコーヒーを考える店を出せたらなって思ってる。たとえば、コーヒーがあまり得意なお客さん向けのブレンドとか」
「私のこと?」
「そう。光莉のこと」
陽介の笑顔がいつもより近い。
「苦みと酸味を抑えた豆を色々試したい。たとえば……」
楽しそうに話す彼の声も雨の音も自分の心臓の音も大きくて、くらくらとしてくる。
コーヒーについて語る陽介にずっと耳を傾けているけれど、なかなか頭に入ってこない。コーヒーの話は私には奥が深すぎる。
彼がひとしきりコーヒーについて話した後、私はようやく昨日の出来事を打ち明けた。
「あのね、陽介に話があって」
「何?」
「おじいちゃんがやっていた喫茶店の名前って『レインコート』だったりする?」
陽介は目を輝かせ、「する!」と答えた。
「何で店の名前を……?」
私は両親がレインコートを訪れたこと、とくに父は常連だったことを話した。そして、自宅の母の部屋で見つけたアルバムのことを切り出す。
「アルバムの中に、もしかしたらレインコートの写真があるかもしれないと思って。量があるから、探すのを手伝ってもらえないかな」
真っ赤な嘘ではないけれど、二人がかりで取り掛かるような量ではない。それでも、陽介の手を借りたかった。また頭痛に襲われたらと思うと不安になってくる。
「俺が光莉の家に行くってこと?」
「うん。そうしてもらえると助かる。お母さんのいない時間に来てほしい。部屋からこっそり持ち出すから」
「お母さんに見つかると何かまずいの? 俺たちこの前も会ったじゃん」
「そうだけど」
べつに、親と友達を会わせたとしても問題は起きない。むしろ母は陽介を歓迎するだろう。
「アルバムの中身は全部、お父さんに関係している写真なんだと思う」
「離婚して出て行ったっていうお父さん?」
「うん。……我が家では、お父さんの話はタブーなの。お母さんに『アルバムを見せてほしい』とは何となく言いづらくて」
「なるほどね」
同じひとり親家庭である彼は、さすが呑み込みが早かった。
「今日はバイトだから、明日なら行ける」
「ありがとう」
「お礼を言うのはこっちでしょ」
「もしレインコートの写真が出てこなかったらごめんね」
「まあ、それはそれで。光莉の家に行ってみたいし」
「何にもないよ。ただのアパート」
とにかく、明日の放課後に昇降口で待ち合わせ、我が家へ向かうことになった。
自宅には何も期待しないようにと念を押し、私たちはそれぞれの教室へ帰る。
放課後になっても雨量は変わっていなかった。
雨は鬱陶しいけれど、帰り道の途中にあるスーパーに寄ることにする。フローリングを拭いたり、ほこりを取ったりするための使い捨てシートを買い込みたかった。
陽介が来るから、今日は念入りに家の中を掃除しなくては。いつもコーヒーをご馳走になっているのだから、今度は私が彼をおもてなししようと決めていた。
掃除用品以外にもおやつや飲み物を買っておこうと思いつく。お母さんの部屋にあるような芳香剤もあったほうがいいかも。気合が入り過ぎだろうか。誰かを招いたことをお母さんに勘付かれてしまいそうだ。
商店街がまともに機能していてくれていたら、アーケードの下で濡れずに買い物を済ませられるのに。シャッター街と化してしまったことを心底残念だと感じた。
傘を手に昇降口から出て、水たまりを避けながらコンクリートの上を歩く。
校門の前に誰か立っていた。男の人だ。
校門の一歩外側に立ち、きょろきょろしながら敷地内を気にしている。
男性は細身の体にカジュアルなシャツとズボンを身に着けていた。猫背で、すらっとしている、というよりかは、ひょろひょろしていると表現したくなる。
自転車で通学する生徒の傘差し運転を見張っている先生かと思ったけれど、全く見覚えが無いからきっと保護者だろう。
校門から出てくる生徒たちを観察するような目で見つめている。とくに女生徒に注意深く目線をやっているのは気のせいだろうか。
「……」
何だか、嫌な感じがした。
傘で顔を隠し、気を押し殺してその人の横を足早に通り抜ける。
でも、それだけだ。スーパーに到着し買い物かごを手に取った頃には、男性の存在なんてすっかり忘れ去っていた。