今度はお母さんが入浴する番となった。
 私と違って湯船にずっと浸かっていられない質らしく、いつも風呂から上がるのが早い。

 シャワーの音が耳に届いたのを合図に、パジャマ姿の私はソファから立ち上がった。リビングに面するドアのノブをつかむ。
 この向こうは母の部屋になっている。ここで寝たり、着替えたり、仕事をしたりする。
 プライベートな空間だし、私には用も無いのでほとんど中に入ったことがない。最後に入室したのは中学一年生の時だ。スプリングがとび出てしまったベッドマットレスの買い替えを手伝ってあげた。

 ドアの脇のスイッチを押し部屋の電気を点ける。
 中の様子がよく見渡せた。
 七畳ほどの空間にシングルベッドやデスクや背の高い本棚が置かれている。物も少なく、きちんと整頓されていた。デスクの上はパソコンやコード類で生活感が隠しきれていないけれど。
 レモンやライムのようなさわやかな香りがする。本棚の空いたスペースには写真立てがずらりと並んでおり、その隅に芳香剤が置かれていた。香りがリビングや私の部屋と違うだけなのに、ここだけ異空間のように思えてくる。緊張のせいもあるかもしれない。

 せっかくお風呂に入ったのにまた脇に汗が滲むのを感じながら、私は母の部屋の中に一歩踏み出した。
 入って右側には折れ戸がある。母の部屋にだけついているウォークインクローゼットと繋がっている。「ウォークイン」と言っても、二畳もない空間だ。戸を開ける。母の服やバッグが詰め込まれていた。

 上部には棚板が張ってある。私の目論見通り三冊の厚いアルバムが並べられていた。数年前、ベッドマットレスを運ぶ時にちらっと内部が見え、アルバムがあることに気がついた。
 でも、その時はアルバムについて言及しなかった。できなかった。中に収められているのは、父の写る写真かもしれないから。

 クローゼットの中でつま先立ちになる。
 三冊のアルバムの背には何も書かれていない。
 部屋から頭を出す。シャワーの音はまだ止んでいない。
 つま先立ちのまま、汗で湿った手を一番左のアルバムへ伸ばす。

 後ろから誰かに頭を叩かれたような衝撃が走った。アルバムを手に取ることすらできず、その場にうずくまる。
 水音が止み、代わりにドライヤーの風の音が聞こえ始めた。ぴかぴかに拭かれた床を這うようにして母の部屋から脱出する。
 扉を閉め、リビングのソファに座り直し、リモコンでテレビの電源を入れた。
 パジャマに着替えた母が脱衣所から出てくる。私は画面の中の芸人に合わせて笑い、さもずっとバラエティ番組を楽しんでいたというように振舞う。

「お母さんはまた仕事してそのまま寝るからね。おやすみ。今日はありがとう」

 テレビを観たまま「おやすみ」と返す。
 麦茶のコップを手に自分の部屋に行く母の背を横目で見送った。テレビを観ているふりをしながらも、ウォークインクローゼットの戸を閉めてきただろうかと気が気ではなかった。

 リモコンを握りしめて数秒待ってみたけれど、彼女がリビングに怒鳴り込んでくる気配は無い。バレなかったみたいだ。
 部屋に侵入したことも、私がまだ頭痛に苦しんでいることも。

 ふーっと長く息を吐きソファに寝そべる。横になると楽になった。
 テレビの音量を下げ、リビングと母の部屋を遮る四角いドアを眺める。

 ――もしかしたら、お父さんが写真を撮っていたかもしれないね。

 母の言葉が引っかかっていた。
 お父さんの撮った写真とお父さんの映っている写真はあのアルバムに隠されているのではないだろうか。「レインコート」の写真も、もしかしたらあるかもしれない。喫茶店の様子がわかる写真が見つかれば、きっと陽介は喜んでくれる。
 でも、この頭の痛みを抱えてまた母の部屋に不法侵入することは躊躇われた。

 だったら、ここに彼を呼べばいいのではないか。

 単純なアイディアが芽生えた途端に、痛みが徐々に和らいでいく。






 昼休みの中庭に雨が降り注いでいる。土砂降りとまではいかないけれど、ほとんどの人が傘を差すような雨量だ。
 中庭への出入り口の窓ガラスから外をのぞいてみる。誰もいない。もちろんベンチも無人だ。座面がびしょびしょに濡れている。

「来るわけないか……」

 この雨の下で昼寝できる人なんていない。
 陽介はきっと教室にいるのだろう。五組まで行って呼び出すほどの勇気は無い。中庭を見つめ、ため息をつく。

 梅雨入りはまだ先だけど、朝のニュースで天気予報士が「今日のような雨が一週間以上続く」と言っていた。つまり、これからしばらくの間、陽介と中庭でコーヒーを飲むことはできない。文化祭当日も雨かもしれない。

「うぎゃあっ!」

 一階の隅々にまで響き渡るような悲鳴を上げてしまった。窓ガラスを隔てたすぐそこに、人がぬっと現れたからだ。