「結婚する前に、ひーちゃんのお父さんがうちの実家に挨拶しにきたの。その後だったかな。二人で喫茶店にでも入ってちょっと休憩しようかって、訪れたのが『レインコート』だったの。そうしたらお父さんとマスターが意気投合しちゃってね。二人とも映画の話なんかして盛り上がってたなあ。私なんかほったらかしで」
それから父は、家族で母の地元に帰省する時は、いつも「レインコート」に顔を出すようになったらしい。
離婚する前までは。
「もしかしたら、お父さんが写真を撮っていたかもしれないね」
「そっか……」
並列の自転車はとっくに過ぎ去った。私は幼い子どものように、母の後ろをいつまでもとぼとぼと歩いていた。
私は今年で十七になる。来年にはとうとう成人だ。
それなのに、心の中にはまだ五歳児の自分がいる。
たった一人しかいない親の顔色をうかがうような、おどおどした自分が。
「懐かしいなあ」
私の気なんか知らないで、母はふわふわした口調で語る。
「お父さんがひーちゃんを連れてレインコートに行こうとしたことがあったの。でも、ひーちゃんが大泣きして、すぐに帰ってきちゃって」
「私はどうして泣いたの?」
そんなことあっただろうか。全然覚えていない。
「『レインコートっていうお店に行く』って話を、『レインコートを買いに行く』って勘違いしたの。レインコートは買ってもらえないんだってことがわかって、癇癪起こしながら帰ってきた。結局、わざわざ子供用品の店まで行って買ってもらってたのよ」
「あ、もしかして薄むらさきのレインコート?」
泣いたことも、子供用品店に行ったことも何一つ思い出せないけれど、レインコートの存在だけは記憶にあった。
薄むらさきの地にソフトクリームの模様が描かれたレインコート。それが私のお気に入りだった。小学校低学年まではそのレインコートを使っていたはず。サイズが合わなくなってきて捨てる時は、すごく悲しかった。
「ひーちゃん、すごく大喜びでね。雨なんて降っていないのに『レインコートを着て出かけるんだ!』って、聞かなくて」
「あれって、お父さんに買ってもらったものだったの?」
「そうだよ。アンパンマンのレインコートを持ってたから新しいのなんて要らなかったのに。お父さんはひーちゃんに甘いところがあったからね」
楽しそうに話していた母の背が少しだけ丸くなる。
「でもやっぱり冷たい人だよ。あの人は」
娘に、そして自分自身に言い聞かせるように母は呟く。急に声が老けたように聞こえた。
「私たち、めげずによくやってきたよね。二人で頑張ってきたよね……」
自宅が見えてきた。
五歳からずっと住んでいる二階建てのアパートだ。引っ越し当初はお城のように大きく感じていたけれど、八畳のリビングも四畳半の自室も狭くてイライラすることが多くなってきた。
夜道から自宅を眺め「そろそろ引っ越してみてもいいのかもしれない」と改めて思う。母の一馬力ではなく共働きになるならもう少し広い家に住めるんじゃないかと、また私の楽観性が暴走しそうになる。
鍵を開けて二人で中に入った。母は残っている仕事を片付けたいというので、私が先にお風呂に入ることにした。
トリートメントを馴染ませた髪をヘアゴムでまとめて湯船に浸かる。ふくらはぎをマッサージしているとだんだん眠くなってきた。
佐々木さんと会うのも緊張したし、自宅と駅前を往復したからとても疲れていた。
帰り道で、お母さんはどうして本当のお父さんの話なんてしたのだろう。
お酒のせいだろうか。そうだとしたら軽率だ。
「珍しくお父さんの話を聞けて嬉しい」なんて、少しも思えなかった。それどころか、母に裏切られたという思いすらあった。
だって、父の話は今までずっとタブーだったのだ。「冷たい人」、「自分のことしか考えていない人」。それから、「話題にしてはいけない人」。
それなのに、どうしてあんなに懐かしそうに、良い思い出だったとばかりに聞かされなくちゃいけないんだろう。父の話に触れないようにと気を遣ってきた約十年間は何だったのだろう。
母の口を軽くしたのはお酒だけじゃなくて、一緒に楽しく食事をした佐々木さんのせいでもあるかもしれない。母も佐々木さんもだんだんとお酒も憎らしくなってくる。
深くため息をつく。
――お父さんはひーちゃんに甘いところがあったからね。
「やめてよ……」
聞きたくなかった。
父の良かったところなんて、今さら聞かされても困る。
今日語られた父の話の全てを忘れてしまいたい。
「……っ!」
頭にずきんと痛みが生まれた。
自分の認識よりずっと疲れているのかもしれない。のぼせてきたのかも。
痛みを伴う脳裏に、不思議な映像が走る。
赤い金魚たち。虹色のステンドグラス。
映像とともに「虹の彼方に」のワンフレーズ目が流れる。でも、ピアノじゃない。フルートもホルンもわからないけれど、これがピアノの音ではないことくらいはわかる。
太い指が弦を弾く。
苦手なコーヒーの香り。コーヒーカップに注がれているのは、なぜかオレンジ色の液体。
お気に入りの、薄むらさきのレインコート。
――ひーちゃん。
男の人が私を呼ぶ。優しく。
男の人は私を振り返って微笑む。
――ひーちゃん。
私に手が伸ばされる。大きく温かい手が私の頭を撫でる。
頭痛がますます強くなってきた。「これ以上思い出してはいけない」と警告するみたいに。
「……ひーちゃん?」
洗面所のドアがこつこつと叩かれた。お母さんだ。
「お風呂長くない? 大丈夫?」
「大丈夫」と短く返事して、湯船からざぶんと脱出した。
それから父は、家族で母の地元に帰省する時は、いつも「レインコート」に顔を出すようになったらしい。
離婚する前までは。
「もしかしたら、お父さんが写真を撮っていたかもしれないね」
「そっか……」
並列の自転車はとっくに過ぎ去った。私は幼い子どものように、母の後ろをいつまでもとぼとぼと歩いていた。
私は今年で十七になる。来年にはとうとう成人だ。
それなのに、心の中にはまだ五歳児の自分がいる。
たった一人しかいない親の顔色をうかがうような、おどおどした自分が。
「懐かしいなあ」
私の気なんか知らないで、母はふわふわした口調で語る。
「お父さんがひーちゃんを連れてレインコートに行こうとしたことがあったの。でも、ひーちゃんが大泣きして、すぐに帰ってきちゃって」
「私はどうして泣いたの?」
そんなことあっただろうか。全然覚えていない。
「『レインコートっていうお店に行く』って話を、『レインコートを買いに行く』って勘違いしたの。レインコートは買ってもらえないんだってことがわかって、癇癪起こしながら帰ってきた。結局、わざわざ子供用品の店まで行って買ってもらってたのよ」
「あ、もしかして薄むらさきのレインコート?」
泣いたことも、子供用品店に行ったことも何一つ思い出せないけれど、レインコートの存在だけは記憶にあった。
薄むらさきの地にソフトクリームの模様が描かれたレインコート。それが私のお気に入りだった。小学校低学年まではそのレインコートを使っていたはず。サイズが合わなくなってきて捨てる時は、すごく悲しかった。
「ひーちゃん、すごく大喜びでね。雨なんて降っていないのに『レインコートを着て出かけるんだ!』って、聞かなくて」
「あれって、お父さんに買ってもらったものだったの?」
「そうだよ。アンパンマンのレインコートを持ってたから新しいのなんて要らなかったのに。お父さんはひーちゃんに甘いところがあったからね」
楽しそうに話していた母の背が少しだけ丸くなる。
「でもやっぱり冷たい人だよ。あの人は」
娘に、そして自分自身に言い聞かせるように母は呟く。急に声が老けたように聞こえた。
「私たち、めげずによくやってきたよね。二人で頑張ってきたよね……」
自宅が見えてきた。
五歳からずっと住んでいる二階建てのアパートだ。引っ越し当初はお城のように大きく感じていたけれど、八畳のリビングも四畳半の自室も狭くてイライラすることが多くなってきた。
夜道から自宅を眺め「そろそろ引っ越してみてもいいのかもしれない」と改めて思う。母の一馬力ではなく共働きになるならもう少し広い家に住めるんじゃないかと、また私の楽観性が暴走しそうになる。
鍵を開けて二人で中に入った。母は残っている仕事を片付けたいというので、私が先にお風呂に入ることにした。
トリートメントを馴染ませた髪をヘアゴムでまとめて湯船に浸かる。ふくらはぎをマッサージしているとだんだん眠くなってきた。
佐々木さんと会うのも緊張したし、自宅と駅前を往復したからとても疲れていた。
帰り道で、お母さんはどうして本当のお父さんの話なんてしたのだろう。
お酒のせいだろうか。そうだとしたら軽率だ。
「珍しくお父さんの話を聞けて嬉しい」なんて、少しも思えなかった。それどころか、母に裏切られたという思いすらあった。
だって、父の話は今までずっとタブーだったのだ。「冷たい人」、「自分のことしか考えていない人」。それから、「話題にしてはいけない人」。
それなのに、どうしてあんなに懐かしそうに、良い思い出だったとばかりに聞かされなくちゃいけないんだろう。父の話に触れないようにと気を遣ってきた約十年間は何だったのだろう。
母の口を軽くしたのはお酒だけじゃなくて、一緒に楽しく食事をした佐々木さんのせいでもあるかもしれない。母も佐々木さんもだんだんとお酒も憎らしくなってくる。
深くため息をつく。
――お父さんはひーちゃんに甘いところがあったからね。
「やめてよ……」
聞きたくなかった。
父の良かったところなんて、今さら聞かされても困る。
今日語られた父の話の全てを忘れてしまいたい。
「……っ!」
頭にずきんと痛みが生まれた。
自分の認識よりずっと疲れているのかもしれない。のぼせてきたのかも。
痛みを伴う脳裏に、不思議な映像が走る。
赤い金魚たち。虹色のステンドグラス。
映像とともに「虹の彼方に」のワンフレーズ目が流れる。でも、ピアノじゃない。フルートもホルンもわからないけれど、これがピアノの音ではないことくらいはわかる。
太い指が弦を弾く。
苦手なコーヒーの香り。コーヒーカップに注がれているのは、なぜかオレンジ色の液体。
お気に入りの、薄むらさきのレインコート。
――ひーちゃん。
男の人が私を呼ぶ。優しく。
男の人は私を振り返って微笑む。
――ひーちゃん。
私に手が伸ばされる。大きく温かい手が私の頭を撫でる。
頭痛がますます強くなってきた。「これ以上思い出してはいけない」と警告するみたいに。
「……ひーちゃん?」
洗面所のドアがこつこつと叩かれた。お母さんだ。
「お風呂長くない? 大丈夫?」
「大丈夫」と短く返事して、湯船からざぶんと脱出した。