事前にお母さんから聞いていた通り、佐々木さんは良い人だった。

 大柄でシャキッとしていて明るい。自分の恋人は下の名前で呼ぶけれど、恋人の娘である私のことは「成宮さん」と名字で呼ぶ。しかも敬語で話してくれる。馴れ馴れしくしてこない点も好印象だった。
 正式に家族になるまでは、この距離感を保つつもりらしい。

 お母さんに、「会いたい人がいるの」なんて深刻な顔で言われた時からずっと緊張していたけれど、朗らかな人柄のおかげでそんなものはすぐにほぐれた。
 お母さんのカレシが事前に予約しておいてくれた駅前の中華料理屋さんの料理はどれも美味しくて、三人でお腹がぱんぱんになるまで食べてしまった。

 ご馳走してくれた佐々木さんにお礼を言い、改札の前で別れる。雑踏の中に飲まれていく大きな背をお母さんと見送った。
 二人で並んで駅前の繁華街を歩き出す。
 駅前から自宅までは距離があるけれど、中華料理屋さんには駐車場が無かったので車は使わずに歩いてきたのだ。

「外でお酒を飲むのも久しぶりだったわ」

 お母さんはずっと上機嫌だった。

「佐々木さん、良い人で安心したよ。今のところ『合格』って感じかな」
「何よ、その上から目線」

 いつもよりおめかししているお母さんが隣で笑う。
 レストランのターンテーブルの前でも、お母さんはビールグラスを片手によく笑っていた。あんなに楽しそうな姿を見るのは久しぶりかもしれない。

「佐々木さんの住んでいるところだって、そんなに遠いわけじゃないんでしょ? さっさと結婚しちゃえば?」
「そんな簡単な話じゃないよ」
「お金のこととか?」
「佐々木さん、転勤になるかもしれないんだって」
「どこに?」
「まだわからないけど、東京の本社か大阪の支社のどっちかになるって」
「リモートはできないの?」
「営業職だからね。現場に行ってなんぼだから」

 リモートワークもかなり広まったものだと思っていたけれど、限られた職種の人だけなのかもしれない。よく考えてみれば、うちの母もほとんど毎日出社している。大勢のお客さんの個人情報を取り扱うから、というのが個人宅でリモートワークできない理由らしい。

「転勤先が東京だったら営業先も関東内だし、引っ越しは必要無いかもしれないって言ってた」
「大阪だったら?」
「引っ越し確定よね」
「そっか……」

 ということは、もしお母さんが再婚し、佐々木さんの大阪行きが決まったら、私も引っ越すことになるのだろう。大阪の高校に転校しなくてはならなくなる。
 友達との別れを想像してさみしくなると同時に、心機一転、転校するのもいいかもしれないと考え、自分自身に驚く。

 これがもし一年生の時だったら「絶対に引っ越したくない」と喚いていただろう。
 千秋や友理奈と別れるなんて考えられない。引っ越したくないと駄々をこねるついでに、再婚にも反対していたかもしれない。
 現在、私は二年生。
 一年生だった頃とは状況が違う。
 転校することによって昼休みの始まりと同時に襲われる居た堪れなさから解放されるかもしれない。
 解放されるかもしれないけれど、同時に失うものだってある。
 陽介との時間だ。
 鼻の奥にコーヒーの苦い香りと、メープルシロップの甘い香りが広がった。

「ひーちゃんが決めていいんだからね」

 母の声に、はっと上を向く。きっと、私は無意識のうちに思いつめた顔をしていたのだろう。

「お母さんね、佐々木さんと二人で色々話してたの。ひーちゃんの気持ちを一番大切にしようねって。大阪だって行かなくていいし、再婚だってしてほしくないならしない。もし再婚したとしても、ひーちゃんの苗字は『成宮』のままでいいから」
「そっか。『佐々木光莉(ひかり)』になる可能性もあるんだ」

「さっさと結婚しちゃえば」なんて軽く言っておきながら、苗字の問題があることをすっかり失念していた。己の楽天的思考にあきれてしまう。

 苗字なんてきっと些末な問題で、いざ再婚するとなれば他にも様々な問題が出てくるだろうに、こんなにお気楽に生きていて大丈夫なのだろうか。転校だって簡単にできるものなのかわからない。また入試のような試験を受けなくちゃいけないのだろうか。

 陽介のことを想う。
 前の高校の制服を着て校内を歩くのは、どのような気分だっただろう。

「ひーちゃんの気持ちが一番大事なんだから」

 母は繰り返す。

 ――私のことなんて、考えなくていいよ。

 もう少し大人だったら、そう言ってあげられただろうか。
 ぬるい夜風を浴びながら俯く。
「ひーちゃんの気持ちが一番大事」なんて言われても、困る。私は何も考えてないんだから。

 煌々と夜道を照らすファストフード店の前を通った。
 若い店員が店の前で新商品を宣伝するのぼりを片付けようとしている。お店の自動ドアが開いて、店内からスーツ姿の男性が出てきた。男性に気付き、店員が顔を上げる。

「店長、おつかれさまでした」

 店員はスーツ姿の男性を「店長」と呼び頭を下げた。聞き覚えのある声に思わず足を止める。

「あ、西くん。シフトはもう出してくれたんだっけ?」
「さっき副店長に。いつもぎりぎりですみません」
「高校生は何かと忙しいよね。出してくれたならいいや。じゃ、おつかれね」

 若い店員は――陽介は――スーツ姿の店長を見送り、顔を上げてようやく私に気がついた。