「ごめん! 遅れちゃった!」

 中庭のベンチにたどり着く頃には、息が切れ切れになっていた。三階から中庭でまで小走りでやってきたのだ。急いだけれど、昼休みはあと十分しか残されていない。

「急遽文化祭の打ち合わせが始まっちゃったの。ベビーカステラをカップに何個入れるかで意見が割れちゃって」
「べつに無理してまで来なくていいのに」

 ベンチの端に腰かける陽介は重そうな瞼を擦っている。寝ていたらしい。

「無理なんてしてないよ」

 私たちはあれから毎日のように中庭で密会していた。
 ポロシャツではなく、開襟シャツを身に着ける陽介の隣に腰かける。先日、ようやく新しい制服を受け取ることができたらしい。シャツにアイロンをかけるのが面倒くさいと小言を漏らしていた。

 ミニタオルを取り出して額の汗を拭く。今日の空はぴかぴかに晴れている。木陰にいるけれど暑くて仕方がない。
 陽介は目を閉じ、すんと鼻を鳴らし始める。

光莉(ひかり)、何かにおいがする」
「に、においっ?」

 反射的に立ち上がり距離を取った。

「ごめん! 汗かいたから……」

 セーラー服の襟をつまんで鼻を寄せる。
 訪れる前に制汗剤をふり掛けてくるべきだった。羞恥心のあまり、また汗が出てくる。

「いや、甘いにおいがする」
「あっ、ベビーカステラ?」

 私は手に持っていた小さな袋を見せた。中にはベビーカステラがぱんぱんに詰め込まれている。

「メープルシロップを入れたから、すごく良い匂いするでしょ。焼きたてなんだ。一緒に食べない?」
「光莉、ほんとウケるんだけど。自分のにおいなんか嗅ぐなよ」
「でも、もうそろそろにおいに気を付けないといけない季節じゃん……?」

 スメハラではなかったことに安堵しながらベンチに座り直し、ほかほか温かい袋を開封した。甘い香りがふわりと私たちの間に漂う。
 陽介はベビーカステラを一つ口に放り込み、コーヒーの準備をする。

「うわ、めっちゃうまい」
「でしょ! 私が作ったの」

 コップを受け取りながら、舌鼓を打つ陽介にドヤ顔した。

「クラスメイトからも『ベビーカステラ作りは宮ちゃんが一番上手い』って褒められたんだ」
「たしかに才能あるかも」
「じゃあ将来はベビーカステラ屋さんになろうかな。陽介の喫茶店に卸して売ってもらうの。どう?」
「ベビーカステラじゃ情緒無いな」
「そうかなあ? 絶対流行るって」

 笑いながらコップに口を付ける。

「……これ、いつもと種類が違う?」

 コップの中には、濃い茶色の液体が入っている。見た目だけではコーヒーの種類の違いなんてわからない。けれど、確実に今まで飲んでいたコーヒーよりも苦みが強い。

「あー、やっぱり無理だった?」
「無理ってわけじゃ」

 残すのは勿体ないから最後まで飲もうと思ったのに、陽介に取り上げられてしまった。彼はそのままぐびっと中身を飲み干してしまう。

「……」

 咄嗟に彼の喉仏のあたりから目を逸らした。
 成宮光莉は、間接キスにも動揺してしまうような人間だったらしい。

「カフェオレにできたらいいんだけど、朝から水筒に乳製品を入れておくと傷みそうで怖くて」
「そっか、カフェオレにするっていう手もあるんだ」
「そう。ミルクもこだわると味が変わるんだ」

 チャイムが鳴る。そろそろお互いの教室に戻らなくてはならない。二人で校舎に戻った。

「ごめんね。今日は協力できなくて」
「なんで? めちゃくちゃ協力してもらったよ」
「でも、飲めなかったよ?」
「飲めないってことがわかったのも、研究の成果だから。じゃあまた。次の授業、音楽だった。移動しないと」
「……陽介、頑張ってね。私も頑張るから」
「うん? じゃあ」

 彼は不思議そうな顔をしたけれど、気に留めることなく踵を返した。私が、「コーヒーを飲むことを頑張る」と宣言したのだと思っているのだろう。私も二年一組へと向かう。

 ――私も頑張るね。

 胸の中に同じ言葉を刻みながら廊下を歩いた。
 将来の夢だなんて大きな目標はまだ無い。無いけれど、とにかく私は明日の夜、頑張らないといけないことがあるのだった。