出入り口から垣間見える喫茶店の中は「店として機能しないのではないか」と不安になるほどに暗い。扉は開けっ放しだけど、入っていく勇気が出せなかった。

 どうしたらいいかわからず、ただその場に立ち尽くし暗闇を見つめる。握りしめた傘の石突から雨水が滴り、足元のタイルを濡らした。
 商店街をすっぽりと覆う頭上のアーケードには、絶えず雨粒が打ちつけている。何もかもをいたわるような優しい雨音が響いていた。
 商店街の通路はゆるくカーブしていて、端と端は見えない。見た限り、通行人はいないし、向こうから誰かやってくる様子も無い。たった一人迷路に閉じ込められたようで、にわかに心細くなってくる。

 ――心細いなら、入っちゃえ。

 頭の中で、もう一人の自分が囁く。
 私は自分自身の心の声に頷いた。
 何を躊躇っているのだろう。全く私らしくない。
 奥から「入らないの?」と男の子の声が聞こえた。入っても入らなくても心底どっちでもいいというような抑揚の無い声だ。
 雨の音が強くなっていく。
 私は扉の脇の傘立てに傘を突き刺すと、するりと店内に滑り込んだ。自分に対し、「自分らしさ」を証明するために。
 雨の音が遠のいた。

「扉、閉めてくれる?」

 入って左手の壁に並行して、長い木製のカウンターが置かれていた。木の温もりを感じさせる、趣のあるカウンターだ。喫茶店にはおあつらえ向きだ。
 カウンターの向こうでは、暗がりに溶けたみたいに黒い人影が動いている。かちゃかちゃと食器同士が当たるような音がした。
 この暗い中で彼はどうやって作業しているのだろう。不思議に思いながら、私は言われた通りに扉を閉めた。
 ギイと蝶番が鳴る。虹色のやわらかい光が私の目に降った。扉の上部にステンドグラスがはめられていることに初めて気がつく。色とりどりの菱形のガラスがおしゃれだった。

 再び店内を振り返る。カウンターに近寄った頃には、わずかばかりの光量に目が慣れていた。
 カウンターは重厚感のある一枚板で造られており、これがテーブル代わりになるらしい。前には高さのある丸椅子が五脚並べられている。
 カウンターの反対側には狭いテーブル席が二卓。置かれているのは丸椅子ではなく背もたれのある椅子だ。座面には皮が貼られていた。横の壁は深い緑で、ポストカードサイズの絵が飾られている。
 喫茶店だから、マスターと呼ばれる人がいるかもしれないと思ったが、店内には私と彼の二人きりだった。

「てきとうに座って」と言われたので、カウンターの中央の丸椅子によいしょと座ってみた。丸椅子の脚の傍らにスクールバッグを置く。
 カウンターの奥の棚には白い食器が並べられている。その前を、影となった男の子が行ったり来たりしていた。
 アイドルのようなきれいな顔をもう一度拝みたいと思って目を凝らすけど、彼だけがいつまでも暗い。店内の家具やアイテムは徐々に浮かび上がってくるのに。
 不思議だけれど、怖いとは感じなかった。むしろ、おしゃれで落ち着いた店の雰囲気が心地良い。

「よかったら」

 目の前にぬっと手が出てきて、白いソーサーとカップが置かれた。
 入店して間もないのに、驚くべき手際の良さだ。彼はアルバイトではなく、この店を切り盛りしている(あるじ)なのではないかと思ったが、それにしては若すぎる。
 謎に考えを巡らせながら、提供されたカップの中をのぞく。
 コーヒーが注がれていた。
 喫茶店なのだから、コーヒーが出てくるのは当たり前だ。合点しつつ、つい肩のあたりを強張らせた。

 実は私は、コーヒーがあまり得意ではない。

 得意ではないけれど、せっかく用意してもらった手前、「要らない」なんて言えるはずがなかった。
 右手の人差し指を持ち手に掛け、左手を添えカップを持ち上げる。指先がじわりと温かくなった。
 鼻先が黒い液体に近づく。おそるおそる、一口すすった。鼻の奥に苦みと酸味が抜け、すぐに消えていく。

「薄い……」

 思わず呟いた。
 味も香りも、とても薄い。顔をしかめる暇さえないうちに、コーヒーの風味は消え去ってしまった。
 私の「薄い」という言葉に反応して、カウンターの奥の影の揺らめきがぴたりと止まる。

「おいしくなかった?」
「えっ? 違います!」

 自分の失言に気がつき、慌てて取り繕った。

「薄いほうがいいんです。私、コーヒー苦手だから」

 さらに口が滑った。彼の顔色を窺うが、依然として影のままでいる。

「なんだ。それなら早く言ってよ」

 息まじりの笑い声がした。

「他のものを出したのに。オレンジジュースくらいしかないけど」

 でもジュースじゃ余計に冷えるか、という独り言に、「コーヒーでよかったです!」と被せて遮る。

「薄いというか、爽やかって言ったらいいのかな。コーヒーが苦手でも飲めます。おいしいです。初めてコーヒーがおいしいって思いました」

 真実であることを証明するために、もう一度カップのふちに口をつけ中身を含んだ。

「本当に、本当においしいです」

 私は心の底から感動していた。
 コーヒーを味わうなんて、初めてだ。
 お母さんや友達がコーヒーを飲んでいるのを見ると「信じられない」という気持ちになるほど苦手な飲み物だったのに。