「まだ営業時間じゃないの?」
「いや、もう営業してない。とっくの昔に潰れた」
「陽介のお気に入りのお店だったの?」
彼は首を横に振る。
「一度も行ったことがない」
「一度もって……、どういうこと?」
「ここは俺のじいちゃんがやってた店だったんだ。俺が五歳の時に倒れて、店を継ぐ人もいなくてそのまま閉店した。じいちゃんも死んじゃった」
彼はシャッターに右の手のひらを押しつけた。シャッターの向こうを透視しようとするみたいに。カシャン、とさみしい音だけが鳴る。
「流行っていた店ってわけじゃないけど、常連さんはたくさんいた。店じまいするって聞いて、みんな『勿体ない』って言ってくれたみたい。当時の商店街の、数少ない生き残りでもあったしね」
「だから陽介も喫茶店をやりたいの?」
「そういうこと。俺、じいちゃんのこと好きだったんだ。両親は厳しかったけど、じいちゃんだけが俺のことを甘やかしてくれた。この喫茶店には一度も行けなかったけど、じいちゃんの家に行くと、コーヒーを淹れて俺に出してくれた。ちゃんと豆を挽いた本格的なやつ」
「子どもの時からコーヒーを?」
おじいちゃんは陽介が五歳の時に倒れ、亡くなったと言っていたはずだ。
「そう」
驚いている私の顔見て陽介は口の端を上げた。
「さすがにブラックじゃなくて、砂糖とミルクたっぷりのカフェオレだったけど。母さんにバレて、俺もじいちゃんもめちゃくちゃ怒られた。母親は食育を気にする人間だったから」
「『だった』?」
「去年、離婚したんだ。俺は父親についていくことにして、それで転校してきた」
「ふーん……」
「同情なんてしないでよ」
「しない。うちの両親も離婚してるし」
彼は「へえ」と返すだけだった。たいして驚いた様子は無い。やっぱり今どき、離婚なんて全然珍しくない。
「光莉の両親はいつ離婚したの?」
「私が五歳の時」
「じゃあ、ベテランじゃん」
「なんだそれ」
つい吹き出してしまう。
陽介もひとしきり笑った後、ふうと大きく息を吐いた。
「離婚するくらいなら、なんで結婚なんかしたんだろうな」
彼は独り言を呟き、シャッターから手を離した。「それじゃあ」と片手を上げ、商店街を引き返そうとする。
「もう行くの? 用事ってそれだけ?」
喫茶店のシャッターを触っただけだ。私がいるせいで「用事」を済ませられないのだろうか。彼は「これだけだよ」と言う。
「近くに来られるだけで満足。なんていうか、ここは俺のパワースポットだから」
「中には入らないの?」
「入れない。鍵は親戚の誰かが持ってる。危ないから、中には絶対に入るなって言われてる。……じゃあ、急ぐから」
陽介はスラックスのポケットからスマフォを取り出し時刻を確認した。リマインダーのポップに「バイト」と記されているのが見えた。
「今日もバイトなの?」
「そう。学費と一人暮らしの費用と、喫茶店の開業資金を貯めないといけないから。……この話、秘密にしておいて。喫茶店のことも、昼休みのコーヒーのことも」
「なんで?」
「恥ずかしいから。誰にも言わないでおいてくれる? 光莉以外の友達にはまだ言ってないんだ」
「うん、わかった。私と陽介の秘密ね」
「そういうこと」
私のことを「友達」と認めてくれた同級生が、商店街を駆け出した。
玄関の三和土の上には、母のパンプスがあった。
「ひーちゃん、おかえりぃ」
リビングから気の抜けた声が聞こえてくる。
ドアを開くと、母はローテーブルの上にノートパソコンを開き、かたかたとキーボードを鳴らしていた。
「ただいま」
家に帰ったらソファでごろごろするのが生き甲斐なのに、母がいてはくつろぎにくい。
部屋の隅のタンスに目が留まった。タンスの上にはいくつもの写真立てが並べられているのだけれど、いつの間にか数が増えている。
新しく増えたのは、春休み中に母と二人で行ったフラワーパークで撮った時の写真だった。私とお母さんが広大なチューリップ畑の前で流行りのポーズを決めている。
スマフォで撮った写真は現像して積極的にリビングに飾るのが母の趣味だ。生き甲斐と言っても過言ではないかもしれない。
「お母さん、何で家にいるの?」
「言わなかったっけ? 今日は昼過ぎに近所の営業先行ってそのまま帰宅するって」
スクールバックを下ろしながら「そうだったっけ」と首を傾げる私を、母は「忘れっぽいんだから」と笑う。
「帰宅できたのはいいけど、持ち帰り仕事が終わんないよぅ」
泣き言を口にしながら、母はマグカップを手に取り口を付けた。
「……それってコーヒー?」
「うん。飲んでみる?」
母は揶揄うようにマグカップを見せつける。私がコーヒーが飲めないことをよく知っているくせに。
「飲むわけないじゃん」
私はそっぽを向いた。
怒ったわけではない。緩んだ頬を隠すためだ。
私は母の知らないうちに、少しだけ大人になった。コーヒーが飲めるようになったのだ。
――私と陽介の秘密ね。
母に陽介のことを話したところで、どうにもならない。でも、私と彼だけの秘密と言われたのだから、胸にしまっておくことにする。
「あのさ、ひーちゃんにお願いがあるんだけど」
「何?」
この雨の中、おつかいにでも行かされるのだろうか。
うんざりしながら振り返る。
母は手を止め、私を真剣に見つめていた。「牛乳を買ってきて」または「郵便局に行ってきて」と頼むときの顔ではなかった。
「ひーちゃん、あのね。今度――」
「いや、もう営業してない。とっくの昔に潰れた」
「陽介のお気に入りのお店だったの?」
彼は首を横に振る。
「一度も行ったことがない」
「一度もって……、どういうこと?」
「ここは俺のじいちゃんがやってた店だったんだ。俺が五歳の時に倒れて、店を継ぐ人もいなくてそのまま閉店した。じいちゃんも死んじゃった」
彼はシャッターに右の手のひらを押しつけた。シャッターの向こうを透視しようとするみたいに。カシャン、とさみしい音だけが鳴る。
「流行っていた店ってわけじゃないけど、常連さんはたくさんいた。店じまいするって聞いて、みんな『勿体ない』って言ってくれたみたい。当時の商店街の、数少ない生き残りでもあったしね」
「だから陽介も喫茶店をやりたいの?」
「そういうこと。俺、じいちゃんのこと好きだったんだ。両親は厳しかったけど、じいちゃんだけが俺のことを甘やかしてくれた。この喫茶店には一度も行けなかったけど、じいちゃんの家に行くと、コーヒーを淹れて俺に出してくれた。ちゃんと豆を挽いた本格的なやつ」
「子どもの時からコーヒーを?」
おじいちゃんは陽介が五歳の時に倒れ、亡くなったと言っていたはずだ。
「そう」
驚いている私の顔見て陽介は口の端を上げた。
「さすがにブラックじゃなくて、砂糖とミルクたっぷりのカフェオレだったけど。母さんにバレて、俺もじいちゃんもめちゃくちゃ怒られた。母親は食育を気にする人間だったから」
「『だった』?」
「去年、離婚したんだ。俺は父親についていくことにして、それで転校してきた」
「ふーん……」
「同情なんてしないでよ」
「しない。うちの両親も離婚してるし」
彼は「へえ」と返すだけだった。たいして驚いた様子は無い。やっぱり今どき、離婚なんて全然珍しくない。
「光莉の両親はいつ離婚したの?」
「私が五歳の時」
「じゃあ、ベテランじゃん」
「なんだそれ」
つい吹き出してしまう。
陽介もひとしきり笑った後、ふうと大きく息を吐いた。
「離婚するくらいなら、なんで結婚なんかしたんだろうな」
彼は独り言を呟き、シャッターから手を離した。「それじゃあ」と片手を上げ、商店街を引き返そうとする。
「もう行くの? 用事ってそれだけ?」
喫茶店のシャッターを触っただけだ。私がいるせいで「用事」を済ませられないのだろうか。彼は「これだけだよ」と言う。
「近くに来られるだけで満足。なんていうか、ここは俺のパワースポットだから」
「中には入らないの?」
「入れない。鍵は親戚の誰かが持ってる。危ないから、中には絶対に入るなって言われてる。……じゃあ、急ぐから」
陽介はスラックスのポケットからスマフォを取り出し時刻を確認した。リマインダーのポップに「バイト」と記されているのが見えた。
「今日もバイトなの?」
「そう。学費と一人暮らしの費用と、喫茶店の開業資金を貯めないといけないから。……この話、秘密にしておいて。喫茶店のことも、昼休みのコーヒーのことも」
「なんで?」
「恥ずかしいから。誰にも言わないでおいてくれる? 光莉以外の友達にはまだ言ってないんだ」
「うん、わかった。私と陽介の秘密ね」
「そういうこと」
私のことを「友達」と認めてくれた同級生が、商店街を駆け出した。
玄関の三和土の上には、母のパンプスがあった。
「ひーちゃん、おかえりぃ」
リビングから気の抜けた声が聞こえてくる。
ドアを開くと、母はローテーブルの上にノートパソコンを開き、かたかたとキーボードを鳴らしていた。
「ただいま」
家に帰ったらソファでごろごろするのが生き甲斐なのに、母がいてはくつろぎにくい。
部屋の隅のタンスに目が留まった。タンスの上にはいくつもの写真立てが並べられているのだけれど、いつの間にか数が増えている。
新しく増えたのは、春休み中に母と二人で行ったフラワーパークで撮った時の写真だった。私とお母さんが広大なチューリップ畑の前で流行りのポーズを決めている。
スマフォで撮った写真は現像して積極的にリビングに飾るのが母の趣味だ。生き甲斐と言っても過言ではないかもしれない。
「お母さん、何で家にいるの?」
「言わなかったっけ? 今日は昼過ぎに近所の営業先行ってそのまま帰宅するって」
スクールバックを下ろしながら「そうだったっけ」と首を傾げる私を、母は「忘れっぽいんだから」と笑う。
「帰宅できたのはいいけど、持ち帰り仕事が終わんないよぅ」
泣き言を口にしながら、母はマグカップを手に取り口を付けた。
「……それってコーヒー?」
「うん。飲んでみる?」
母は揶揄うようにマグカップを見せつける。私がコーヒーが飲めないことをよく知っているくせに。
「飲むわけないじゃん」
私はそっぽを向いた。
怒ったわけではない。緩んだ頬を隠すためだ。
私は母の知らないうちに、少しだけ大人になった。コーヒーが飲めるようになったのだ。
――私と陽介の秘密ね。
母に陽介のことを話したところで、どうにもならない。でも、私と彼だけの秘密と言われたのだから、胸にしまっておくことにする。
「あのさ、ひーちゃんにお願いがあるんだけど」
「何?」
この雨の中、おつかいにでも行かされるのだろうか。
うんざりしながら振り返る。
母は手を止め、私を真剣に見つめていた。「牛乳を買ってきて」または「郵便局に行ってきて」と頼むときの顔ではなかった。
「ひーちゃん、あのね。今度――」