「コーヒー?」

 きょとんとしているうちに、彼はベンチの端にずっと置いていたらしい水筒を手に取って蓋を開ける。コップ代わりの蓋にとくとくと水筒の中身が注がれていく。濃い茶色の液体から、独特な香りが立つ。
 彼は私の顔をうかがい、「安心して」と笑ってみせた。

「このカップ、まだ口付けてないから」

 しかめっ面でもしていたのだろうか。
 べつに、他人の水筒のコップを「汚い」と思っていたわけではなかった。トイレで食事をするのは抵抗があるけれど、潔癖症というわけではない。

 素直に喜べなかったのには、他に理由があった。
 実は私は、コーヒーがあまり得意ではないのだ。

 カフェオレも飲まないし、コーヒー味のお菓子も食べない。その他苦みのある食品も、あえて口にしない。
 得意ではないけれど、せっかく用意してもらった手前、「要らない」なんて言えるはずがなかった。
両手を添えコップを持ち上げる。指先が冷たくなった。昨日と同じで、ホットコーヒーではなくアイスコーヒーらしい。
 自分の鼻先がコップに近づく。おそるおそる、一口すすった。鼻の奥に苦みと酸味が抜け、すぐに消えていく。

「薄い……」

 思わず呟いた。
 味も香りも、とても薄い。顔をしかめる暇さえないうちに、コーヒーの風味は消え去ってしまった。
 私の「薄い」という言葉に反応して、西くんはぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「おいしくなかった?」
「えっ? ううん、違う」

 自分の失言に気がつき、慌てて取り繕う。

「薄いほうがいいんだ。私、コーヒー苦手だから」

 さらに口が滑った。

「なんだ。早く言ってよ」

 彼は穏やかに笑う。

「ジュースとかのほうがよかった?」
「ううん。コーヒーでよかった。苦手だけど、これは飲めそう。初めてコーヒーがおいしいって思ってるとこ」

 真実であることを証明するために、またカップのふちに口をつけ中身を口に含んだ。

「本当においしいよ」

 私は心の底から感動していた。
 コーヒーを味わうなんて生まれて初めてだ。お母さんや友達がコーヒーを飲んでいるのを見ると「信じられない」という気持ちになる。それほど苦手な飲み物だったのに。

「よかった。今日はたまたまあっさりしたコーヒーにしてみたんだ」
「このコーヒー、どこで売ってるの?」

 尋ねると、彼は自宅で豆を挽いて淹れてきたのだと教えてくれた。

「えっ、すごい! こだわりの豆? 豆って高いんじゃないの?」
「高いよ。それ一杯で5000円。消費税込みで5500円」
「えっ、ええええっ!? 5500円!?」

 驚きのあまりコップを落としそうになった。

「そんなに高いコーヒーを飲ませてもらったの? わ、悪いよ。でもやっぱり高いだけあって美味しい!」

 彼は私の隣でいたずらっ子のように笑っている。

「良い反応するね」
「もしかして、今の冗談?」
「当たり前じゃん」

 どうやら私は揶揄われていたらしい。必死になって喋っていたことが恥ずかしくなってきた。頬が熱くなっていく。

「そんなに高いわけないでしょ。ホテルのラウンジじゃないんだから」
「ホテルのラウンジって、そんなに高いの?」
「親戚の結婚式が都内のホテルであってさ、開式まで時間があるから父さんとラウンジに入ったんだ。何も考えずに。メニューを見て目玉とび出そうになったよ」
「私もうっかり入らないようにする……」

 誓いを立て、カップの残りのコーヒーを全て飲み干す。人生で初めて、コーヒーを全て飲みきった。しかもブラックだ。大人の階段を駆け上った気分になった。

 木陰から空をのぞく。
 いつの間にか雨も弱まっていた。そのうち止むのだろう。

「昼休み、暇だったらまたコーヒーを飲みに中庭に来てよ」

 彼は私からコップを受け取り、水筒を締めた。

「ぜひ俺の研究につき合ってほしい」
「研究って?」
「コーヒーが苦手な人でも飲みやすいようなコーヒーを出せるよう、研究していきたいんだ」
「私で研究するってこと?」
「そう。コーヒーを飲んで、忖度無しの評価を教えてくれると嬉しい」

 再び中庭で待ち合わせ、西くんの淹れてきたコーヒーを飲み、感想を伝える。そんなことはお安い御用だった。

「でも何のために? もしかして文化祭でコーヒー屋さんをするとか?」

 喋ってからすぐに、二年五組は演劇をやるのだと思い出す。コーヒー屋さんではない。