――わあっ!と叫んだけれど、時すでに遅し。

 二年生に進級した私は昇降口の前の廊下でよろけ、通行人にぶつかってしまった。重いダンボールを「よいしょ」と持ち上げた瞬間にバランスを崩してしまったのだ。

 私に思いきり体当たりされて、相手も「うわっ」と声を漏らす。
 男子の声だ。
 指定のスクールバッグを肩に掛けた、背の高い男子生徒が目を丸くしていた。
 見かけたことのない顔だった。千秋や友理奈の推しであるアイドルみたいに、きれいな顔立ちをしている。面識が無いということは、おそらく先月入学したばかりの一年生か交流の無い三年生だろう。

 彼の背後には中庭に面する窓が並んでいた。青々とした葉を茂らせる一本の木がベンチに木陰を作っている。
 あの木は桜だ。始業式の時には、まだ白い花びらを蓄えていた。
 すっかり散って、初夏の景色を作っている。

「す、すみませんでした!」

 頭を下げた瞬間に手が滑った。抱えていたダンボールが自分の右足の上に落下する。

「いっ!」

 その場にうずくまる。激痛に顔を歪めつつ、絶叫するのを必死に耐えた。

「たあ……っ」

 悶絶していると、相手の男子の履いている上履きが目に留まった。ラインの色は青。ということは私と同じ二年生だ。
 よく見てみると、スラックスがうちの高校の制服ではなかった。この高校は黒のスラックスだけど、彼が身に着けているのは濃い灰色。他校のものだ。

「大丈夫?」

 心配されて立ち上がる。
 シャツも指定の開襟ではなく、白いポロシャツだった。胸元には他校の校章が刺繍されており、――襟元には茶色のシミがついていた。

 彼は手に水筒を持っている。蓋が開いていた。かすかにコーヒーの香りがしている。
 私がぶつかった時に、水筒の中身が彼の襟にかかったのだろう。己の失態に気がつき、全身からさあっと血の気が引いていく。

「ほ、保健室行きましょう!」

 私はダンボールを廊下の端に寄せ、保健室の方向を指さした。

「保健室?」
「火傷は甘く見ちゃだめですよ! 今は平気でも、後からじくじくしてきますから! さあ、早く!」
「いや、あの」
「どうしよう。朝って養護の先生はどこにいるんだろう。職員室? 保健室? ちょっと探してきますから、待っててくださいね!」

 慌てふためく私の手首を、彼ががっしりとつかんだ。振り返ると、他校の制服を着た男子生徒は顔を伏せている。
「い、痛みが出てきました……!?」

 心配していると「くっくっく」と鼻の奥を鳴らすような音がした。あまりの痛みに泣いているのだろうかと思った。
 けれど、

「お、面白すぎる。笑わせないでよ」

 彼は下を向いて笑いをこらえているようだった。

「ふざけてる場合じゃないですよ!」
「これ、な、中身、コ、コ、コーヒー」

 蓋の開いた水筒が持ち上げられる。また独特の香りが漂う。

「わかってます。だから一刻も早く手当てを」
「ちが。コーヒーはコーヒーでも、……ア、アイスコーヒーだから!」
「…………へっ?」

 アイスコーヒー?

「ごめん。ツボに入った」

 男子生徒は耳まで真っ赤に染めていた。

「キンキンに冷やしたアイスコーヒー。だから火傷なんてしない。ご心配どうも」

 彼はやっと顔を上げる。目元が潤んでいた。水筒の中で氷がカランと涼し気な音を立てた。

「じゃ、じゃあ、よかったけど。でも、そのシミをなんとかしなくちゃ」

 私はポロシャツの襟元を指した。茶色い汚れがどうしても目がついてしまう。

「やっぱり養護の先生に洗剤か何か借りたほうがいいです。もし落ちなかったら私にクリーニング代を請求してください。連絡先教えます」
「いいって。蓋を開けて歩いてた自分が悪いんだし、この制服ももうすぐ捨てるし」

 彼は自分のポロシャツの襟をつまんで引っ張ってみせた。

「捨てる?」
「俺、転入生なんだ。この学校の制服がなかなか届かなくて、仕方ないから前の学校のやつ着てるだけ。上履きとかスクールバッグとか、小物は購買でも買えたけど」
「でも……」
「ほんと気にしなくていいから。じゃあ」

 彼は口角を上げ、水筒の蓋をキュッと締めると廊下を後にしてしまった。

「……気にするに決まってるじゃん」

 背中を見送り、独り言ちる。
 廊下に立ち尽くしているうちに、胸の中にもやもやと霧がかかっていく。

 自分の制服が汚れてしまったら、私だったら一日中気になって気になってしかたがない。ぶつかってきた相手に怒ってしまうかもしれない。
 もしかしたら、彼は転入生という自分の立場を気にして私に強く言えなかったのではないだろうか。
 もう一度ちゃんと謝りたかったけれど、彼が何組かはわからない。二年一組(うちのクラス)ではないことはたしかだ。

 転入生が来たなんて話は初耳だった。タイミング的に、やってきたのは始業式の日だろう。
 友達はもうできたのかな、襟のシミのことを心配してくれる間柄になっているのかな、と余計な心配をしながら教室へ向かおうとし、思い出す。重いダンボールを廊下に置いたままだ。あわてて引き返した。

「よいしょ!」

 周りに人がいないことをよく確認し、掛け声とともにダンボールを持ち上げる。
 その瞬間、よく知るクラスメイトたちの声が背後から聞こえた。