いつの間にか、私は商店街の通路の真ん中に立っていた。目に前には、私を拒絶するようなシャッターがそびえている。
どうやら私はコーヒーを飲ませてもらえぬまま追い出されたらしい。夢だから瞬間移動だってできる。
二階を見上げる。暗い窓に書かれているのは「町の本屋」という白い字だ。以前夢で見たときは「本」だけだったはず。
商店街の通路はカーブしていて、端と端は見えない。人気は全く無い。――と思ったが、学校へと向かう方向から、誰かがやってくるのが見えた。細身の男の人だ。
私はあの人のことを知っている。以前にも夢の中に出てきた。西くんと喧嘩になりそうになっていた男の人だ。
あの人こそ、不審者なのではないか。
私の直感が囁き、警告する。
「……っ!」
背筋が冷たくなり、弾かれたように駆け出した。振り返らなくても男の人が追いかけてくる気配を感じる。
体育の短距離走ではまあまあ良いタイムが出せるのに、砂の上にいるように足が重い。夢の中にいるせいだろうか。
呼吸が苦しかった。夢だとわかっているのに一向に醒めてくれない。
「はあ、はあ、はあ、はあ……っ」
逃げている間にまた瞬間移動していて、私は石の階段を駆け下りている。現実では、商店街の先にある階段は「上り」のはずだ。「不思議の国のアリス」の世界のように何もかもがデタラメだ。
「あっ……!」
つるりと足が滑った。身体が逆さまになる。浮遊感で胃が気持ち悪くなった。
私の右腕が何者かによってつかまれる。
――ひーちゃん!
誰かが叫ぶ。
私の体は止まることなく落ちていく。咄嗟に左手を前に出した。
――ひーちゃん!
私のことを「ひーちゃん」と呼ぶ人は、お母さんと、それからもう一人しかいない。
ある日突然家を出て行った、私の……。
*
「……お父さん」
ベッドの上で目を開ける。狭い自室に朝日が差し込んでいた。こめかみに涙が伝い、耳朶を濡らす。
そうだ。
私はあの日、お父さんから逃げようとしたんだ。
私を追ってきたのはお父さんであって、不審者ではない。不審者と間違われてもおかしくないような行動だったけれど。
西くんから渡されたルーズリーフは昨晩、お母さんの部屋のドアに挟んでおいた。きっと手紙だろうけれど、差出人から言われた通り私は中身を見ていない。頭痛がひどすぎて、母の帰宅を待たずに寝てしまったから、何が書いてあるのか本当にわからなかった。
でも、何となく想像できる。
西くんはきっと、不審者が私のお父さんであることを、不安に思わなくていいことを手紙に書いて伝えようとしてくれたのだ。
怪我をしたあの日、私は冷たく自分勝手な自分のお父さんから逃げようとしていた。
救急車にだって同乗させなかった。
お父さんも。
それから、その場に居合わせた彼のことも。
悪戯っぽい笑顔とともに、コーヒーの香りが鼻の奥で蘇る。
彼は私を「光莉」と呼ぶ、唯一の人だ。
やっと思い出すことができた。
カーテンの隙間からは、青空が広がっているのが見える。昨日の雨が嘘のようだった。
あふれる涙を右手で押さえながら、私も彼の名前を呼んだ。
彼の下の名前を。
「光莉」と呼んでくれた彼に、今さらになって応えるように。
どうやら私はコーヒーを飲ませてもらえぬまま追い出されたらしい。夢だから瞬間移動だってできる。
二階を見上げる。暗い窓に書かれているのは「町の本屋」という白い字だ。以前夢で見たときは「本」だけだったはず。
商店街の通路はカーブしていて、端と端は見えない。人気は全く無い。――と思ったが、学校へと向かう方向から、誰かがやってくるのが見えた。細身の男の人だ。
私はあの人のことを知っている。以前にも夢の中に出てきた。西くんと喧嘩になりそうになっていた男の人だ。
あの人こそ、不審者なのではないか。
私の直感が囁き、警告する。
「……っ!」
背筋が冷たくなり、弾かれたように駆け出した。振り返らなくても男の人が追いかけてくる気配を感じる。
体育の短距離走ではまあまあ良いタイムが出せるのに、砂の上にいるように足が重い。夢の中にいるせいだろうか。
呼吸が苦しかった。夢だとわかっているのに一向に醒めてくれない。
「はあ、はあ、はあ、はあ……っ」
逃げている間にまた瞬間移動していて、私は石の階段を駆け下りている。現実では、商店街の先にある階段は「上り」のはずだ。「不思議の国のアリス」の世界のように何もかもがデタラメだ。
「あっ……!」
つるりと足が滑った。身体が逆さまになる。浮遊感で胃が気持ち悪くなった。
私の右腕が何者かによってつかまれる。
――ひーちゃん!
誰かが叫ぶ。
私の体は止まることなく落ちていく。咄嗟に左手を前に出した。
――ひーちゃん!
私のことを「ひーちゃん」と呼ぶ人は、お母さんと、それからもう一人しかいない。
ある日突然家を出て行った、私の……。
*
「……お父さん」
ベッドの上で目を開ける。狭い自室に朝日が差し込んでいた。こめかみに涙が伝い、耳朶を濡らす。
そうだ。
私はあの日、お父さんから逃げようとしたんだ。
私を追ってきたのはお父さんであって、不審者ではない。不審者と間違われてもおかしくないような行動だったけれど。
西くんから渡されたルーズリーフは昨晩、お母さんの部屋のドアに挟んでおいた。きっと手紙だろうけれど、差出人から言われた通り私は中身を見ていない。頭痛がひどすぎて、母の帰宅を待たずに寝てしまったから、何が書いてあるのか本当にわからなかった。
でも、何となく想像できる。
西くんはきっと、不審者が私のお父さんであることを、不安に思わなくていいことを手紙に書いて伝えようとしてくれたのだ。
怪我をしたあの日、私は冷たく自分勝手な自分のお父さんから逃げようとしていた。
救急車にだって同乗させなかった。
お父さんも。
それから、その場に居合わせた彼のことも。
悪戯っぽい笑顔とともに、コーヒーの香りが鼻の奥で蘇る。
彼は私を「光莉」と呼ぶ、唯一の人だ。
やっと思い出すことができた。
カーテンの隙間からは、青空が広がっているのが見える。昨日の雨が嘘のようだった。
あふれる涙を右手で押さえながら、私も彼の名前を呼んだ。
彼の下の名前を。
「光莉」と呼んでくれた彼に、今さらになって応えるように。