私を下の名前で呼んでくる人は一人もいない。先生や佐々木さんは「成宮さん」、友達は「宮ちゃん」、お母さんは「ひーちゃん」と子どもっぽいあだ名で呼ぶ。

 下の名前で呼ばれるのは、べつに嫌いではない。西くんが「光莉(ひかり)」と呼びたいのなら、全く構わない。でも。

「……私、下の名前を教えたこと、あったっけ?」
「いや」

 彼は口を結ぶ。珍しい表情だと感じたけれど、珍しいと思うほど私たちは同じ時間を共有していない。
 していないはずだ。

「私たちって、本当にただの同級生だったの?」

 そうだよ、と呟くと西くんは踵を返し走り去っていく。追いかける余裕は今の私には無かった。

 西くんに言い出せなかったことがある。
 私は早く帰らなくちゃいけなかった。
 頭が痛かったのだ。西くんがあのシャッターの前で立ち止まった時からずっと。

 渡されたルーズリーフをスクールバッグの中にしまった。右手で頭を押さえながら商店街を行く。アーケードから路地に出ると夕日がぎらぎらと目を焼いてきた。先にある石の階段を上っていく。

 やっとの思いで自宅に着き、鍵を開けて玄関にとびこんだ。
 心臓が強く波打っている。頬が熱い。
 脱いだローファーを揃えることもできず、スクールバッグを放り出し、廊下に倒れ込んだ。
 廊下の冷たさが心地いい。頭痛だけでなく、熱もあるかもしれない。

「わー! 雨だーっ!」

 外で子どもの声が上がる。
 にわか雨が降り出したらしい。









  相変わらず、レインコートの店内は暗い。カウンターの向こうの男の子の顔は見えないし、お客さんは私以外に誰もいない。
 目が慣れて内装は把握できるようになっていくのに、男の子の顔だけがおぼろげなままだなんておかしい話だ。

 でも、これが夢だというなら全て腑に落ちる。

 全身麻酔で眠っている間に訪れた夢の中の喫茶店に、私は再び来店していた。
 病室で目が覚めてすぐに、私はレインコートのことを忘れてしまっていた。でも、当然だ。いつまでも覚えておくことのできる夢なんて、滅多に見られない。

「また来ちゃったの?」

 男の子は――夢の中の西くんは――静かに訊く。
 なぜ私はレインコートの夢を見るのだろう。なぜ西くんが店番をしているのだろう。なぜ私は「ただの同級生」であるはずの彼の夢を見ているのだろう。

 疑問を整理して尋ねる前に、彼は「来ないほうがいいよ」と言ってきた。

「どうして来ないほうがいいの?」
「ここに来ると、色々思い出しちゃうかもよ」
「……思い出すとダメなの?」
「思い出さないほうがいいことって、たくさんあるでしょ」

 現実でも、彼に同じようなことを言われた。

「……たしかに、あるよ」

 私は頷く。彼の言葉には一理ある。
 現実は嬉しいことや楽しいことばかりじゃない。

 小学校は楽しかった。でも三年生の時にいじわるな男の子に消しゴムを取られて、学校へ通いたくなくなったことがある。休んだところで、留守番する自信なんて無い。だから仕方なく登校したけれど、常に胃にきりきりとしてつらかった。

 私が中一の時に亡くなってしまったおばあちゃんは優しかった。保育園の送迎はほとんどおばあちゃんがしてくれていたし、品数の多い夕食だって出してくれた。
 でも、会うたびに「ひーちゃんは鼻ぺちゃだね。今は簡単に整形できるからいいね」と言ってくるのが嫌だった。

 千秋と友理奈の二人には、共通の推しがいる。韓国出身の、すごくかっこいいアイドルだ。ちょっとだけ西くんに似ている。
 去年の夏に彼の出演するフェスが開催されて、二人はそれに参加した。私は誘ってもらえなかった。私はそのアイドルにあまり興味がなかったのだから当たり前だけど、二人がフェスの感想で盛り上がっている姿を眺めている時間は、すごく寂しかった。

 思い出したくないのに、思い出さなくてもいいのに、つい記憶から掘り起こしてしまうことはたくさんある。
 客観的に考えれば「くだらない」と一蹴されそうなことが、いつまで経っても心の中のささくれになっている。きれいなだけの、美しいだけの思い出なんてほとんど無いのかもしれない。
 だから、私が色々なことを忘れてしまったのは、むしろ有難いことなのかもしれない。

「……でも、思い出さなくちゃいけない気がするんだ」

 暗闇の中で、影が私をじっと見つめているのがわかる。

「もう来ないほうがいいよ」

 影は意見を曲げることなく、きっぱりとそう告げた。