たしかに私が不審者に追いかけられたことなんて、彼には関係が無いかもしれない。「他人(ひと)の気も知らないで」、なんて言う筋合いも無い。

 でも、私は恐ろしくて仕方が無かった。すれ違う全ての男の人が不審者のように思えてくる。物陰から監視されているような気分になる。
 こうして中庭にいる瞬間にも、校舎のどこに不審者が身を潜めているのではないか。そのような妄想がなかなか拭えない。

「不安なんだよ。その不審者ことも、全然覚えてないの。今日だって一人で歩いて帰らないといけなくて、怖くて」
「なるほどね……」

 西くんは私を見上げ、何か考え込んでいた。
 きれいな目に見つめられていると、威勢を失ってたじろぎそうになる。

「じゃあ、俺が一緒に帰ろうか?」
「い、一緒に帰る!?」

 思わぬ提案に声がひっくり返る。

「西くんと私が……?」
「うん。ちょうど今日はバイトも無いし」
「西くんってバイトしてたんだ?」

 彼は「まあね」と頷いた。
 目を丸くしている私をよそに、さっさとベンチから立ち上がる。

「放課後、昇降口で待ってるから」
 





 西くんは約束通り、昇降口の靴箱の前の廊下で待っていた。私を見るなり片手を上げる。

「帰ろう。あ、靴出そうか? どこにある?」
「自分で出せるから大丈夫!」

 私は慌てて靴箱から自分のローファーを取り出してはき替えた。別に西くんに靴を触れるのが嫌だというわけじゃない。これは乙女心というやつだ。

 荷物を持つという申し出が彼からあり、それはお願いすることにした。手ぶらになって身が軽くなり、足取りがふわふわとする。
 シンプルなスニーカーを履いた西くんと並び、二人で校門に向かった。

「宮ちゃーんっ!!」
「バイバーイ!!」

 顔を上げると、校舎の四階のベランダに千秋と友理奈がいた。手にはおなじみの楽器を持っている。二人はにやけた顔で私を見下ろしていた。

「バ、バイバイ」

 控えめに手を振り返しながら、明日二人に釈明をしないとな、と考える。もし変な噂が立ってしまったら西くんに申し訳ない。

「私ね、学校では『宮ちゃん』って呼ばれてるんだ」

 世間話をしてみると、彼は「へえ」と気の無いような返事をする。
 同じタイミングで、校舎から「死ねー!」と太い叫び声が上がった。「死ねし!」だったかもしれない。

 驚いてまた顔を上げる。
 千秋たちのいる四階のすぐ下、三階のベランダに男子生徒たちがいて身を乗り出している。西くんは彼らを一瞥しただけで無視し、またすたすたと歩き出す。

「に、西くん、大丈夫?」

 私は恐ろしさにどきどきする胸を押さえながら「死ね」と罵られた同級生の後をついていく。暴言を吐いた男子生徒たちのことも、平気な様子でいる彼のことも信じられない。

「大丈夫って何が?」
「もしかして、いじめられてる?」
「いじめ?」

 彼は眉を顰めた。

「だって今、『死ね』って……」

 ベランダを振り返る。男子生徒たちの姿はまだそこにあった。にやにやと笑っている。
 西くんは「しね……?」と呟き、しばらく首を傾げた後、腰を折って盛大に吹き出した。

「ち、ちが」

 喋れなくなってしまった彼をぽかんと見つめる。どうして笑っていられるのだろう。

「『死ね』じゃなくて、ネ、……『ネッシー』、だから!」

 背中を震わせる西くんの頬は真っ赤に染まっていた。

「『ネッシー』?」
「俺のあだ名」

 どうやら、「ネッシー」を「死ね」に聞き間違えただけのようだ。いじめられているのかと思ってすごくショックだったけど、完全に杞憂だった。
 西くんは呼吸と姿勢を整えながらきれいな目元を指で拭う。笑いすぎて涙が出てきたらしい。

「もしあいつらに『死ね』なんて言われたら、今ごろ教室に乗り込んでる」
「ネッシーって、何だっけ?」
「イギリスの湖にいるって言われてる、未確認生物」

 それを聞いた途端、私の口からぷはっと息が漏れた。

「な、なんで西くんが未確認生物なの!?」
「苗字が『西』だから最初は『ニッシー』って呼ばれてて、そのうち『ネッシー』になった」

 説明しながら、西くんも笑っている。

「ネッシーって本当にいるのかな?」
「いないだろ。そんなもの」
「私も西くんのこと、ネッシーって呼ぼうかな」
「それはだめ」
「ええー?」

 和やかな雰囲気で帰路に就いていることにほっとする。
 世間話を続けながらも、一つ気になることがあった。案内なんてしていないのに、西くんはすたすたと私の自宅の方向へと向かって歩いていくのだ。

「あのさ、私が色々忘れる前に、西くんってうちに来たことあるのかな?」
「いや、無いよ」

 それを聞いてほっとした。
 我が家は2LDKの賃貸アパートだ。母と二人暮らししていく上では何ら問題は無いけれど、千秋や友理奈の住むような一軒家と比べるとやはり見劣りしてしまう。積極的に知り合いを呼びたいと思えるような家ではない。

「でも、うちに来たことがないなら、どうして方角がわかるの?」
「自宅は商店街のちょっと先なんでしょ? あの商店街は俺もたまに行くから」

 どうやら記憶を失う前の私は、自宅が商店街の少し先であることを彼に教えていたらしい。

「商店街に行くって、何をしに?」

 あそこはシャッター街だ。若者が寄り付くような場所ではない。この街で暮らす人々はみんな、買い物は大型のスーパーやショッピングモールで済ませてしまう。

「商店街に着いたら教える」

 どうやら西くんは、商店街を経由して私を送ってくれるつもりらしい。