食事は楽しい雰囲気のまま終了し、私たちは駐車場で別れた。

「良い人そうで安心したよ」

 佐々木さんに対する私の感想に、お母さんはエンジンをかけながら笑った。車は大通りへと滑り込む。

「ひーちゃん、前も同じこと言ってたよ」
「え、ほんと?」

 雨で濡れるフロントガラスをワイパーが拭う。道路は街灯やヘッドライトでぎらぎらと光っている。ぱんぱんのお腹がシートベルトで圧迫されて苦しい。

「大阪に行く気は無い?」

 レストランではまとまらなかった話を、母はまた蒸し返した。

「すぐに?」

 訊き返す自分の声には、驚くほど険が含まれていた。

「うん。九月までには」
「私の気持ちを一番に考えようって、佐々木さんも言ってたじゃん」

 他人である佐々木さんですら気を遣ってくれたというのに。身内である母の図々しさに、私はイライラを募らせる。

「ひーちゃんの気持ちが大事だっていうのは私だって一緒だよ。でも、私もちょっと調べてみたんだけど、ひーちゃんの通っている高校は、大阪にも姉妹校があるの。だから転入するときもかなり優遇されると思う」

 引っ越すつもりで勝手に色々調べていたらしい。当然、私の癪に障った。

「それでもやだ。どうせあと二年もしないうちに卒業するんだから、せめてそれまで待ってよ。二年遠距離してたくらいでダメになるんだったら、最初から結婚なんて考えないほうがいいよ」

 憎まれ口を一気に放った。母は「あのね」と冷静に続ける。

「なに? そんなに早く結婚したいの?」

 私は用も無いのにスマフォを取り出した。

「結局、娘よりカレシのほうが大事ってことだよね」
「違うから!」

 怒鳴られて怯み、スマフォを足元に落としてしまった。怯んだことが恥ずかしくなりカッと頬が熱くなる。
 何か言い返してやろうとして、ハンドルを握る母の手が震えていることに気付く。

「ひーちゃん、付き纏われたんだって」
「…………えっ?」
「ひーちゃん、男の人に付き纏われて、逃げたんだって。それで階段から足を踏み外して……」

 暗い車内の中、母の顔は青ざめて見えた。

「だから、大阪へ行けるんだったら、この街から出られるんだったら早めのほうがいいんじゃないかって思ってる。また変な人に追いかけられたら、今度は骨折だけじゃ済まないかもしれないし」

 ――学校の近所で不審者出たらしいよ。
 ――放課後、うちの生徒が付き纏われてたからみんなも注意しろって。

自分の顔からも、さあっと熱が引いていく。千秋や友理奈が言っていた「うちの生徒」とは、他でもなく私のことだったのだ。
 何より恐ろしいのが、「不審者に追いかけられた」という事実さえ忘れていたことだった。

「……朝、お母さんが車で送ってくれるのもそれが理由なの?」
「そう。心配だから……。放課後だって迎えに行きたいよ。でも、さすがに朝も夜も仕事抜けられない。クビになっちゃう。……それならいっそ、佐々木さんと一緒に大阪に引っ越したほうが安全なんじゃないかって」

 左手の包帯がスマフォ画面の光に照らされている。
 鎮痛剤の効き目はまだ続いているはずなのに、じくじくとした痛みが手首の輪郭をかたどった。






「あれ、また来たの?」

 西くんは重そうな瞼を持ち上げる。

「ごめん、起こしちゃって。寝てると思わなくて」

 昼休みになり、私はすぐに中庭に向かった。西くんを探すためだ。
 彼はこの前と同じようにベンチに座っていた。膝の上に広げた雑誌を随分真剣に読んでいるな、と思ったら、座ったままうとうとしていただけらしい。
 私が声を掛けたせいで起こしてしまった。
 ピピピ、と電子音が鳴り、ベンチの上に置かれていた西くんのスマフォが光る。

「ちょうど起きるところだったから大丈夫」

 彼は大きな欠伸をしながらスマフォを手に取り、タイマーを停止する。

「何か用事?」

 歓迎するでも邪険にするでもなく、ただそう訊かれた。

「ちょっと訊きたいことがあって。西くんは、救急車を呼んでくれたんだよね? 怪我した当日、私が男の人に追いかけられてたってこと、西くんは知ってた?」

 彼は目を擦りながら「まあ」と曖昧に答え、私を見据えた。

「私は昨日、お母さんから聞かされて初めて知ったの。西くんはその人のこと見たの? どんな人だった……?」

 彼はしばらく間を置いてから、「もう大丈夫だと思うよ」とあっさり答えた。

「だ、大丈夫って……?」
「もう現れないはず。『安心して』って、お母さんにも言ったほうがいい」
「……な、何それ」

 カチンと来てしまった。
 質問の答えになっていないし、なぜ無責任にのんきなことが言えるのだろう。